バカシアイ
『なぁ……おかあちゃん』
古い記憶の中で、ゆらゆらとか細い煙が舞い上がっていた。離れた場所から見るソレは煙管のように頼りなく、見上げる頃には大気に混じって拡散している。
それは祖父と最後のお別れをした日のことだった
幼いマコトは目を真っ赤にして、じんじんと痛む鼻を啜っている。
『うち、ちゃんとした方がええんかな?』
『…………なんで?』
『だって、うちは江戸の八尾狐の孫やから。うちがしっかりしてへんかったら、爺ちゃんかて安心して成仏でけへん』
問いかけるマコトに、母は首を横に振る。
『そのままでええよ』
『でも、今まで怒られてばっかやったから』
『爺ちゃんかて、ほんまは分かってた。心配してたんや。マコトがそういう子やから、これから見守れんことが悔しくて、だからせめて言葉だけでもって』
そう言って母はマコトの頬を舐めた。拭き取られたばかりの涙は、その温もりによって再び決壊する。マコトは母の胸元に顔を埋めて、すんすんと嗚咽を漏らす。
『あんたは楽しい嘘を吐く妖狐なんやろ?』
『うんっ……』
『あんたはお母ちゃんの誇りや。これからも阿呆な嘘を吐いて、みんなを笑わせてあげて』
『うんっ……! うんっ……!』
母に染み付いた甘い香りはフジの花。
平地よりも開花時期の遅いそれは、梅雨時の雨の匂いと混じって記憶を揺さぶる。
故に、その頃にはもう明晰夢と化していた。
気付いてしまえば覚醒は早い。なだらかに、押し上げられるように、マコトは今へと浮かび上がる。
「…………あぁ」
そうして目覚めたマコトを迎えたのは、木漏れ日でもなければ、窓から差した光でもない。
りんりんと鈴虫がコンサートを繰り広げる夜の山だ。昨晩散々振らして満足したのか、月は堂々と空に君臨している。
すんと鳴らした鼻先に、フジの甘い香りを感じた。これが夢の原因なのだろう。
この季節になっても咲いていることは珍しく、奇しくも故郷の山に似通っている。或いは無意識にそう感じていたから、近いところに住居を構えたのかもしれない。
「あんがとうな」
それはマコトにとって嬉しい誤算で、背中を押されたような気がした。
呪いの残滓を追って、待ち伏せをして、つい眠ってしまったのが数時間前。失態ではあったが、それだけ疲れていたということで、今は身体が嘘のように軽い。
――これなら大丈夫。全力でやれる。
そんなマコトの確信に応えるかのように、遠くから苦い香りが漂い始める。
耳を澄ませばパチパチと何かを炙るような音。間違っても野生の獣が出すものではなかった。
「っ……!」
すかさずマコトは変身を解いて四つ足に戻った。
息を潜め、足音を殺し、野鳥を捕まえる時のようにじわりじわりと近づいていく。
そうやって辿り着いた先には――予想通りの姿が見えた。
魑魅魍魎でもなければ陰陽師でもない。若い人間の女だ。
小麦色に焼けた肌に、露出の多い恰好をしていて、柑橘系の強い香水が離れていても感じ取れる。それら特徴の全てに合致する人物をマコトは知っていた。
「佐渡……コトネ」
すると向こうも何かを察したのか、焚火を前にしていたコトネがくるりと振り返る。
「…………」
「…………」
交わる視線。包み込む沈黙。
大丈夫。バレてはいない。自分はただの野生の狐だ。
そのように振舞って、さりげなく距離を取ろうとマコトは思う。
「へぇ……ここまで突き止めたんだ?」
が、コトネはニタリと笑った。
先日も妙に思ったが、明らかにコチラに気付いている言い回しだった。
「……………………お前、なにもんや?」
幾ばくか迷った末に、マコトは人間に変身しなおす。
「キナ臭い人間やとは思うてたけど、よりによって死降にまで手を出すやなんて」
声は低く、威嚇するようにキッと睨みつけながら。
「臭い? それはアンタのことでしょ?」
コトネは驚く素振りも見せず、挑発的に返す。
「そんなに動物の匂いをプンプンさせちゃってさぁ? それで化けてたつもり? 如何にもチンケな狐の考えることって感じだったじゃん?」
「誤魔化すな。お前はなにもんや?」
「あはっ! 『なにもんや』って? ダッサ! なによその言い回し? あの男の前で被ってたお嬢様口調もぉ、大概にきしょかったけどさぁ?」
「っ! だから誤魔化すな!! はよう言わんといてまうぞ!?」
「おーこわっ! 野蛮な関西狐ってやつ? えー? でもどうしよっかなぁー?」
くるりと踊る様に背中を見せて、両手を組んでは伸ばして、まるでこちらを意に介してはいない。
すぐにでもとっ掴みたい気分になるマコトではあったが、ギリギリのところで押し留まる。まだ相手が何者か分かっていない以上、不用意に飛びつくのは得策ではないと思ったからだ。
少なくとも相手は人外の呪術を知り尽くしており、それも相当な腕前である。
服用者の体調を一時的に回復させながら、そこに遅行毒を含むというやり方は、マコトでも真似できない。そして病弱な雪人に何食わぬ顔で接近し、サプリと偽って死骸を蓄積させていたことからも、故意犯であることには違いない。
「あはっ……まだ分からないんだぁ?」
そんな風に手をこまねていると、コトネは首だけをぎょろりと回して、見下すように言う。
「じゃあ――時間切れ」
次の瞬間、マコトは全てを察した。
身に付けた香水をも上回る妖気。忘れることの出来ぬ火災。
ぞわっと湧き上がる悪寒の全てが、マコトの忌々しいトラウマと結びつく。
「ま、まさか!? お前は化け狸――」
「ポンッ!」
振り返って一閃。
コトネの右腕は巨岩のように膨張し、鋼のような光沢を発していた。
身体の一部のみを変えたのだ。その拳は人一人を容易に握りつぶすほど大きく、マコトごと叩きつけた地面がズドンと盛大に爆ぜた。
「――――」
「あーあ」
そうやって叩き潰した相手を一瞥することなく、コトネはうんざりと言った様子で肩を落とした。
「汚い狐なんか潰しちゃった。臭いとか付いたらどうしてくれんのー?」
「――――」
「あと化け狸じゃなくってさぁ、
「――――」
「あっ、もう聞こえてなかった? 無駄な努力お疲れちゃーん。でもアンタも悪いんだからね? あのダサい男はあーしが前から唾付けてたしぃ、うちら妖狸の新しいシマを荒らそうとしなかったら、こんなことには」
「――――ほざけ」
「え?」
と、振り下ろしたままの剛腕が揺れる。
「寝ぼけたこと言っとんやないぞ……! 何時からお前のシマになったんや……!?」
叩きつけたコトネの手が押し上げられていたのだ。
同じように両腕を、強大な石腕へと変えたマコトによって。
「くたばれ!! クソ狸がああああああああああああああ!!!!」
「ぎっ――!」
そして完全に勝利を確信し、隙だらけになっていた横っ面に向かって、マコトは左フックを叩き込む。
妖狐の全力だ。そのパワー足るや――ぶつかった木々をなぎ倒し、それでも勢いが止まらず――軽く十数メートルは転がっていく。
相手が普通の人間であれば全治数か月。
しかし殺しても殺し足りない狸であるのだから、何ら気に病む必要はなかった。
「ぐっ……なに、すんのよ……! あーしの、鼻が……!」
それに、そもそもの話だ。
この程度でくたばる相手なら、今も山で平和に暮らしている。
コトネはボタボタと鼻血を吹かせてはいたが、立ち上がる膝は笑ってすらいなかった。
「来いや化け狸――久方ぶりに大暴れしたる」
マコトはそんな彼女に、不倶戴天の敵に向かって中指を突き立てた。
すかさず満ち溢れる二匹分の妖気。周囲の小動物が毛を逆立て、我先にと逃げ出し始める。
これより――妖狐と妖狸のバカシアイが始まろうとしていた。
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