雲煙縹渺、ぶらり霧中下車

鳴子さんの家へ向かう最寄駅。

ホームから上り、改札を抜けて南口。

駅前広場に面した階段を下り、陽射しの下に出る。

薄ぼんやりとした視界に日光が刺さる。

まぶたの上からねっとりと瞳を擦られる感覚と共に、頭蓋から意識が引き摺り出されていき、明確になっていく。


無自覚な移動だった。

いつの間に、ここまで向かっていたのだろう。


見慣れた街の風景、しかし見慣れぬ明るさ。

この組み合わせを味わうのはとても稀だ。

広がった青空に、か細く群れをなす白雲。

何度も通ってるうちにこの景色とは見知った顔になったつもりだったのに、少し時間をずらしただけで素知らぬ風にそっぽを向いている。


降って湧いたこの疎外感を受け止めて、しばらくそれを揉み込んでみようかと考えたけれど、その行為は、全身を巡り渦巻くストレスから意識を逸らすための作為的な内省であるとすぐに自覚してしまって、精神的自傷はお預けになる。

現雑逃避すら上手くこなせない自分を、どうにかして殴りつけてやれないだろうか。

しかし、いくら拳を握っても、頭の底に居座る「弁えた自分」がその先を許さない。

激情に身を任せて誤魔化すことも、ろくにできやしない。


この空間には明るく薄い雑踏のみが響いていて、否が応でも私という人間の輪郭を際立たせる。

呼吸をすれば血が巡り、止める間もなく思考が回る。


ああ、さっきまで何があったのかを思い出してしまっている。

嫌な記憶は一度引っ張り出してしまったらどうやっても止められない。

人間の脳はなんて不便なのだろう。


***


ストレス。


自分には向いていない仕事だったのか。

事なかれ主義の上司に嫌気が差したのか。

他人の善意にただ乗りすることに抵抗の無い人達から逃げたくなったのか。

それとも、そんな環境に対して不満を抱きつつもずるずると付き合い続けた自分のだらしなさに、いよいよ我慢がならなくなったのか。


昼休憩の時間が過ぎてしばらく経った頃、同期の1人雑務と自身の失敗の後始末を頼みに私の席にやってきた。

ルーチンワークで笑顔を作り、目の前にいる人間には「 厳しいところもあるが世話焼き」というペルソナを被って対峙する。

いつものように、相手の至らぬ点を指摘し、改善の指針を与え、溜め息を吐きながら後始末の段取りをつけ、タスクを分配する。


そんな感じで普段と同じやり方でいなそうとしていたのに、なぜか、今日に限っては、話している途中に喉の奥から迫り上がってきた不快感をどうしても堪えられず、私は会話を中断してトイレに駆け込んだ。


えづいてもえづいても一向に胃の中のものは吐き出されず、粘りついた口腔からほんの少しの唾液が漏れただけ。

そういえば、今日はご飯を食べてきただろうか。

朝食の記憶は無い。

昼休憩の時間は食事をする余裕が無くてお茶を飲んだだけだったような気がする。


この不快感は本当に腹から生じたものなのか?

私が吐き出したいのはいったい何なのだ?


眉間を押しつぶすような感触が広がり、思考がぼやける。

圧迫感は瞼の裏に滑り込み、ザラついた眼球が集中を阻害する。

湧いた疑問を解きほぐすことを、私自身の無意識が妨げているようにしか思えなかった。

そのことを理解できたとて私に出来ることはなく、気持ち悪さをひたすら我慢するしかないのだ。

だが、やり場のない不快感を抱え、押し潰し、やり過ごすのは、別に今に限った話ではなく、いつものことではなかったか。

ふとした気付きは身体の内側ザラザラと擦り付けていく。


どうしても耐えきれず右手を口に突っ込んで無理やりにでも何かを掻き出そうと試みるも、からっぽの胃はちっとも応えてくれない。

それから少しの間だけぐずぐずと抵抗を続けていたけれど、呼吸を止めるのも限界に達してあっけなく終わりを迎えた。


えづき、咳き込み、幾度か大きく深呼吸をする。

無力感で身体から力が抜け、へたり込む。

うなだれて、肩を揺らしながら息をするだけで精一杯だ。


脳に酸素が行き渡り、思考が冷えていく。

余計なことを考える余地がなくなって、あっさりと答えは見つかった。

手っ取り早くしがみつけるにかまけることで、最初から目の前にあった答えを直視するのを避けていたのだろう。


「馬鹿馬鹿しい……」


口から思わず溢れ出たその言葉が、身体によく馴染む。

ずうっと吐き出したかったのはこの一言だったのだ。


毎日毎日心に重しを乗せられていき、私の精神は既にヒビだらけになっていた。

亀裂は修復ができないほどに広がっていて、今まで器の形を保てていたのは単なる偶然に過ぎず、崩れて壊れる最後の一手を打たれたのがたまたま今日だった。

とうに限界を迎えていた。

その事実を眼前に突きつけられたのが今だっただけのこと。

実に単純な話じゃないか。


理解してしまえばあっさりとしたもので、喉の奥で詰まっていた不快感はパラパラと砕けて身体全体に広がっていく。

血管を通り、手の先、足の先までぐるぐると。


その後、しばらく放心してから最低限の身だしなみを整えてトイレを出たところまでは覚えている。

そのあとは何をしていたっけ。


電車の振動で脳が揺れてる。

ノイズとアナウンスが絶え間無く耳に入り込み、思考は霧散して身体は置物になる。


ふと気が付けば、私の腰掛けている場所は電車の柔らかな座席から固く味気のないベンチへと変わっていた。

どうやって、何を考えて電車を降りたのかはわからない。

背中が少し軋んでいるので、ここに座ってから眠っていたのかもしれない。

ゆっくりと立ち上がり、出口へと向かう。

こんな気分の落ち方をしている癖に案外しっかりと歩けているじゃないかと、なんだか可笑しくなった。


***


そういえば、最近は残業続きで予定が狂って鳴子さんに全然会えていなかった。

無意識のうちにここまで来てしまったのは、そのせいだろうか。

夕方というにはまだ早い時間で、当然ながら鳴子さんは仕事中。押しかけるわけにはいかないし、心配をかけてしまう。


ふわりとした風が吹き、枯れ葉がカラカラと地面を引っ掻いて転がっている。

電車が線路を踏み鳴らし、その振動が減衰しながら私の身体を通り抜けていく。

日光に押し戻されるようにして、街を背にして漠然としたまま踵を返す。

どこへ行こうかと考えることもなく、ぼんやりと足だけを動かしている。

だから、駆け寄る足跡にも気付かず、突然肩を叩かれて飛び跳ねるくらいに驚いてしまった。


鳴子さんだった。


もう少し元気があったらきっと叫び声を上げていたに違いない。

今はまだ喉に違和感があって、声を出すにも出せない状態なのだ。

心臓を大きく揺らしながら慌てて振り返ると、目の前に立っていた。


「あ、ごめん、びっくりさせちゃった」

鳴子さんは目を丸くしながらそう言った。

私の方といえば、ただ彼女を見上げながら返事に窮して口をパクパクと動かすだけだ。

「呼んでたんだけど、聞こえてないのかなって思って。急いでるなら平気だよ」

軽くて小さな気配りの笑い。

「あ、いえ、急いでるとかそんなことは、そんなこと、ない。ちょっとぼーっとしてたの、で」

鳴子さんの表情に申し訳なさが浮かんでいるのを見て否定しようとしたのだけど、慌てていたせいか言葉遣いがあやふやになってしまった。

「そう?こんな時間に見かけたからびっくりしたよ。来るって連絡も無かったから」

自分でもよくわかっていないままにやってきたのだから、連絡を入れているはずもない。

「見落としてないかちょっと探しちゃった」

スマホを取り出して軽く揺らしている。そういえば、鳴子さんには言及しているものに触ったり、そこになければ手で形を作ってみせようとしたりする癖がある。

鳴子さんが少しのけぞっていた身体を元に戻し、私の方にほんの少しだけ寄せてくる。


この距離まで近づくとあらためて身長の差を実感する。

20cm くらいはあったっけ。意識したのは久しぶりかもしれない。

こんなことを考える余裕が生まれたからだろう。身体の強張りをようやく自覚する。

会社にいたときから今に至るまでずっと、緊張しっぱなしだったのだ。

力を抜き、瞼を下ろして、大きく息を吐き出す。


何度か深呼吸を繰り返して瞼を開くと、真剣な顔でこちらを見つめる鳴子さんの顔が目に入ってきた。

でも、すぐにいつものような力の抜けた笑みに戻ってしまったので、気のせいだったのかもしれない。

「せっかくだしうちに寄っていきなよ。おやつでも買っていってさ」

「え、まだ仕事中じゃ」

「そんなんいくらでも調整効くって。長めに休憩取れたから外に出てきたんだし」

「でも、急だし」

「いいからいいから。薄着で出てきちゃったから寒いし、早く行こ」

「あ、うん」


言うやいなや、ほら、と鳴子さんが私の右手を掴み、引っ張っていく。

強引ってほどでもないけれど、普段はあまり感じられない積極さだ。

もつれそうになる足で必死についていく。カツンと床を叩く足音が、なぜだかよく響く。

少し早足だったけれど、階段に差し掛かったところで速度が落ちて、身体が少し、鳴子さんの背中に触れる。

「ごめん、急ぎすぎた」

鳴子さんがつぶやいて、私達は慎重に階段を下っていく。

手を離せばいいんじゃないかな。

そう思っていたのに、なんだか言い出せない。

痛むほど強くはないけれど、うっかり擦り抜けることのないくらいには力が込められている。リードに引かれる犬のような気分だ。


ふと、この状況に既視感を覚えて、思い出を掘り起こす。

場所はどこかの駅。

今とは立場が逆で、私が鳴子さんの手を引いている。

真夏の晴れた空の下、私と鳴子さんが出会った日。


電車の窓越しにベンチで項垂れていた彼女の姿が目に留まり、途中下車して介抱をした、あの日のこと。

久しぶりに思い出して、懐しさに浸ってゆく。


今とは真逆の季節。

暑くて暑くて仕方がなくて、心の疲れを夏のせいだとすりかえてやり過ごしていた、そんな日のこと。

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明里と鳴子 本田そこ @BooksThere

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