選択という行為に生じる慣性の法則について

仕事中の興が乗っている時間に休憩を挟むのはすごく苦手だ。

深夜に漫画を読んでていいとこまできたからすっごい眠いけど続きを読みたい!って時の、睡眠か継続かの二択を迫られている感覚、あれと大体同じだって最近気が付いた。


適度に休憩を入れた方が総合的にはパフォーマンスがいいとか、しっかり寝てから続きを読んだ方が内容がちゃんと頭に入るとか、そこらへんわかってるつもりなんだけど、エンジン全開で脳が情報を出し入れしているハイな感覚がなかなか捨て難くて、結局いつも流されてしまう。

その流れに乗った自分にブレーキをかけるのはとっても苦手で、燃料が尽きるまで駆け抜けてしまいがち。


積まれたタスクをドタバタと捌き、残っていた細かな雑務にまとめて片付けてから仕事用の PC の電源を落とすまでを一息に駆け抜けた。

大きく深呼吸をして伸びをしようと腕を構えたら、凝り固まった背筋が軋み、痛みに押し出された空気が呻き声となって喉から飛び出す。

ズレたままだったヘアバンドを外すと癖のついた前髪が屹立し自己主張している。

その暴れっぷりが真っ暗なディスプレイに反射していて、その下にくたびれた顔面がある。

朝の姿との変わりようがなんだか面白くなってしまうのも、繁忙期の恒例行事だ。


大きく溜息をついた後、キッチンへ向かおうとしてスマホを伏せたままにしていたことに気付く。

少なくと昼を回ってから今に至るまで完全に存在を忘れていたのは確かだ。

もしやと思い通知を確認すると、案の定、明里からのメッセージが届いていた。

最新のもので、2時間前。

通知には内容を表示しないようにしているのでどんなメッセージかは不明。

他愛のない雑談だったり、今日行きますねって連絡だったり、おおよその推測はできるけれど、数時間放置したそれを確かめる際の心理的抵抗はしっかりと存在するのであった。


明里はすぐに返事をしなくても気にするような人間じゃないと思うけれど、それに甘んじたくはないし、こういうすっぽかしをやってしまう自分に対して忸怩たる思いを抱くのだ。

仕事に集中していたとはいえ合間に全く休憩を挟まなかったわけではないのだから、そういう時にしっかり頭を切り替えて休んでいれば明里のことにも思い至って気づけたのではないかとか、ぐじゃぐじゃとした考えを捏ねくり回してしまう。


だがしかし、そうやって頭の中でもごもごと言い訳を重ねていても仕方ないので、踏ん切りつけて気合を入れる。こんな逡巡も何度目になるだろうか、強引な頭の切り替えにもさすがに慣れたものである。

深呼吸の後、スマホのロックを解除してメッセージを確認した。


***


週末の夜ともなれば、繁華街とは言い難いこの街も駅前は人の往来が激しい。

人の流れから外れた、広告を着飾った柱の陰でスマホを眺めていると、右肩をポンと突つかれる。

顔を向けると明里がこちらに顔を向けていた。ただし視線は少し下向き。

「シャワー、浴びてきたんですか?」

「軽くね。スッキリしたくて」

すると、彼女の指先が私の髪にほんのりと触れてくる。

「毛先までちゃんと乾かした方がいいですよ」

毛先をゆっくりと擦られて、なんだか首周りがむずむずとする。

「歩いてる内に乾くかなって思ったんだけど」

明里に触られているのと反対側の毛先を自分でも確認してみると、確かにしっとりしている。風そんなに強くなかったし、さすがに無理だったか。


明里からのメッセージは、『今日、行く』という一言と寝てるキャラクターのスタンプのセット、その数時間後の『まだ帰れない』『疲れた』で全部だった。

『ごめん見てなかった。さっき仕事終わった』

そう返事をすると既読がすぐについたので、どうやら仕事は終わったようだった。


『大丈夫/まだ電車乗ったばっか/今日平気?』

『(サムズアップの絵文字)/外でご飯食べよ/やる気ゼロ』

『肉とかお鍋?』

『適当に探そ/空いてるかわかんないけど多分どっか入れる』

『(涙を流しているスタンプ)』

『駅で待ってる/いつ着きそう?』

『あと30分くらい』

『(サムズアップの絵文字)』

『(寝てるキャラクターのスタンプ)』


明里の顔をよく見てみると、目元がぼんやりとしていて寝起きの気配を感じる。

電車での移動中は座って眠れたのだろう。

「とりあえず北口方面で探そっか。今はお腹どんな気分?肉?鍋?」

「お肉は絶対。でも野菜もしっかり食べたいで……かも」

「じゃぁ鍋かな。金曜でも二人ならいけるでしょ、多分」

駅を出て少し進んだ先に、何度か一緒に行ったチェーン店がある。

ひとまずの目標地点をそこにした。


しばらく歩いた先の信号待ちで、明里が大きく深呼吸をする。

マスクの隙間から漏れ出た白い息がゆらゆらと空に消えていく。

「ほんっとお腹空いた」

深呼吸から一拍空けてそう呟いて、さらに追加で大きく溜息を吐く。

「話し方、無理に変えなくても大丈夫だよ」

提案したのは明里の方からとはいえ、私に何か気を遣っているのかもしれないと思うことはないわけではなく、こういう時にふと尋ねてしまう。

「いや、そうじゃないの。仕事モード引きずってつい出ちゃうの」

「ああ、そういう感じ……」

「頭疲れてると切り替え上手くいかなくて更にストレス」

明里は何かを振り払うように頭を振る。

「あっちとこっちが混ざっちゃう感じで嫌。自己が侵食されてる」

声に力が入っている。

自分は幸いにも公私の公を私に寄せやすい環境で働けているので、そういった切り替えについてあまり気にしたことはなかったけれど、業界次第ではそうも言ってられないのだろう。

仕事中に被っているペルソナを、私的な時間だからと易々と剥がせるわけではないのだ。オフィス勤務でコミュニケーションに費やす時間が多い職種なら尚更だろう。


明里の感覚をある程度想像はできても、それに対する返事として自分にとって実感のある言葉を紡ぐのは難しい。

そういう面倒を避けて今の環境に辿り付いた身ではあるけれど、たまたまそれができる分野に身を置いていただけで、確たる信念で見つけ出した道でもない。


「たまにいるじゃん。仕事とプライベートの切り替えがすっごいハッキリしてる人」

顔見知り数名の顔を想像しながらそんなことを口にする。

「うん」

「そのこと自体は羨ましいんだけどさ、だいたい妙にエネルギッシュで」

「確かに」

「さすがにああなるのは無理だなって思う」

「ね。別次元」


***


目的の店に着いたら少し混んでいて、店員からすぐには入れないと伝えられた。

既に鍋を求める胃袋になっていた私たちは別の店を探す気にもなれず、しばらく待つことにした。

別の店にすぐ入れればいいけど、そうじゃなかったら食を求めて夜道を彷徨い歩くことになり、空腹と疲労の二段重ねは必至である。

それに比べれば、一週間分の疲れを背負う身にとっては時間さえ費やせば食にありつけるこの判断は理に適っていると言える。


「あ、いい匂い」

明里がマスクの下で小さくスンスンと空気を吸っている。

順番待ち用の椅子は店の外に置かれているので、一応ビルの中とはいえ空気は冷たい。コートに身を包んだままこじんまりと座っている姿が、なんだか餌を求めて立ち尽くすハムスターのように見えた。

ビスケットかクッキーを持っていたら餌付けをしていたかもしれない。

一方の私も、両手をコートのポケットに入れて首を引っ込め、置物と化している。


「今日は泊まってく?」

「鳴子がよかったら。平気?」

「平気平気。いつもとおんなじ週末だよ」

仕事の方は日々刻々と形を変えて関わる皆を嵐に巻き込んでいくが、仕事場の環境は極めて安定している。手を入れる余裕がないというのも理由の一つだが、変化がないということに安心感を覚えるのもまた真だ。

明里が泊まる際の各種セッティングも、いつも通り手軽に準備可能となっている。

「あ、そうだ」

明里がくい、と顔を上げる。

「観たかった映画、この前配信されてさ、それ観よう」

「いいね。じゃぁご飯の時はお酒控えとくか」


明里がうちに泊まっていくとき、お互いそれほど会話が得意な方ではないので、映画やアニメを観ながら晩酌をして夜更かしをすることが多い。

別に部屋で黙々と過ごしていても気まずくなったりはしないけど、手持ち無沙汰になるとすぐに寝入ってしまってなんだかもったいない。


いつだったか、せっかく私的な時間を確保できたのに疲労回復の為に早々に眠ってしまうのはなんだか社会に負けた気がして嫌だと明里が豪語していたのを覚えている。

私としても、明里と過ごす時間を確保するようになったことで仕事と私用の時間をちゃんと切り替える意識が養われたように思うので、その信念には感謝している。


「いつもありがとね」

と明里が言う。この台詞は毎度恒例のものだ。

「どういたしまして」

私の返事も同様に。


元々他人を家に招くようなことがない生活をしていたので、初めて明里を自宅に招いたときはだいぶぎこちない振る舞いをしたと記憶している。

その時と比べると、いつの間にやら随分と慣れたものである。

招かれる側の明里の方も、だいぶ緊張が薄くなってきたように見える。

お互いの日常に、よい習慣を取り入れることができたのだろう。

少なくとも私はそう考えている。


ゆえに、今日もまた右ポケットに入れている鍵のみに出番が与えられ、左ポケットに入れてある二つ目の鍵はいつも通り私の手元にあるままなのだろうなと他人事のように思うのであった。

流れに身を任せることへの安堵は、手強く抗い難い。

慣性に逆らえるほどのエネルギーと勇気を、私は未だに持ち合わせていないのだ。

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