必要な嘘


 もう何度目か分からぬ逢引。

 失敗ばかりを重ねたマコトは、今度こそという覚悟があった。橋宿駅前のカフェでコーヒーを飲みながら、マコトは決意を新たにしていた。


 ――もう前までのような失態は犯さん。今日で絶対に決めたる。


 テーブルには広げたメモ帳。ミコトに散々叱られて、詰めに詰めたスケジュールである。そこには『こうすればああする』というケーススタディの類も綴られており、不退転の覚悟を抱いている。 

 約束の時間まであと三十分。あの生真面目な性格を考えると、あと十分と言ったところか? 空になったティーカップを置き、マコトは緊張した面立ちでその瞬間を待っていた。


「――あれ?」

 

 が、それを破ったのは雪人ではなかった。

 振り返る前に強いシトラスの香り。振り返った先にはこんがりと焼けた地肌。


「たしかぁ、八尾マコトさんでしたか?」

 

 佐渡コトネだ。ニヤーっと笑って、意味深にこちらを見下ろしている。

 おまけにこちらからは名乗った覚えもなく、得体の知れぬ薄気味悪さが湧き上がる。


「えぇ……まぁ」


 が、マコトは努めて冷静に答える。本能的に関わったら負けのような気がした。


「えぇ、まぁって……なにそれ? 気取ってるつもり?」


 一方でコトネは違う。言葉尻を掴み取って、挑発的な笑みを浮かべて見せる。


「似合わないんですけど? 犬みたいな匂いをしてる癖に」


「……あ?」


 聞き捨てならなかった。


「犬みたいな匂い?」


「あれ? 自分では気づいてない感じ? うけるー。そんだけプンプン振りまいておいて、隠し通せてるって思ってるんだ」


「あの、それってどういう――」


 その意図を問い質そうとした瞬間だった。

 店内から『すいませーん!』と、別の客の声に遮られる。


「はいはーい! すぐに行きまーす!」


 するとさっきまでの敵意は何処へやら。コトネは愛想を振り撒きながら去って行った。

 ただの偶然が重なっただけとは分かっていても、消化不良っぷりが気持ち悪い。


「お待たせしました」


「…………」


「八尾さん?」


「ねぇ雪人さん、ワタクシは犬臭いですか?」


「は?」


 だからつい、程なくして現れた雪人にも問うてしまう。

 彼からすれば唐突過ぎる質問であったろう。


「いえ、そうは思いませんが」


「本当ですの? 気を遣っているだけではなくて?」


 雪人は横に振り、それでもマコトは食い下がる。


「そういうつもりではありませんが……あぁ、でも」


「でも!?」


 そうやってしつこく問い質して、やがて何かを思いついたかのような雪人に、マコトは前のめりになる。


「太陽の匂い、ですかね」


「…………へ?」


「敢えて言うなら……はい、そうだと思います。八尾さんからは田舎の草木のような、そんな香りがします」


「――――」


 それは世辞か、皮肉か。相変わらずの無表情からは窺えない。

 しかし少なくとも、マコトは後者と受け取っていた。


 ――う、うちが雑草の臭いやと……? 動物共のションベンが染み付いた、そんな臭いがするやと……!?


 と、かようにオーバーな表現で捉えながら。


「八尾さん? どうして自分の匂いを?」


 すかさずクンクンと自分に鼻を鳴らすマコト。

 体臭というものは、どれだけ集中しても自分では分からないことがもどかしい。


「……おかーさぁん」


 が、そんな時だった。

 自分の身体をギュっと掴む存在に気付いたのは。


「うぅ……ぐすっ……」


 見知らぬ人間の子供だった。身に着けたプルオーバーの袖で、くしゃくしゃになった顔を拭っている。

 きっと迷子だろう。マコトの知己でないことは言うまでもない。


「ち、違います雪人さん! これは――」


 なんだか良からぬ誤解をされそうな気がして、マコトはすぐに否定しようとする。

 ただでさえ失態続きだというのに、人間社会で言う『コブ付き』と思われるわけにはいかないと。


「こんにちは」


 が、そんな弁解を雪人は聞きもしていなかった。

 少年の前へと屈み、目線を合わせて語りかけている。


「お母さんとはぐれたのですか?」


「……んっ」


「そうですか。怖かったでしょうね。でも、もう大丈夫です。おじさんがすぐに会わせてあげますから」


「ほんと、に?」


「はい。きっとお母さんも探している筈ですから、最後にはぐれた場所を教えてくれますか? 二人で一緒に探せば、すぐに見つかりますよ」


「ん……!」


 言って、雪人は縋る少年の手を取る。これまで聞いたことのない、優しげな声色にマコトはポカンとしていた。


「そういうわけで……折角誘っていただいて、申し訳ありませんが」


 そんなマコトに雪人が言う。


「これから、この子の母親を探しに行こうと思います」


「え……?」


「ここの支払いはしておきます。埋め合わせも考えておきます。ですから――」


「い、いや! いやいやいやいや!!」


 怒涛の解散の流れに、マコトはようやく正気を取り戻す。

 今日は練りに練ったプランが詰まっているのだ。「はいそうですか」と見送るわけにはいかなかった。


「ま、待ってください雪人さん!」


 彼の手を掴んでマコトは言う。


「探すと言っても、何処へですか? 当てはあるのですか?」


 ボソボソと彼にだけ聞こえる声量で。


「いいえ、まったく。見る限りで迷子札も携帯も持っていないようですし」


 おまけに聞けばノープラン。とてもさっきまでの男とは思えなかった。


「だ、だったら交番にでも預けて」


「ここから最寄りの交番は少し遠い。互いにパニックになっているとすれば、その判断に行き着くのも時間がかかるでしょう。それに今日はこの人混みで、留守にしている可能性だってある。一人で待っていろと言うわけにもいきません」


「だ、だからと言って、すぐに見つかるだなんて」


「はい。仰る通りです」


 雪人は首を振って答える。

 無計画かつ、無表情の瞳は何一つ揺らいでいなかった。


「すぐに、という自信はありません」


「でしたら――」


「しかし嘘も必要でしょう。この子を不安にさせない為にも」


「――――」


 言われて、マコトは言葉を失う。

 心の奥で何かがざわついたような気がした。


「ですから八尾さんは」


「…………んなや」


「八尾さん?」


 頭を垂れて、マコトはボソボソと呟く。

 ありのままでいられるなら、「なめんなや」と言い返したかった。


「――ワタクシも同行しますわ」


 だから代わりにそう言ってやった。

 すると雪人の表情が歪んで、「しかし」と力なく答えようとする。


「一人よりも、二人で探した方が早いでしょう?」


 だがしかしだがしかし。それこそマコトにとっては愚問というものだ。


「……よろしいのですか?」


「当たり前です。むしろここで帰るような、薄情な女だと思われていることが心外ですわ」


 マコトは両腕を組み、ツンとわざらしくそっぽ向く。

 もちろんフリであって、本当に怒っているわけではないのだが。


「ありがとうございます、八尾さん」


 それでも彼の仏頂面が崩れていたことに、ちょっとだけ溜飲が下がったような気がした。

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