隣の部屋

彩花は都会の喧騒から少し離れた静かな住宅街に引っ越してきたばかりだった。新しい場所での生活には期待と興奮があり、普段の仕事の疲れも忘れられると思っていた。しかし、引っ越しの最初の数日から、何か不穏なことが彼女の周りで起こり始めた。


彩花が住んでいるアパートは、築年数がかなり経っていた。部屋の間取りは古臭いが、広くて使い勝手が良く、何よりも周囲が静かで気に入っていた。ただ一つ気になるのは、隣の部屋のことだった。


隣の部屋には、おじさんが一人で住んでいる。名前は佐藤さんと言って、いつも何かしらの音が聞こえる。音楽を流したり、物を動かしたりしているようだったが、それ以上に奇妙だったのは、そのおじさんが夜になると必ず窓を開け、じっと外を見つめていることだ。最初は気にしなかったが、次第にその行動が不気味に感じられるようになった。


ある晩、彩花は帰宅すると、いつものように隣の部屋の窓から微かに光が漏れているのが見えた。しかし、今回は違った。窓の向こうに立つ佐藤さんの姿が、何か異常に感じられたのだ。彼は静かに立ち尽くし、ただ外をじっと見つめていた。その目は、どこか遠くを見つめているようで、何かを待っているかのような、冷たい印象を与えた。


その夜、彩花は眠れずに窓の外を見ていた。深夜になっても佐藤さんは外を見続けている。時間が経つにつれて、彼の姿がだんだんと薄暗く、ぼんやりと見えるようになり、まるで人形のように動かないことに気づいた。


「おかしい…」


彩花はふと恐怖を感じ、目をそらした。しかし、次の瞬間、部屋の中で何かが落ちる音が聞こえた。驚いて振り返ると、机の上に置いていたカップが床に転がっているではないか。


その音を聞いた後、すぐに佐藤さんの部屋から「カタカタ」という足音が聞こえ始めた。まるで何かを歩いているような、規則正しい音だ。最初は無視しようとしたが、その音がだんだんと近づいてくるのを感じた。


その晩、眠れぬまま夜が明けた。彩花は翌日もどこか気持ち悪い気分を引きずっていた。しばらくして、部屋のドアをノックする音がした。


「誰だろう?」


ドアを開けると、そこには佐藤さんが立っていた。顔を見上げると、彼の目がまるで機械のように無表情で、どこか不安を感じさせた。少しの沈黙の後、佐藤さんが口を開いた。


「隣の部屋、うるさくないか?」


「え?」


「いや、最近、変な音が聞こえないかと思ってね。」


彩花は一瞬戸惑った。彼が言っている音は、もちろん佐藤さん自身が出している音に違いないが、なぜ自分がそのことを指摘されるのか不思議だった。だが、佐藤さんは続けた。


「夜になると、ずっと歩く音がするんだ。まるで誰かが部屋の中をうろうろしているような音…」


彩花は背筋に冷たいものが走った。自分が聞いた音と、佐藤さんが感じている音が完全に一致していたからだ。しかし、どうして佐藤さんがそのようなことを知っているのかが謎だった。


「それにしても、最近、部屋の中が変だと思わないか?」


佐藤さんの声が少し震えているのを聞いて、彩花はますます不安になった。だが、佐藤さんはそのまま言葉を続けた。


「夜になると、私が見ていると、必ずあの人が部屋を歩くんだ。」


「誰が?」


「隣の部屋に、君が見たことのない人がいるんだ。」


その瞬間、彩花は何かが背中を突き刺すような感覚を覚えた。佐藤さんが言っていることが、彼が感じている恐怖そのものであることに気づいた。隣の部屋に、彼が見たことのない「何か」がいる。それが、彼をあの不気味な行動に駆り立てていたのだ。


彩花は急に怖くなり、部屋に戻ろうとしたが、そのとき、佐藤さんが一歩踏み出し、彼女を止めた。


「君も見たんだろう?」


「見たって、何を…?」


「夜、あの部屋の中から誰かが出てきたんだ。」


彩花は恐怖で心臓が早鐘のように鳴り響いているのを感じた。そして、佐藤さんが言う「出てきた誰か」というのが、まるで自分の目の前にいるような気がしてならなかった。


その夜、彩花はもう寝ることができなかった。隣の部屋から、確かに「カタカタ」と音が聞こえた。それは、何度も、何度も繰り返し聞こえた。次第にその音が、隣の部屋からだけではなく、自分の部屋の壁を通しても聞こえてきた。


「どうして、どうして私が…?」


そのとき、彩花は気づいた。隣の部屋の「誰か」が、すでに自分の部屋に入ってきていることに。そして、壁越しに、目の前で歩き回っているのは、間違いなくあの「おじさん」の姿だと思った。


その後、彩花は姿を消した。そのアパートに引っ越してきた他の住人も、同じように夜になると「何か」に引き寄せられているかのような音を聞いたという。あの不気味な歩く音が、ずっと続いているのだ。


そして今でも、そのアパートの隣の部屋には、誰かが歩き続けているという…。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る