この広い世界を辿る。タンデムバイクで、母と。

るねこ院600

また目指そうよ。フランスに、僕が連れていくよ。


「達也、どこにいるの?」


 すぐ近くから、母が僕を呼ぶ声が聞こえる。


「ここにいるよ。どうしたの?」


「悪いんだけど、お茶が飲みたくて」


「わかった。待ってて」


 僕は冷蔵庫からペットボトルの緑茶を湯呑に注いで、母の手元まで持っていき手に握らせる。母はごめんねと言って、お茶を飲む。


 ここまでで、僕らの会話は終わった。

 ずいぶん前からずっと、僕ら親子はこんな最低限の事務的な会話ばかりになっていた。


 僕たち吉永家は、客観的に見て不幸な家族だった。

 よわい五十二を数える母は、視力がもうほとんど無い。父は他界してしまった。

 二人が同じくするの勤め先で起こった事故が原因だった。室内で有毒ガスが大量に漏れたとかで、母は目を患い、父は治療の甲斐なく帰らぬ人となった。

 深刻な労災ということで、会社から見舞金は充分すぎるほど出たほか、ハンデを抱えた母の雇用も継続された。

 しかしその事故以来、僕ら家族から笑顔はほとんど消えてしまったままだった。


 様変わりした就労環境に馴染めず早期退職を選んだ母と、母とは違う企業の若手会社員で独身の僕との二人暮らし。僕が会社で仕事している間は、雇っているヘルパーさんが母の面倒をみてくれている。

 ヘルパーさんはビジネスライクにお付き合いしてくれているが、それはあくまで雇用関係にすぎない。ヘルパーさんが帰ったあとは、母と僕との異様に静かな時間が訪れる。

 笑顔が消えた母。ため息ばかりつく母。僕に対していつも後ろめたいような態度を取り続ける母……。


―――美代子のこと、よろしく頼む。


 父が病床で僕に託した遺言を思い出す。父は母、美代子の余生を憂いでおり、僕はそれを請け負った。

 しかし現実は何もできていない。

 毎日繰り返されるよそよそしいやりとり。ずっと独身で、孫の顔を見せるどころか彼女を紹介するなんてことすらできそうにない。そもそも顔を見せてやりたい母が失明してしまっては、顔を見せてあげようもない。


 母がよく笑っていたのはいつだっただろうか。

 過去の記憶を思い返してみると、そういえばよく笑っていた時期があった。

 あれは僕が中高生だった頃、母はとある趣味に没頭していた。

 それは、自転車で遠く遠く、長い距離を走るブルベと呼ばれるもので、週末によく家を空けては全国津々浦々を、長いときは何日もかけて走っていた。その土産話を面白おかしく語る母に父や僕はあきれつつも楽しく聞いていたものだ。

 中でも、そのブルベの最高峰で、パリ~ブレスト~パリという、フランスを一二〇〇キロも走るイベントを完走して帰ってきたときの母の喜びようは、それはもう子供のような大騒ぎだったのを覚えている。

 そんな母は、視力を失って以来自転車に乗ることは無くなった。ものが見えないのだから当然だ。

 もう一度自転車に乗れるようになれば、母はあの頃のように元気になって、僕たちは自然に会話をして、元の家族に戻れるようになるのだろうか。


 漠然とそんなことを思っていたある日、漫然と眺めていたパラリンピックの中継で、盲目の選手が走る自転車競技があるということを知った。

 タンデムバイクという、一台の自転車に前席と後席が備わった二人乗りの自転車を用いて、健常者がパイロットと呼ばれる前席、盲者がストーカーと呼ばれる後席に座って力を合わせて漕ぐのだ。公道でも走れるという。


 これだと思った。


 僕はネットで中古のタンデムバイクを探し出し、母に秘密で家に運び入れた。

 二人用だけど、まずは一人で走ってみた。

 少し重いし、ホイールベースが長いぶん取り回しが難しいところはあるけど、スポーツ車なだけあってママチャリより軽快に走れた。

 それでも、サイクルスポーツなんて素人だった僕は百キロでへばってしまった。

 かつての母は二百キロも三百キロも、千キロだって走っていたのに……。

 今更になって母の背中の大きさを痛感するとは思わなかった。




「母さん、ちょっといいかな」


「えと……どうしたの、達也。母さん、何かしちゃった?」


 頃合いを見て僕は母を呼び出し、タンデムバイクの横まで誘導した。

 母の手を取ってハンドルに触れさせると、母は目を見開いて固まった。


「達也、これ、自転車? どうしちゃったの」


「買ったんだ。二人乗りのやつ。これなら母さんでも乗れるんだ。だからさ、また目指そうよ。フランスのあの大会に、僕が連れていくよ」


「達也、あんた……」


「一緒に行こう。母さん」


「達也、ありがとう……ありがとう……」


 手で口を押えて静かに涙を流す母の姿を見て、僕はこれが間違いじゃなかったと安堵した。




 僕らはすぐにタンデムバイクで二人乗りの練習を始めることにした。

 二人のペダルはチェーンで連動しているので、息を合わせて漕ぐ必要がある。

 それ以前に、目が見えない母は僕の操縦によって起こる全てのことに身を任せるしかない。不安に思っていないかと聞いてみると、母はこう答えた。


「全然。なんの心配もしてないよ」


「でも、もしも僕がミスをして、そしたら最悪死ぬかもしれないよ?」


「死ぬのは嫌よ。怖い。でも、そうだね。もし死ぬときあんたと一緒なら、それはそれでいいのかもしれないかなって思うわ」


「……そう」


 思いがけない返答に、僕は歯切れの悪い反応を返すことしかできなかった。

 僕の背後には、それだけの覚悟を持った人がいて、力を貸してくれるのだ。

 二人で乗って走るタンデムバイクは、一人で漕いだときよりもずっと力強く進むように感じた。




 走るのに慣れてきた頃合いで、僕らは二百キロのブルベに参加することにした。

 僕にとっては初挑戦で、母にとっては復帰戦だ。


「ミヨちゃん! 久しぶりだね。あの時のことは本当にご愁傷さまでした」


 主催のスタッフである滝本さんは、母を温かく迎え入れてくれた。


「タンデムがうちのクラブのブルベで走るのは初めてだよ。頑張ってね。ミヨちゃんの息子さん」


 禿頭とくとうがよく映える滝本さんに送り出されて、僕らは長い旅路に出た。二百キロなんて母にとっては短距離だったのかもしれないけど、僕にとっては未知の距離だ。


「大丈夫だよ。達也ならできる」


 背中から届く母の激励を受けて、僕は頑張って道を進んでいく。


「がんばれー!」


 横を通り過ぎたクルマからも声援を受けた。

 母に聞いても、全く聞き覚えのない声らしい。たぶん全然知らない他人だ。

 きっと母が背中に掲げている障碍者シンボルを見ての応援だろうか。まだまだ人間捨てたもんじゃないなだなんて、純粋にそう思った。


 遠くまで行くと流れていく景色はどれも新鮮で、僕はそれを目が見えない母と共有したくて、一生懸命言葉にして伝えた。

 少し前まで僕らはぎこちないままだったのが噓だったかのように、言葉を交わした。

 ほころびかけていた家族の絆は、自転車のおかげで再びり合わされていった。


「完走おめでとう! すごいよ二人とも。信じられない……。すごい、すごいよ……!」


「もう、タキさん。なんだあんたが泣いてんよの。たったの二百でしょ。たったの、二百キロ……なのに。私、とっても……うっ……」


 僕らは二百キロブルベを完走することができた。終わってみればあっけない幕引きだった。

 しかし我がことのように喜びを爆発させ、仕舞には泣き出してしまった滝本さんと、それを受けて貰い泣きしてしまった母の様子を見ていると急に実感が湧いてきて、胸の奥に熱いものを感じずにはいられなかった。


 それからも僕らは精力的にブルベに挑戦し、ついには年内に六百キロのブルベ完走も成し遂げることができた。

 本当に大変なライドだったけど、達成感はひとしおだった。同時に、PBP……パリ~ブレスト~パリはこの倍を走るのかと思うと、気が遠くなりそうだった。

 親子二人三脚でPBPを目指す盲目のタンデムランドヌーズとして、いつしか僕らの知名度は界隈のごく一部に浸透していて、ときおり応援のメッセージをもらえるようにもなっていた。

 中には無理だ無謀だと言ってくる人もいたが、話してみれば最後には真剣なアドバイスをくれた。

 このときにはもう、僕の中でPBPの参加は現実的なものとなって固まっていた。




 いよいよPBPイヤーがやってきた。PBPは四年に一度しか開催されない。母の年齢も考えると、できれば今年目標を成し遂げたい。


「母さん。今年は大変な一年になるね」


「頑張ろうね達也。私も頑張るから」


 必勝を誓い合った僕らがまずしなければならないことは、PBPの参加資格であるSRを得ることだった。

 SR……シュペール・ランドヌールとは、同一年内に二百、三百、四百、六百のブルベを完走することで得られる称号だ。

 単純にSRを取るだけならば一年かけて走ればいいのだが、PBPの出場資格として得るには開催までの約半年間で走りきらねばならなかった。


 僕らはどうにか五月終わりまでにこれを達成することができたが、別の問題が発生した。


「ごめんなさい。PBP、出場できなくなりました……」


「そ、そうですか……」


 僕の目の前で頭を下げている女性は倉田さんという、ブルベに参加していく中で知り合った女性だ。

 なんでも、母がまだブルベに出ていた頃からの自転車仲間だったとのことで、今年のPBPを一緒に走って母のサポートをお願いする予定だった。国内ならまだしも、異国の地でトイレやシャワー、仮眠までをも男の僕だけでは支えきれないからだ。

 さらに言えば、倉田さんは英語が堪能でフランス語も少しはできるという非常に心強い味方だった。正直、彼女を失うのは惜しい。


「私の知り合いを代わりに紹介できればいいんですけど、彼女、かなり後ろの組で出走予定ですから追いつけるかどうか……」


「いえ、大丈夫です。きっとなんとかなりますから」


「本当にごめんなさい。私もルディアックとか、途中のコントロールで待機して応援しますので」


 走行中にサポートできるのは原則出場者だけだが、途中通過するコントロールと呼ばれるポイントであれば部外者でもサポートしてもよい。彼女が申し出てくれたのはそういうことだ。

 それはありがたいが、やはり画竜点睛を欠くサポート体制に不安は拭えなかった。




 いよいよ渡仏のときがやってきた。

 タンデムバイクは大きいが、僕らが乗っているのはフレームを分割して運べるように工夫がなされたものだったので、飛行機の預け荷物として運ぶ。

 遠征にはツアー会社の企画に申し込んだが、一人五十万円、二人で計百万円もかかってしまった。

 こういうとき、僕が全て支払えたら格好がつくんだろうけど無い袖は振れず、一部は父の遺産を崩して支払った。

 天国の父も母の夢を応援してくれていると思うから、きっと許してくれるはずだ。


 シャルル・ド・ゴール空港に降り立つと、母は懐かしい匂いだと言って微笑んでいた。

 これから僕が進む先は、母の足跡の追憶だ。ここで嗅ぐもの、見るもの、聞くもの、触れるもの、その全ては過去に母が乗り越えてきた旅路。

 そしてこれから、それを二人で乗り越えるのだ。


 PBPは世界各地から数千人ものロングライダーがやってくる大イベントだ。

 スタート地点であるパリ郊外のランブイエ城へ組み立てたタンデムバイクで乗り付けると、そこには大勢の自転車乗りが跋扈ばっこしていた。

 ここにいる全員参加資格を得、そしていまから一二〇〇キロを走らんとする猛者ばかりだ。信じがたい光景だった。


 タンデムバイクはスペシャルバイクと呼ばれるクラスに分類され、普通の自転車とは異なる出走順からのスタートになっていた。

 スペシャルバイクの出走組であるF組の待機場所に着くと、そこには日本では見たことのない異形の自転車が群れを成していた。中には宇宙船のような形の自転車もある。さすがは本番フランスの伝統ある国際大会、何もかもが特別だ。

 そして、いよいよ僕らの長い長い戦いが始まった。




 初めは順調だった。

 右側通行の道を、前にも後ろにも果てしなく続く自転車の隊列に紛れて進む。

 一本道の脇に広がる草原、放牧されているらしい乳牛や馬、時期が外れて首を垂れたヒマワリ畑。町へ入ると歴史を感じる石畳や教会の広場、それを囲う小洒落こじゃれたカフェテラスが待ち受け、沿道から応援している地元の人々の多さに驚かずにはいられなかった。


「ああ、そうだ。十二年前もこんな感じの雰囲気だった。私、本当にここに戻ってきたんだ」


 背後にいる母は強い実感がこもった言葉をつぶやいている。

 かつて母が帰国後に僕と父に語らったあの土産話は本当に嘘偽りなかったのだと理解し、当時話半分で聞いていた僕は心の中で謝罪した。


「ごめん達也、トイレに連れて行ってくれない?」


 まだ百キロ地点のウェイポイントで、早くも僕らは窮地に陥っていた。

 母からそう聞かれても、トイレの場所なんかこっちが聞きたいぐらいだし、知っていても入口までしか付き添えない。日本であれば交渉で切り抜くことはできるが、ここフランスで交渉なんて僕にはできない。やはり倉田さんの不在は痛かった。

 困り果てていたところに、一人の女性が近づいてきた。


「Can I help you?」


 どうやら彼女は僕らを助けてくれるらしい。

 僕の拙い英語と身振り手振りで理解してもらえたのかはわからないが、母は彼女に付き添われてトイレへ向かい、しばらくして無事に戻ってきた。


「達也、たぶんこの人、一緒に来てくれるって言ってると思うんだけど」


 それは天恵だった。翻訳アプリなどを駆使して詳しい話を聞いてみると、この女性はエマと名乗るフランス人で、僕らのひとつ後のグループから出走したそう。その途中で僕らを見かけて気になっていたらしく、このウェイポイントで困っていた様子の僕らに力を貸そうと思ったそうだ。


『私が責任もって最後まであなた達をサポートするわ』


 彼女の申し出に、僕はどこまで信頼したものか判断に窮したが、母はこれを歓迎し彼女を仲間に引き入れた。母曰く、共に走る仲間だからこそ通じ合うものがあるのだそうだ。


 エマさんは地元フランス人ということもあり、道中の安くて美味しい食事処を案内してくれたり、医薬品の購入も助けてくれた。

 四百キロ地点にあるルディアックのコントロールに到着すると本当に倉田さんが待機していて、電子機器の充電や食料補給をサポートしてくれた。さらにはフランス語でエマさんと会話もしていた。おそらくは母のことについての引継ぎ事項だろうと思う。


 ルディアックで一泊した後、身も装備もリフレッシュした僕らは西を目指して走り出す。

 細かいアップダウンと小高い山を越え、やがて賑やかな港町にたどり着いた。

 ここが折り返しとなる六百キロ地点の街、軍港都市ブレストだ。

 ついに六百キロ。僕にとっては最長距離タイであり、ここから先は未知の領域だ。


「母さん。僕ら、残りの六百キロもちゃんと走り切れるかな」


「大丈夫だよ。十二年前の私だって走りきれんただから、息子のあんたができない道理は無いじゃないか」


 母のその激励はやや無理筋だと思ったけど、ここまで来たらもう走るしかないのだ。

 腹をくくり、復路へ立ち向かった。




「お疲れ様です! あれ? エマさんは?」


 八百キロ地点、二回目のルディアックに到着した僕らを出迎えてくれた倉田さんのセリフは、エマさんの不在を問う言葉だった。

 そう。ここに来るまでの間に、エマさんとは別れてしまった。

 原因は三度目の夜。真夏とは思えないほど急激に冷え込んだ気温のせいで、エマさんは低体温症を起こしてしまったのだ。僕らが運んでいる装備では彼女を救うことができず、結局はエマさんの後押しもあって僕らは先を急ぐことにしたのだった。


「そうですか……。彼女が居れば安心だと思っていたのですが」


 それについては僕も同感だったが、ないものねだりをしても得るものは何もない。

 今僕らができることは、ただ愚直にペダルを踏むことだけなのだから。




 ペースが上がらなくなってきた。

 原因はわかっている。まずエマさんの脱落で母のサポートが難しくなったことと、さらには僕の体力の問題だった。

 かれこれ九百キロを走り、僕の体は今全身が絶え間なく悲鳴を上げている。痛みを感じない部位を探すほうが簡単なほどだ。

 この有様で残り三百キロ。たったの三百キロと言うのは無理な距離だろう。あまりにも果てしなくて、心が折れそうだった。

 そんなときだ。


「こんにちは。あなた達が吉永親子で間違いありませんか?」


 倉田さん以来に聞く日本語が耳朶じだを打った。

 声のしたほうへ顔を向けると、小柄な日本人女性が横を走っていた。


「そうです。吉永は僕らです」


「良かった。やっと追いつきました。倉田さんから話は伺っています。彼女に代わって私、大野が美代子さんのお手伝いをしますので、どうぞよろしくお願いします」


 朗報だった。聞けば大野さん、ここまで大勢の速い人の後ろに付かせてもらって、できる限りのスピードで僕らを追いかけていたらしい。こちらが失速したこともあって追い付けたのだろう。

 思わぬ助っ人の大野さんの力を得て、今度こそ僕らは盤石の態勢でゴールへ向かうことができる。

 その、はずだった。




「吉永さん。このままではタイムアウトしてしまいます」


 残り百キロのコントロールで食事をとる僕らに、重苦しい大野さんの一言が突き刺さる。

 PBPはレースではないが、制限時間がある。僕らに課せらている制限時間は九十時間で、現在スタートから八十五時間が経とうとしている。正直、こうして食事をしている場合ではないほど切羽詰まっている。

 しかし僕も母も、全身は痛いし疲労も濃くてペースが上がらないのだ。先へ進まなければいけなのはわかってはいるが、一息入れなければ全く脚が動かなくなってしまう。

 一同深刻な表情でパスタを食べていたら、通りがかりの外国人が英語で声をかけてきた。正しく聞き取れた自信はないが、彼はきっとこう言っているのだと思う。


『Fクラスでスタートした君たちがここにいちゃタイムアウトになるかもしれないじゃないか。早く行くんだ』


 親切心で急かしてくれた彼に、僕は今置かれている窮境を拙い英語で訴えた。

 すると彼は、ついてこいとジェスチャーをしてきて、僕らは彼についていった。

 彼が向かった先は駐輪場で、そこには彼の仲間と思しき男性が二人待っていた。


『俺たちが君らを引っ張る。絶対に間に合わせるから、死んでもはぐれずついてくるんだ』


 彼ら三人が風除けとなって、僕らを導いてくれるらしい。

 もはや迷っている時間は無かった。


「よろしくお願いします。 Please help us!」




 巨漢の男たちを風除けに、僕たちのタンデムバイクはパリを目指す道を着実に進んでいく。

 先ほどまでよりずっと楽にスピードが出せる。これならばどうにか間に合うかもしれない。

 希望が見え、先ほどまで沈んでいたメンタルに復活の兆しが見えた。


「ねえ、母さん」


「ん、なんだい?」


「母さんはこの道を一人で走りきったんだね。すごいや」


「そう思うかい?」


「思うよ。僕はもう今まさに満身創痍で、こうして誰かに助けてもらってようやくギリギリなんだ」


「そうだね。でも、十二年前の私だって大勢の人の力を借りて、今みたいにギリギリになってゴールしたんだよ。今だって、達也が母さんの手を引いてくれなかったらずっと家の中でひっそりと暮らしているだけだったと思う」


「…………」


「達也、誰かに頼るってことは恥ずかしいことじゃないし、昔の母さんと比べる必要なんてないんだよ。今を一生懸命生きてるってことが大事なんだ。今の達也は、他の誰よりも必死で、一生懸命で、私にとって一番頼りになる自慢の息子だよ」


「……母さん」


「ありがとう達也。もう一度夢を見させてくれて、夢を叶えてくれて、ほんとうにありがとう……」


「僕はちゃんと、親孝行できたかな。母さんが僕にしてくれたこと、返せたかな」


「うん……うん。いっぱいもらったよ。ほんとに、私にはもったいない子だ」


 そのとき、いきなり背中を強く叩かれた。叩いてきたのは、前を引いてくれた人の一人だった。


『ここまでくれば大丈夫だ! よく頑張った! あとはゴールするだけだ!』


 その言葉に安心してしまい、僕は一瞬力が抜けてしまった。

 ハッとして気を取り直すと、いつの間にか僕らの周りは大勢のランドヌールで囲まれていた。日本人も、フランス人も、ラテン系もインド系も関係なく。本当に大勢だ。


「……どうやら吉永さんたちがゴール間近と聞いて、集まってきたようです。お二人を見て心配していた人、結構いたようで」


 大野さんが推論を教えてくれる。

 まだゴール前なのに、僕らの周りはもうお祭り騒ぎだった。次から次へと体を叩かれ、声を掛けられ、歌まで歌い始めた。

 イッツ・ア・スモールワールド。世界中の誰もが知っている歌だ。


「イッツ・ア・スモールワールドねえ、母さんはビッグワールドだと思うけどね」


「あはは。母さんらしいや」


 世界は想像もできないほど大きい。

 こうして海外を遠くまで走ってみて、僕も母さんと同じように感じた。


「綺麗だね。母さんにはもう何も見えないけど、今目の前の全てが世界一綺麗な光景だってわかるよ」


「うん。僕もこんなに綺麗な光景、人生で初めて見るよ」


 ランブイエ城内、ゴール前の最後の一本道。沿道には日本で知り合った仲間や倉田さん、エマさんも駆けつけてくれていた。私服に着替えているってことは、エマさんはリタイアしたのだろうか。


 花道をゆっくりと進み、僕と母はどうにか時間内でPBPをゴールした。長い、本当に長い一二〇〇キロの旅路だった。

 ゴールゲートの真下で立ち止まり、放心してしまう。


「達也、どう? ゴールはした?」


「…………」


「……達也?」


「ゴールしたよ。ゴールしたんだ。やったよ母さん。時間内完走だ」


 言ったそばから、背中から手を回されて抱きしめられた。

 母から抱擁を受けるなんていつ以来だろうか。もう記憶にもない。


「…………ありが……とっ…! うぅ……!」


「なんだよ母さん、泣いてるのかよ……」


「うっ……、っ……!」


「僕も母さんが見てきた景色が見られて、一緒に走って、しゃべって。あの日ずっと気まずいままだった毎日から、ようやく、えっと……なんだ。やっと、母さんと素直に話ができて、恩返しができて、あと……、そうだ、母さんはやっぱりすごかったんだなって、わかって。それで……それで……」


 もう二人とも涙が止まらなくて、僕自身何言ってるのかわからなくて。もう滅茶苦茶で。

 ああ、もう難しく考えるのはやめよう。

 このひとことで、いいんだ。


「ありがとう、母さん。全部、全部ひっくるめて、ありがとう……」


「うん……ありがとう達也。達也と家族でいられて、母さんは世界一幸せだよ」


 万国の言語で祝福の声が飛び交う。

 僕らの想いを運んだタンデムバイクは、それを静かに見守っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

この広い世界を辿る。タンデムバイクで、母と。 るねこ院600 @nyolo7900

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ