現実と幻想
現実的な考え方が好きな人と幻想的な考え方が好きな人、もしくは興味ない人といるんだなぁとぼんやり思うことが増えた。
自分の憂鬱な気分を解消させたくて、色んなことをうまくやりたいとどうしても思ってしまって調べずにはいられない。完璧主義者気質を認識したところで簡単に無くせるものでもないかもしれない。上昇志向のプログラムが設定されているとでも思っておこう。もう無意識のうちに上昇したいと思うのだ。
私は繊細なのだろうな、細かいことを気にしすぎてストレスが溜まる。気にしなくていいのにと自分に言い聞かせないと無限に考え続ける。それがしんどいので、なんとかならないだろうかと繊細さん向けの動画を見ていたら余計に辛くなった。
ある方が現実を知ったところで、別に幸せになるわけではないと言っていたのを思い出した。また、別の方は賢い人が行き着く先は必ず無であるというようなことを語っていた。生きることに意味などないから意味をつけると良い、人生が楽しくなるというアドバイスを聞いてなんとなくいいなあと思っていた。
私は現実にばかり執着する生き方というのは好きではない。私は敏感で思い込みが激しいのでなんとなく辛くなってくる。幼少期からその辛さを覆い隠すように幻想にダイブし続けている。幻想がなければ私は辛さに敏感になるのだ。急な空虚感に襲われる。だから幻想的思考を大事にすることにした。別に現実的思考を否定したいわけではない、ただ私は私を守りたいだけだ。
正直、これまで色々な動画を観てきたがどれが正しいとかはないと思う。悲観的か楽観的な違いなのではないかと思うようになった。現実的に考えてもなーんにも楽しくないなと思うようになり、どんどん悲観的になっていくので幻想的で楽観的な考え方にシフトチェンジした。
好きな歌手が亡くなってしまって、もう2度とその方と会うことはない。そんな現実を受け入れたところで私は幸せにならない。
自分の誕生日に、年を一つ重ねただけと考えると途端に楽しくなくなる。
繊細さは別に才能ではない、障害と言われればそれまでだ。
生きているのが段々と辛くなってくる。
だからなんだ?と問いたくなってくる。
私は現実を知らないわけではない、知っているからこそ何か楽しく生きる方法を模索しているのだ。
私を救ってくれたのは、現実の知識ではあるが苦しめているのもまた現実だ。
正直、現実的なことを言っても幻想的なことを言っても誰も信じてくれないし、受け入れてくれないことの方が多い。それがどんなに辛かったことか。
辛い思いをしたことを否定されるのがどんなに辛かったことか。
どうせどんなに頑張っても信じてもらえない人には信じてもらえないし、受け入れてくれない人は受け入れてくれない。信じたくない理由、受け入れたくない理由がある限り。現実がどうとかは関係ない。
だから、私は諦めることにした。
私には才能がない、と現実を受け入れていれば努力なんてあっさり諦められる。現実的思考は私には向いていないから幻想的思考で生きていこう(笑)。
依存されやすかった私はあえて自分らしく生きるようにしたら、誰も近寄らなくなった、嫌われるようになった。
「あぁ、それが本当なのか...」
結局、ありのままの私なんて誰も受け入れたくないのである。努力をし続けている私なんて認めたくないのである。
それも仕方ないのであろう。どうしても集団心理というものはあるのだ。
人は社会的なのだ、集団で生きるためには仕方のないことなのだ。
私に障害というのはあくまで"壁"という認識だ。必ずではないが乗り越えられる壁も少なからずあると思う。乗り越えられないから、出来ないから障害なのではないかと語っていた方も居て、私もその通りだと思う。
私は自分のコンプレックスである身体の弱さや繊細さのおかげで薬や病気の症状に詳しくなった。だからパトちゃんの身体の異変に本人よりも早く気付くことができる。ネガティブに考えれば自分の弱点は何の役にも立たないが、ポジティブに考えれば強みに出来るのではと思ったのだ。
とりあえず、出来ることはやってみよう、鍛えれるものは鍛えてみよう。最初からそうしたかったわけでもないが、そうするしかなかった。認めてもらえないなら、認めてもらえるようにするしかない。そうしてたくさんの工夫でようやく人並みに何かを出来るようになったとき、よく言われたのが
「当たり前だ」
お前は努力しなくてもそれくらいはできるんだろうよと言いたかった。
ちゃんと栄養とらなくても、ちゃんと眠らなくても動く便利な身体のお前にはわからないことなんだろうよ。
体格差、体質の差、年齢差、性別差、様々な差を他者は認めてくれない。認めてくれないのだから段々偽るしかなくなってくる。認めてくれない人の対処法というのは色々あるが、押してダメなら引いてみるのが自分にとっては一番有効であった。
私と相性が悪い相手というのは"ダブルバインド"を使ってくる、話が噛み合わない、論点がずれたり、すり替えが起こるから話にならないことがほとんどだ。間に誰かを挟んだらより悪化したということもあった。私を守ろうとした人間がいることに怒りを感じたのかもしれない。一度ターゲットにされたら完全に壊れるまで攻撃される。
しかし、私もその気持ちはよくわかる。
私もどこまでも嫌いな相手を追い詰めたいという気持ちはある。だからその気持ちに支配されないようにひたすらに安定剤を求める。ネガティブな気持ちを受け入れたら相手か自分か関係のない誰かの首を絞めたくなる衝動に襲われる。
ずっとそれを抑える方法もわからず、理解してもらえず苦しかった。しかし、別にこんな苦しい気持ちなんて理解されない方がいいのかもしれないと思う。誰かに理解されたい気持ちと誰かを苦しめたくなんかないという気持ちが私の中でずっと渦巻く。
お互いさまなんだ、形が違うだけだ。
そう思い込むことで大分楽になった。全然違うけど、私も相手も同じだと思うと少し楽になる。執着心がなくなる。私と同じなんだから別にいいか。私のことが嫌いな相手だって仲間が欲しいのかもしれない。無理矢理な理由をこじつけると私は割り切れやすくなる。苦労するのは私じゃない。そう言い聞かせると手放せるのだ。相手の問題に干渉する必要はない。
自分は犯罪者になりたくないし、誰かを犯罪者にもしたくない。離れていれば争いもないし、どちらかがおかしくなることもないかもしれない。
それが正しいということではないが、私にとってはそれが最良の判断と認識できれば満足できる。
そうやって何度も何度も切り離す練習をしていたら、ちょっとやそっとのことには動じなくなった。
パトちゃんにはこれが出来ないからすごいと褒められたことがあって、そのとき初めてこれはすごいことなんだと認識できた。ストレスが溜まらないということではないが、前に進む切り札くらいにはなると思っている。
私は八方塞がりにあったときは、認識そのものを変えるという荒業を使ってきたがこれはこれで自分を見失う原因にもなったので乱用厳禁だなと感じた。自分を騙すということでもあるので、いつか本当の自分を思い出したときに落胆する。
「いい加減に自分に素直になろう」
自分が相手を攻撃したい気持ちを恐れずに認めてあげることで、自分の弱さと向き合える。自分も気を付けてないと嫌いな人と同じことをしてしまう、私だって人間なんだ。弱さを受け入れることで完璧な人間でないこと、完璧にしなくてよいことをようやく認識できる。
もうしんどい、もう楽しいことに集中したい、でも集中できない。そう思いながら心理学の勉強をひたすらやってしまう。自分が自分と向き合いたくないのを感じながら私の身体は私の心と対話させようとする。自分と向き合うのはしんどいものだが、それでも強くなりたいのだろう。自分自身を受け入れてほしいと私の身体は求める。そして、それをやっと理解して気持ちが楽になる。喉を通らなかったごはんがちゃんと通るようになる。
自分以外の誰かにあなたは悪くない、あなたは頑張ったと言われてはじめて息が楽になる。そして辛かったのだと自覚できる。支配、洗脳されていると自分自身で気づくのが難しいものだ。
認知行動療法というものを知ったのは随分前のことだ。
具体的なやりかたも知っているのに、ついつい忘れてしまう。過去の言葉に洗脳されているときは何もかも忘れてしまう。しんどいときにひたすら考えたり、何か行動したくなるのはそれを思い出そうとしてのことかもしれない。
まるで誰かが私を気づかせようと必死にしているみたいだ。認知行動療法のことを思い出すと、ようやく思い出してくれたかと心の声が聞こえる。めんどくさがりだからすぐに効率化を図り幸せを感じる行動をしなくなる。
朝のコーヒーを一杯淹れる手間を省く、外に出て身体を動かす手間を省く、食器を洗う手間を省く、掃除をする手間を省く、料理をする手間を省く。
だけど、キャンピングやグランピングに行きたいと思う。不便なことをしたいと思ってしまう。面白いことに自分で便利生活を望んで作ったのにそれを否定したくなる。自分の作った作品だって自分で見たくないと思ってしまう。他者の作品にすがるようになる。だが、それもまた良い。
創作を楽しんだ後に存分に他の作品を楽しめるようになるのだ。メインディッシュの後のデザートを目の前に出された気分だ。創作の後に美術館巡りにでも行っているような感じだ。文化際のような気持ちだ。
私は創作に時間を費やすために、或いは休むために家事や仕事の効率化をしたくなるが家事や仕事も重要な役割があるということを忘れる。体を動かしたり、何かに貢献しているとき、生産しているときは余計なことを考えずに済むこともあれば、血行が良くなって結果的に身体の調子が良くなるということもある。奴隷の如く働いて働かされてついつい忘れてしまうが。多少は無理出来るけど、限界を越えるとそりゃ嫌になる。
私はいつも思うが、無限に働いても平気な人はよほど身体が丈夫かもう大事な機能が壊れているように思う。私は工夫して身体をほとんど休まず無理矢理動かしていたこともあったが、正確には辛さを誤魔化していただけで後で痛い目にあうだけだとわかっている。そして毎回思うが、そこまで頑張る価値はない。頑張っても評価してもらえないときも多々あるからだ。
体質や体格差に大きな違いがあるのにも関わらず、目上の方と同様の仕事量をこなしたり、もしくは勤務時間が私の方がよっぽど長くても評価されるのは目上の方であって私ではない。どんなに影で頑張っても評価されるのは光が当たる人間なのだ。それを承知で働いてはいたが、評価されないだけでなく評価された相手にマウントされて壊れるまで働かされる。壊れたあとに心配したよ、などと言われる。
「本当に心配なんかしたことないくせに...」
苦しみや屈辱に耐えたって別に何の意味もない、それが現実だ。達成するのが厳しい、意味があるかわからないような目標のために何時間ただ働きをしたのかもわからない。人件費の削減のために、時間内に仕事を終わらせなければいけないからと工夫をしても根性でやっても無理なものは無理で、タイムカードを切って働くしかなかった。ちなみに、時間内に仕事を終わらせる人がどうやって終わらせていたのかというと、やってはいけないことをやりまくったり、横着しまくっていた。私が同じことをしたら怒るくせにと心の中で文句を言った。本人に言ったって面倒なことになるのはわかっている。もっと上の立場の方に相談して抵抗もしたことはあるが、より状況が悪化がしたのでやり過ごすしかなかった。
そうやって下っ端を踏み台にして上に駆け上がる人を見てきたから、出世に対してネガティブな気持ちを持つようになった。人をこき使う才能がある人が上に行けるのだと。人に嘘をついて、お尻に手が当たって気持ちが悪いと抗議しても謝罪は絶対にせず勘違いだと言い、部下にも顧客にも文句を言われてもうまく誤魔化して上層部に報告する。そしてどんどん上に駆け上がるのが真実なのだ。努力など報われない。努力で全てをなんとか出来るとは私は思わない。自然界だってそうじゃないか。天敵のいる環境で自分の全力を出して逃げたり闘ったりしても負けるときは負ける。
私からすれば現実というのは見れば見るほどにやる気はなくなる。現実は理不尽だ。現実と向き合っていないのは本当に私だろうか?私を否定する人ではないかと疑いたくなる。私がパワハラやセクハラを受けた事実を受け止めたくないから否定したくなるのでは?と思う。努力の仕方が間違っていたというのなら、そうかもしれないと思える。しかし、努力不足だと言ったりハラスメントではないと否定することは私自身を否定すること。私の現実を否定することだ。ハラスメントは愛だと誤魔化すのも卑怯だ。愛かどうか決めるのは私だ。
パトちゃんが身体を触ってきても、それはパートナーからの愛あるスキンシップであり、お互い良い関係であるから愛と言えるのだ。誰でも触って良いわけではない。ペットだって信頼できる、好きな人だからスキンシップをさせてくれる。私だって好きな人以外はスキンシップされるのは嫌いだ。パトちゃんがいじわるされてもパトちゃんとの間でだけで許されることだ。
私は自分が否定されてきたように、他者を否定したくないという思いがある。自分の好きな人でも嫌いな人でも何かしら嫌な思いをしてきている。それは違うと簡単に言うとその人ごと否定することになりかねない。よく考えてから言うようにしたいと思うとついつい消極的になりがちだ。消極的になると、物静かだとか優しそうな人に思われがちだが単純に嫌いな人にされたことと同じことをしたくないだけである。同じような人間になりたくないというなだけだ。
私も嫌いな人を軽蔑しているだけだ。
そう思うと、なるほど!と納得できる。お互いがお互いを軽蔑しているのか。私は別に相手にハラスメントをしたつもりはないが、相手にとっては私が善行のつもりでやっていることがモラハラに感じるのかもしれない。私という存在がいることであちらのやることが全て悪行として認識されていくのだ。私は相手に対して微塵も愛を感じていないために知らぬ間に追い詰めていくのだろう。
そうか、だから誰かに優しいと言われると違和感があるのは優しさではないからなのか。見方を変えれば私は相手を虐めているということになる。
だからといって別に相手を可哀想だとは思わない。そんなことをしたら私が可哀想だし、私と同じような想いをしてきた方々が報われない。セクハラやパワハラで苦しんだ方が報われない。なんでもかんでもセクハラだ、パワハラだ、という風潮はいずれ苦しい世の中を作るのではないかと危惧してしまうがなんでもかんでも受け止める必要もないとは思う。
嫌いな人に身体を触られて気持ち悪かったことやこき使われて苦しんだことは事実であり、私自身はそれを否定する必要はない。誰かに肯定される必要もないが、肯定してもらえると嬉しいものだ。
同様に嫌いな人も私を肯定したくないだろうし、肯定する必要もないだろう。
正直私はもう病んでいたし、二次被害を恐れていたので距離を置くだけにしたが本当は訴えてもっと痛い目にあって欲しかった。復讐したい気持ちはものすごく大きいが何かタガが外れて犯罪者なるわけにはいかないし、嫌いな人に構う時間なんかない。人の不幸を願うなんて罰が当たりそうだし、執着するのもなんか気持ち悪い。最終的には反面教師として学ぼうということにした。
私が苦しんだ事実はなくならないし、なくならなくて良いと思う。なくならないから思う存分幻想を楽しめるのだ。過去をかき消すような気持ちで幻想に浸れる。現実だけを見ると傷だらけの心で全然ポジティブな気持ちにはならない。だから幻想的な思考を持っていたい。そしてこの傷だらけの心があるから同じように傷ついた方に優しく接することができる。別になかったとしても優しくは接することが出来るが、傷だらけの心を持つことでより共感したり、寄り添ったりできる。
決してありがたくない心の傷だが、あえてありがたいものだと思うと不思議と執着がなくなって楽になる。嫌なことを考えなくて済む。無駄なことに時間を費やさなくて済む。
私と違って自分のために闘い続ける方はもっと凄い。法廷で訴えることができる方は本当に凄い。自分も救われるだろうし、色々と苦しんだ私もそういう方を見るとなんだか救われた気がして尊敬する。
誰かの勇気ある行動、苦労したようやく達成した目標はそれが出来なかった人にとっては嫉妬になるかもしれないが可能であるという証明にもなる。
誰かの勇気ある行動は善くも悪くも誰かの希望になる。
私は悪いニュースを見るのが嫌いだ。悪いことが成功した映像ばかりが流れるからだ。私は今の自分がどうあるかはさておき、良い人で居たいし、善いことで成功したいと願っているのだ。善での成功を見たいのだ。
しかし、どうしても悪いニュースを目にしてしまった場合は、善いことを願うのだ。私が辛い思いをされた方に出来ることはそのくらいではないかなと思うからだ。私はニュースを見ていていつも疑問に思う。この人が犯罪者になってしまったのはこの人がいけないからなのか、それともこの人を犯罪者にしてしまうほどの人間がいたからなのかどちらだろうか...
レッドデッドリデンプションというゲームをプレイしていると考えてしまう、この主人公は生まれが違っていたらもっと違う人生を歩んでいたのだろうか。それとも結局こうなってしまうような人なのだろうか。
私は犯罪者を化け物のように考えるタイプではない。私だって一つ間違えたらと、考えてしまう。しかし自分の理解出来ない者を別次元の何かとして捉えることも大事かもしれないと思う。その方が受け入れやすいかもしれないし、同じようになってはいけないと気を付けるかもしれない。
私は同じ人間として考えたいからそうしている。なんとなく、形の違う同じ人間として考えた方が犯罪者を減らす方法を生み出せるのではないかと思うのだ。少なくとも自分という一人の人間を犯罪者にしない方法は考えることが出来る。
あるとき、私は自我というのは夢もしくは我々が生きているという世界が幻想なのではないかという話を聞き非常に面白くて大変興味を持った。
それに関することを色々考えていたら非常に楽しい時間を過ごすことが出来た。
だってそう考えれば別に夢や空想に浸る日々に囚われなくて済むのだ。自分の空想だけが楽しいのではなく現実も楽しく出来るかもしれないのだ。
空想を現実に持ってくる、絵を描くような楽しさが味わえるということだ。
頭で美しい風景を思い浮かび、キャンバスに描き起こす。
そのためには、様々な技法を学んだり練習したりする必要があるが楽しそうだと思った。私の中にしかない楽しい世界を現実で作る、最高じゃないか。夢の中しか楽しくなかったのが現実も楽しいだなんてそれこそ夢のようだ。現実の
あるゲーム実況で擬態について語っているのを見て、生き物が擬態するのってどういう仕組みなのだろうと一人で考えた。生き物は何か都合のいいものを真似する変身する、進化する能力を持っている。
生き物が何で出来ていて、どこから来たのか。
それを考えているとある答えが思い浮かんだ。
それは "水" だ。
そういえば、人の70%は水でできているとか。
水ならば色んな形になるし、色んな色になる。
命の水ともいうし。
水や空気があったから生命が生まれたんだとか。
よく考えたら地球だって生命として考えられるし、宇宙だって生命として考えることも出来る。
我々は、人の子である以前に微生物の子であり、海の子であり、地球の子であり、宇宙の子である。
虫が湧く、という表現にずっと疑問抱いていたのだ。どこからどう出てくるんだと不思議に思っていたのだが、水には微生物がいるからと思うと腑に落ちる。人間の中にだってたくさんの微生物はいる。水や微生物で出来ている。
昔、何かで人は神さまが土と水で作ったという話を聞いたことがある。土の成分と人間の成分を比べると確かに同じものがある。まあ、土に還るとも言うし。
私は、身体は土に還り精神は宇宙に還ると思いたい。
日本は土葬ではなく火葬をするから正確には土には還らないが細かいことはよいのだ。自然界の生き物だって土に還る前に違う生き物の栄養になる。栄養になる先が土か海か生き物の違いだろう。灰になった後はダイヤモンドになる可能性もある。
こういうことを考えていると孤独感が薄れる。だから楽しい。
私は世界の一部なのだ。宇宙の一部なのだ。そして宇宙の子。
生き物が地球の子、宇宙の子ならば似たような特性を持っていてもおかしくはない。
よく、親の遺伝子からしか受け継がないような言い方を目にするけれど、その親だって親から代々受け継いでいるわけで...人間の前の生き物からも受け継いでいるわけで。
約40億年前からの何かを受け継いでいるのだから、可能性が無限にあると考えた方が現実的な気はする。
この世界で発明された様々なものは、不可能だと言われながら生み出されたものが多い。だから私は別に空想的や幻想的な考え方が好きだ。何かを生み出すのは楽しい、変化は楽しい。変化しないのも楽しいけれど、私は飽き性なので変化は欲しいものだ。不可能と思っているだけでは何も生まれない。
まあ、生み出されたものが必ずしも良いものとは限らないから生み出すことを恐れるのも当然だ。
出産も怖いものだと思う。私は何でもポジティブに捉えたいからついつい良いことばかりに目が行くから冷静に考えなければと我に返ることも多々ある。
出産がエゴであるという捉え方は間違いではないと思うがエゴがあるから命が続いているとも思っているから、別に悪く考えなくていいのではないかと思う。
パトちゃんとは最初に子供はいらないということで付き合い始めたが、私の場合は本当にいらないのではなく育てる自身がないという理由だった。自分の子を愛す自身がない、悪い環境で育てたくないのであって興味自体はあるのだ。
そして、ある日自分の親の愛に気づいたとき私は子供を育てたいと思うようになった。自分自身も自分の家系も嫌っていたから命を繋げたくないと思っていた。しかし、自分の家系を愛せるようになってからは子孫を残したい、先祖が繋いできた命を私も繋ぎたいと思うようになった。
しかし、パトちゃんは否定的だった。どんなに話し合っても寄り添ってくれないことは前々から不満ではあったものの私が悪いのかと私が折れてしまうのだった。別れようとしたことは何度も何度もあった。しかし、別れようという結論になってもやっぱり別れたくないと言われ、何度も心が折れた。円満で別れるのは無理かなぁとわかっていながら、なんとなく強行手段をとれなかった。とりたくなかった。パトちゃんのおかげで良い生活をしているし、大変なときに病院に連れて行ってくれるのもパトちゃんだ。パトちゃんがいるから楽しい生活が出来る。パトちゃんと一緒になってから不審者に遭遇することがめっきり減った。他の人に相談しようとするとなんだか私が悪い気しかしないのだ。
真面目で優しい人はみな好きだ。しかし、私はパトちゃんが私に歩幅を合わせようとしないことにずっと不満だった。恋人や夫婦は一緒に人生を歩み寄っていくものなんだよと私は教えられたから歩み寄ろうとしたし、教えられる前から歩み寄ろうとしていたことを思い出した。
私は子供は欲しくないのだけど、欲しいのであれば覚悟しなければいけないからと付き合って一番最初に相談したことだった。
しかし、パトちゃんはそんな素振りを見せない。
もう、いい加減潮時かなと思う。
パトちゃんと別れない選択をしなかったのは私。
子供のことだけでなく、色々な面でパトちゃんは付き合おうとしない、理解しようと努力しないし、話し合おうとしない。言い訳しかしない。
とうとう私も勝負に出た。
ありのままの自分を受け止めて欲しいなら、ありのままの私も受け止めてと言った。成長したくないあなたを受け止めるから成長したい私も受け止めて欲しいと言った。
どうなるかわからない、2週間後にパトちゃんは忘れてるかも。
でも、この人といたら私は成長できないしやりたいことはできない。
しかし、この人といなくてもやりたいことはできないしやりたいことがうまくいくとは限らない。良い結果はでなくても良い過程があれば私は満足なのだ。私は挑戦したいのだ。結果はやったことの結果でしかなくて、良い過程を積んでも良い結果に繋がるとは限らない。悪い過程が良い結果を残すこともある。
何もしないのは嫌なのだ。結果は出なくても納得出来るが何もしないことには納得出来ないのだ。
パトちゃんと別れることに失敗すると、毎回別れるための切り札を探す。自分を納得したい、相手を納得させるだけの何かが欲しい。まぁ納得しても依存を辞められるわけではない。それが現実だ。
パトちゃんの執着を手放そうと、パトちゃんが良い人生を送れるようにする努力を辞めた。パトちゃんが何をしようと私には関係ないと。私の言うことは聞かないのにパトちゃんを愛がないのに利用したい人のことを聞いても本人の自由だ。私の知ったことではない。そう思っていると私は何故こんな人間といるのだろうかと段々思うようになる。この人に合わせる気がないからそうしているのか、この人に合わせようとしてそうしているのかよくわからない。
パトちゃんと一緒に居たいかどうか自問自答を始めると段々よくわからなくなってくる。本当に嫌いだったら強行突破していただろうし、本当に好きなら別れようとは思っていないのだ。今までで一番複雑な関係で唯一切ろうとして一度も成功しなかった腐れ縁だ。
気持ちが定まらないからまぁ、出来ることをしていくしかないと私は諦めた。
私は本当にしたいことは何なのだろうという問いには答えられる。
絵を描きたい。子供を産むのと絵を描くのとどっちを取るかというと絵を描く方なのだろう。
でも、避妊していてそれでも妊娠したら産んでみたいとは思うのだ。運命だと思うし、奇跡だと思うし、会ってみたいし、育ててみたい。必死に頑張ったその命を、私を選んだその魂と生きてみたいのだ。壁を乗り越えたその子がどんな風に生きていくのか見てみたいのだ。
子供を産むなというのが、どんなに残酷な言葉かをパトちゃんに伝えた。生命に子孫を残さないと命じることがいかに残酷なのかをパトちゃんはわかっていないことはないのだ。正確には命じてはいないのだが、俺はいらないっていうのだってかなり傷つく。応援はしない、一緒に頑張ろうという意志も見えない。絶対に産めないとわかっているなら私も現実を受け入れるしかないが、産める可能性があって産めないのは苦しい。現実を受け入れるしかないことが苦しくないわけではないが、産めるかもしれないのに産まない選択を続けることも辛いし悲しいのだ。私はどこまでそれに耐えられるのだろうと思うのだ。欲しくないと思っている間はとても楽だった。そしてとりあえずはそう思うしかない。
幸せを知ると不幸になる。
とんでもない考え方だが、これが私にはしっくりくるのだ。
親の愛を知らなかったときは不思議とうまくいっていたのだ。知らなかったというのは嘘だ。ずっと知ってはいるが、娘よりも自分を大事にする親を見て絶望している方が楽だったというのが現実だ。友達に愛され、パトちゃんに愛され、それで満足だった。自分を見てみぬ振りしている内は幸せ者だった。
蓋を開けてみれば偶像の自分が愛されているだけで本当の自分に等興味はないのだ。本当の私なんて嫌いだった。本当の私なんて知りたくない。知ってもらいたいと思うようになったときから何かがおかしくなった。
ありのままの私を愛していたのはどちらかというと、子供の頃に散々自分を虐めていた兄や姉、自分のことが可愛い親だった。変なことを言っても、嫌なことを言ってもそれでも付き合おうとしていた家族を見て悲しくなった。
家族と縁を切ろうとしたことは何度もあるが、結局切らなかった。なんとなく切りたくなかった。どんなに喧嘩しても最終的に助けてくれるのは家族で、寂しいときに応えてくれるのは家族で、縁を切ったと思っても復縁するのが家族。私に興味なさそうなのに一番に手を差し伸べてくれる家族を改めて尊敬するようになった。
パトちゃんと別れたくないと思うのは、パトちゃんの好きな部分も嫌いな部分もあってもいいと思うからだろう。努力してないと決めつけたくないから話し合いを試みる。分かり合いたいと、付き合っていきたいと、思っているのだ。
しかし、私は自分の人生を歩みたいし、パトちゃんにもパトちゃんの人生を歩んでほしいと思う。パトちゃんと合わす努力をしてもパトちゃんが合わす努力を辞めたらそれまでの関係だと思っている。付き合っているという関係ではなくなる。
そう思うと私たちは一緒にいるものの付き合ったり、別れたりを繰り返しているのかもしれない。一緒にいない時間もあるからそれで満足してしまっているのかもしれない。
ドリームキラー型テイカーを知る前は幸せ者だった。私を愛してるから構ってほしいのだと単純に考えていた。しかし、本当のところは自分を愛して欲しいから構っていて自分から離れてほしくないから他者の夢を壊すのだ。それはもう、私を愛しているとは思わない。私の夢を壊すことは私の幸せを奪うことだと気づくまでは幸せ者だった。
私はずっと愛されているという夢を見ていた。
時々目が覚めて現実に気づいて泣いて苦しんでまた眠りについていた。
愛されていないという現実を受け入れたくなかった。
あんなに努力したのに全然愛されていないなんて。
しかし、よく考えたら私は愛される努力をするのは好きだが、愛されるかどうかはあんまり気にしていないのだ。そんなのは本人の自由でしょと心の中で思っている。私を愛してると思ったのに依存していただけということに気づいてがっかりしているだけだ。
そう考えるとこんなの失恋と同じじゃないか、恋をして振り向いて欲しくて頑張るけど振り向いてもらえなかっただけか。なんだ、片想いをし続けているだけか。そうかそんなに気にすることはないのか。
絵を描くとき、自分の絵も愛したいし愛されたいと思うが愛されなかったときは仕方ないかそんな絵だったんだ思えるのに人間だとそううまくはいかなかった。かけた時間や努力やお金のせいだろうか?取り戻したいと思うのだろうか。
絵を描いてかかったお金や時間や労力を取り戻したいと思わないのになぁ。
もっと効率良くできたらもっと描けたのになぁと思うくらいだ。
こうして文章を打つのでなく絵を描けばいいのにと思っている。でも、キーボードを打つのも楽しくて仕方ないのだ。何の利益もないこの行動をなかなかやめられない。もっと時間を有効に使えばいいのにと思いながら誰が読むかわからない文章を書いている。でも、不思議と後悔はしていない。まぁ別に愛される努力を続けたこともやりたかったことといえばそうだし、後悔しているかどうかで言うと後悔していないとも言えるが本当にやりたかったことではない。もっと自分の人生を生きたかった。誰かに合わせる人生ではなくどんどん駆け上がる人生を送りたいのかもしれない。
きっと私は愛されるよりも好きな人に会いに行ったり、楽しいことをしたいのだろう。
本当はパトちゃんよりも自分の人生を大事にしたい自分を受け止められないのだ。でも、自分を受け止めていると優しく接することが出来るしよりよい関係になれると思う。私はパトちゃんの愛よりも絵に対する愛の方が強い。それが悲しいし、私には受け止めにくい現実なのだ。夢とパトちゃんを選べと言われたら夢を選ぶかもしれない。
私は昔、夢より家族を選んだが結局ストレスが溜まって仕方なかった。夢より友人を選んでもそうだし、夢よりパートナーを選んでもそうなる。私は一緒に夢を追いかけてくれる仲間でなければ嫌という高い理想を持っている。そんな自分に嫌悪感を抱いている。一生懸命にそうでない振りをしてしまう。私は本当は我儘で傲慢で寂しがり屋だ。夢は追いかけたいし、一緒に遊ぶ人が欲しいのだ。愛されるようになる為に周りの人を踏み台にしているのかもしれない。その残酷な行為を自分で受け止めるのは結構辛い。
「しかし、自分で自分を愛せないから私に依存するのでしょう?」
まずは自分を愛することから学んで欲しいものだ。
私は全然自制出来ていなくてすぐにトラブルになったり、生活が苦しくなったりするので自制できている方から学ぶのだが、強制されるのは嫌いだ。強制され始めるとストレスが一気に溜まって爆発する。
そういうトラブルを避けるためにも自分らしく生きていきたい。
今までうまくいかなかったことを、自分のやり方でやり始めるとうまくいくことが増えた。しかし、ストレスが溜まると急にうまくいかなくなる。ある程度は行動するエネルギーに変えられるけれど、溜まりすぎると集中できなくなり何もできなくなる。何もできないと余計にストレスが溜まって負のループに入る。
親の愛に気づかなければ子供は欲しいと思うことはなかった。案外自分を不幸な奴だと思って何も求めない方が幸せなのかもしれない。自分が幸せな奴だったと知らない方が今を幸せに感じられるのかもしれない。
「私はどうしたい?どう生きたい?欲しいものを天秤にかけたとき、どちらが重い?それとも同じなのか?」
自問自答を繰り返した後、全部がどうでもよくなって一旦全ての執着を手放すことができた。そして、激しい虚無感に襲われた。この虚無感が私は幼少期からこわいのだ。謎の耐えられないような息苦しさを感じて、それを止めたくて息の根を止める自分の姿を想像する。今までも強いストレスにさらされた後に発狂して包丁を握ったり、川辺まで行くことは人生で何度も何度も何度も何度もあった
それでも冷静に考えられる思考回路だけは残っている。
この思考回路が私が親から与えられたもっとも恩恵を感じているものだ。
この思考回路のせいで苦しみ、この思考回路のおかげで生きている。
私が今苦しいのは、酸素が頭に届いてないせいかも。
私が今苦しいのは、脳内麻薬によるものかも。
私の脳に必要な物質が届いてないのは首が詰まっているせいかも。
パトちゃんと一緒に出掛けていたこともあり、自分のやりたいことを少しやることで死に急ぐ気持ちは和らいだ。ロープに自分の首を引っかけるイメージをしたことにより、自分で自分の首を絞めているようなことをしてきたのだと気づいたし、やはり呼吸器に問題があるのだと再認識するきっかけになった。
走馬灯だけではなく、こういうよくないイメージも自分を救うヒントになっているのかもしれない。
何年も前にパトちゃんと揉めてもう一緒にいるのが耐えられなくて川の前まで行ったときに、川に映る美しい夜景をスケッチブックに描きたいと思い家に帰ったこともあった。
私は何もかも嫌になって必要なものまで放り投げてしまう癖がある。
命まで放り投げそうになってようやくこれは駄目だと思い出せる。
本当のところは、私がもっとも執着してることは生きることであり、絵を描くことであって愛情でも人間でもないのかもしれない。嬉しいような悲しいような...
本当はもういちど精神科や心療内科に行かないといけないんだろうなと思いながら、そんな風に考えるのは嫌だなと思う。
やらないといけないと考えることが私はとてつもなく嫌いなのだ。
だって私は完璧な人間に成りたくないのだ。
私は完璧主義な自分が嫌いで、完璧主義な思考によって苦しんでいる。
自分に対する評価が厳しいことを知っている、ハードルを下げたくても無意識にハードルを上げるし、完璧になろうとする。それは私だ。
優しいと言われるのが嫌いだ。私は別に優しくしているつもりはないし、本当は優しくしたいわけではない。人に優しくしていると、あの人は優しいから何でも許してくれるというレッテルを貼られる。誰かに優しくすれば同じように優しくしてもらえるという甘い考えのせいだ。実際は優しくすると依存する人が増えていくだけだ。
しかし、依存せずに同じように優しくしてくださった方には全力で感謝している。きっとお互いに依存や執着がないからそれが出来たのだろう。
私は病気じゃなくて障害があるように思う、しかし医師と話をしているとそれも勘違いな気がしてくる。私が普通の人の振りをしているのか本当に普通なのかわからなくなってくる。合わない医師にさえ合わせようとするから病院は苦手だ。まず、通い続けることがしんどい。お金はかかるのに何もわからないことが多々あるし、間違った治療法をしていたことが後からわかったりして人間不信になりがちだ。
そして何より治療に専念しすぎて自分と向き合わなくなる。病になった理由に着目せず病気を治さなければと躍起になる。そうやって今まで生きてきた。体質改善は幻想だ、ほぼ不可能だと言われてようやく私は自分と向き合うのではなく体質を変えたかったことに気づいた。私の人生を変えた素晴らしいその医師に何もかも否定された挙句症状がよくならなかったことがトラウマになっていたということも気づいた。あんなに素晴らしい医師が私の症状も見抜けず、私も他の医師の意見も否定して、ついでに治すことも出来なったことにショックを受けていた。
結局私は最初に自分の病気を見つけてくれた医師をよりいっそう尊敬するようになった。私を否定した医師は有能で、色々考えを改めるきっかけを下さったし、威圧的なものの言い方をするもののちゃんと患者のことを思っていて、素敵な人だと思ったが相性悪いなと感じて行かなくなった。もう、薬に依存する生活はこりごりだ。呼吸器の方はどうしても弱いので治療を続けた方がうまくいくと思っているが絶対に必要と思いたくない。そう思うとまた依存し始めるからだ。
薬がないと生きていけないと思うと身体がだんだんそうなっていく。
薬は生きていくためのサポートアイテムとして考えると気が楽になる。風邪薬だって風邪を治すのではなく、症状を抑えるものだとどこかで読んだ。だから私は風邪だけは薬で治そうとせず、症状を抑えて体調を整えるように心がけていた。そうすることで治療しても長引く風邪が割とすんなり治るようになった。
過去の経験から学ぶ癖がある私はついつい過去に囚われがちになるが、過去に囚われるのをやめると前に進みやすくなる。過去を振り返りすぎないように最近は意識している。他者の反応を気にしすぎるのもやめたら行くのが辛かった病院も少しは楽になった。ドラッグストアに薬を買いに行くときくらいには軽い気持ちになった。
病気を治しに行くのではなく、症状を抑えて体調を整えるために病院に行くのだという認識に変えたら肩の凝りが少し取れた気がした。
薬がないとどうにもならないことはあるが、薬がなくてもなんとかなるときもある。
苦しくて仕方なかったとき、絵を描けば楽になるかもしれないと思い、思い切って眠っていた筆と絵の具を出した。ずっと描きたかった風景を適当に描いてみた。するとものすごく幸せな気持ちになった。
全然思い通りに描けなかったが、その絵を見ていると夢の中で見た美しい風景や美術館で見た美しい作品を思い出す。そして何より何も気にせずに絵を描いた頃を思い出す。
「そうだ、これが私が本当にしたくてもできなかったことだ。何も気にしないで自由に絵を描くことだ」
私はやっとの思いでやりたいことができるようになった。ここまで苦しんでやっともういちどできるようになった。絵はこうでなくてはいけないという考えが嫌いだったのだ。ビジネスにおいては売れる絵や上手な絵は重要だが、私は本当はビジネスがしたいわけでない、絵を描くためにビジネスをしないといけないからしようとしていたのだ。
しかし、本当は
それが本当にストレスだった。
パトちゃんと幸せな時間を過ごしていたとき、私は全く絵が描けなくなってしまったと気づいた。それが辛くて仕方なかった。思えばその頃から本気で立ち直ろうと頑張っていたのだ。自分の生きた証を残したい、やりたいことをやりながら生きたいと本気で思うようになった。
思えば、あのとき私は幸せを感じることで息を吹き返したのかもしれない。
私は何度も人生で選択をして挫折して、我に返って自分がしたいことはなんなのか、何のために決断したのかを思い出す。
お金を稼ぐのは好きなことをするための手段だ。
なのに、いつの間にかお金を稼ぐロボットになってしまう。私はお金の話ばかりする人と話すのは苦手だ。だんだんと"お金"という言葉に支配され始めるからだ。お金や未来や常識といったものに意識が持っていかれるのだ。私は別に意識していないわけではない。意識しているからこそお金を稼ぎに行っているのだ。未来のことを本気で考えているからこそ絵を描いているのだ。
お金や未来や常識ばかり考えて私のことを考えていないのは、私にそんなことばかり話す人の方なのだ。親や教師、友人、同僚、上司...そして彼氏。
私は本当はそれが一番辛かった。私にとってはそれが一番愛のない行為だと感じていた。常識や正しさばかり気にする周りの人に合わせることが本当に苦しかった。私の将来のことも、私のことも考えていない。私はずっと伝えてきたのに、ずっと伝わらなかった。
だけど、私も気づいた。そして気づいていた、誰のことも全然愛してなかったことに。
「私は果たして誰かを心から愛しているのだろうか?」
家族や仕事に大きな問題を考えたときにふと考えたことがある。
そして、誰も心から愛してる人が一人もいなくて絶望して独りで泣き崩れたことがる。あまりに辛くて死にたくなった。そしてつい最近もそうだったのだと気づいた。
私は私以外に愛し続けて憎み続けた人はいない。
でも、自分に包丁を向けたときに真っ先に浮かんだ顔のは家族とパトちゃんの顔だった。こんなことをしたら一番苦しむのはこの人達だ、そう思ってそっと包丁を元の位置に戻した。棚を切り刻んだりしたこともあるが、作った人が可哀想だと思いやらなくなった。料理包丁を作った人だって殺人に使われるために作ったのはないだろうから。サンドバッグを買った方がいいかもしれない。あれは殴るために作られたのだから。
最近は狂気に取り込まれた際に凶器を持たないようになったが、自分の手で絞めたい衝動に駆られる。この狂気はある日突然やってくる。前兆はない。ただし、鈴はついているから気づかない振りさえしなければ早く気付くことが出来る。薬に依存するとこの鈴の音に気付けない。だからあまり薬を飲みたくない。症状を抑える為に飲んだりはするが、身体や心からのSOSの信号を無視したくはないのだ。症状を抑えたせいで気付かなかったことが多々あるのだ。
「あなたの為に時間とお金を作って、使った。好きだから」
これは私にとって当たり前の行為で、努力してやっていることだ。
私は時間やお金や気力がないと言い訳されるのが大嫌いだ。
私だってないのだ。でも頑張って作っている。
そんな風に思いながら誰にも言えないままずっと苦しんだ。
私には時間もお金や気力が満ち溢れているとでも思っているのかと尋ねたくて仕方ないのだ。でも、そうしたら相手の努力だって否定してしまうからそんなことは言えなかった。相手に自分の感情を押し付けたくなかった。
しかし、そうして我慢を繰り返してしまうと感情を押し付けてしまう結果になる。
自分がどうしようもない人間だってのは自覚している。だからこんな私と一緒に居てくれて、時間を作ってくれて、話をしてくれて、嬉しいという気持ちが大きかった。そしてこの気持ちが人間関係を壊す大きな原因でもある。この純粋な気持ちが耐えられない、その気持ちに応え続けられない。同じようにしなければいけないという強迫をしてしまったようだ。別に同じようにして欲しかったわけではない。
私はこうありたいだけで、やりたいことをやっているだけ。自分と違う人は自分と違うから面白いと思っているし、自分と同じようになってほしいわけではない。自分と同じように悩みを持っていて、自分のようにアドバイスが欲しいと思ってアドバイスをしてしまったこともあるが、違うのだと知って反省した。他者と自分の違いを全然分かっていなかった。
他者の話をすると、語弊を招いたり傷つくかもしれないからと自分の話ばかりしていると自分にしか興味がないと思われる。難しいものだ。あながち間違ってはいないが、自分の話だけしていれば安全というのが本当だ。自分のことを話してほしかったのか後で考えたりするが、許可をもらっていないのにベラベラと人の話をしたくないのだ。話すとしても飽くまで私からの視点で話したい。
相手を尊重するなら自分も尊重しなければいけないと最近思うようになった。自分以外の人ばかり尊重して、誰かに合わせることばかり考えて私は自分のことを蔑ろにしがちだ。なんなら誰の事も考えず、正しいかそうでないかで考えているときもある。
友人と喧嘩して、赦しをひたすらに請うこともあった。私は好かれたいだけの嫌な奴だと思っていたがそれ以上だった。悪いことをしたから罰を受けなければならない、償わなければいけないというのが本心だったと今更気づいた。本当に好かれたいなら好かれるように動いていたのだろう。でもそうじゃなくて、間違ったことをしたから正そうとしていただけだと知って、そりゃ友人も離れるわとぞっとした。
私は循環していないものを循環させたいだけで、報復されていないものに報復したいだけの怪物だった。自分にも他人にも愛情なんかなくて、正しく感じていないものを正しすことに執着しているただのモンスターだった。
普通に考えれば、相手が自分を許さない気持ちを持つことも大事だろうにそれを許さなかった。自分が絶対に間違っているか相手が絶対に間違っているという偏った思考を持って白黒ハッキリさせてどちらかに染めたかったのだろう。
私だって自分の嫌がらせをした上司が何をしても一生許したいとは思わないのに。
嫌いな人を嫌いで居続けることだって大事なことなのに。許さない心だって持っててもいいのに、私はそれさえも許したくない人なのだ。正さなければと必死だった。
私のことが嫌いな人が私を嫌っていようと別に構わないのに、不思議と友人が私を嫌いになることも自分が誰かを嫌いになることも絶対に許さなかった。それだけ大事な存在だったのかもしれない。誰かのことが嫌いな自分の思いも、私が嫌いな誰かの思いもあってもいいんだ。正さなくていいんだ。そう考えることが出来て初めて私は優しくなれた気がした。
別に無理に嫌だったことを受け入れる必要はないんだ。そして受け入れてもらう必要もないんだ。
私は本当は自分だけがたくさん頑張ることが嫌だった。でも仕方ない、みんなそれぞれ人生があってそれぞれのペースがあるんだからと相手のペースに合わせていた。しかし、私は気付いた、相手のペースにいつまでも合わせていたら後悔することを。そして大切な人に全てを捧げなくても良いことを。愛さなくても良いし、愛されなくても良い。
私は親に愛されたかったが、今はそんなに愛されたいと思わなくなった。親に愛されていたし、私を愛さない方が楽というならそれでも良い。別に私の親に対する想いは変わらない。嫌いでいる方が苦しまないこともあるから友人が私を嫌いになったならばそれで良い。嫌いなことをしてしまったのだから仕方ない。私は自分色に誰かを染めたいわけではないし、染められるのも嫌だ。私は好きな人色に染まりたい。もし、誰かが私色に染まりたいなら嬉しいがあまりオススメはしない。
パトちゃんとの関係に付き合い始めてからずっと悩んでいた。私はこの人が好きなのか、この人といるべきなのか、どういう関係になりたいかとか。恋人として考えるのをやめたら良いのではないかとアドバイスをもらい、楽な関係にはなったものの納得はできなくて不満が溜まるばかりだ。私は異性のお友達が欲しいわけではないから、友達だと意識を持っていると別の彼氏が欲しくなってくる。夫という感覚も違和感しかない。
しかし、老夫婦みたいだと言われたときには意外としっくりキタ。なんか現状を受け入れやすくなった。老夫婦ならば仕方ないと諦めることも出来たりする。
パトちゃんと一緒にいるか別れるか本気で悩んでるときに大体一緒にいるしかない状況に陥る。私の気のせいだ、私がそう思い込んでるだけだ、この人と離れる努力をしないだけだと毎度自分を責めて、毎度失敗する。離れられるチャンスが来ても掴もうとしない。夢の中で他の人といい感じになってもパトちゃんを選ぶ。私にはパトちゃんがいるからと断る。そして思い出した。私は最初からパトちゃんよりいい人がいてもパトちゃんと居たいから一緒に居るんだと言ったのだった。完璧じゃなくてもいいと最初にそう言ったのは私で、パトちゃんよりいい人を探さないのはそれが原因だ。それを馬鹿だと言う人もいるけれど、普段馬鹿したくてもできないから家で馬鹿がしたいのかもしれない。パトちゃんも同じなのかもしれない。
あるときパトちゃんのストレスの現況である人達の話をした。卑怯なやり方だがあれが賢い人なんだよと言うとパトちゃんはそうかと納得した。
「でも、パトちゃんは賢い人になりたいわけじゃないんでしょ?そこがミソなんだよ」
パトちゃんは自分の気持ちが固まらない人だから思わずパッと口を滑らしてしまったが、私の方がパトちゃんのことをわかっていると本人が言っていたのだから当たっているのかもしれない。そして私がパトちゃんの気持ちを言語化してしまうからこの方の言語化能力が育たないような気もする。パトちゃんは私が会話をしなくてもパトちゃんの気持ちがわかるから、パトちゃんが私と会話をしようとしない。言わなくてもわかるやろみたいな感じで会話するのをサボるようになる。長年パトちゃんと一緒にいるから思考パターンは想像できるけれど、ちゃんと言ってくれないとどれが正解なのかわからないからちゃんと話してほしいものだ。
本当はパトちゃんが賢い人になりたくないのではなく、私が賢い人になりたくないのである。パトちゃんに向けた言葉というよりは自分に向けた言葉のように感じた。賢く生きたいわけではなく、自分が納得できるように生きたい。パトちゃんはあの言葉で少し晴れたような顔をしていたが、あれでよかったのかななんて私は思う。
私はきっとパトちゃんが賢く生きたいと思わないから一緒にいるのだろうと感じた。パトちゃんの前ではありのままの私でいられるから楽なのだ。パトちゃんもそうかもしれない。パトちゃんは理想の人ではあるが、全然好みのタイプじゃなくて不満は色々溜まる。しかし、好みじゃなくても一緒にいられる不思議な存在だ。ちょっと変わったところだったり、他の人がしてくれないことをこの人がしてくれたから惹かれたのかもしれない。
パトちゃんに頼るのはなんだか屈辱的な気分になってしまうが、この人を頼らないと生きていけないことをちゃんと受け止めて変わっていこうと思った。私は情けないい生き方をずっとしてきたが、仕方なかったとも思う。自分との向き合い方も他者との向き合い方もちゃんと分からずに過剰適応して生きてきた。すぐに過去に執着する癖を意識だけで結構変われる。
大事なのはネガティブかポジティブか損得かとかではなく発想の転換なのかなと思ったりする。
ネガティブに捉えると私は自分で生活していく為のお金を蓄えられないような情けない人間だが、ポジティブに考えると好きなものにお金を使っているので好きなものに投資ができる人間だ。私一人では好きなものは支えられないが、私が好きなものを買い、好きなものを身に着けるだけで貢献できると思っている。誰かが私の身につけているものに興味を持ってくれたら広告や宣伝になるわけで、ファンが増えればいいなと思って身に着ける。貯金ができないのはテクニックが分からないのではなく、心理的な問題で出来ないと分かってからは考え方を変えることにした。
貯金できなかった金額を考えるとそれだけのお金を稼ぐ能力があったということ。それだけ頑張ったし、それだけ好きなことにお金をかけられる人であるということも現実。貯金が出来なくてもなんとか生きてきたのも現実。頭を下げてお金を貸してもらうのを情けないとばかり思っていたが、それで好きなものを手に入れたのも真実。迷惑はかけたが、ちゃんとお金は返した。もう迷惑はかけたくないと必死すぎてまた迷惑をかけたことが過去に何度もあった。そろそろ学ばなければ...
よくよく考えてみると頭を下げてお金を貸してくれる相手がいるのもすごいし、ちゃんと返した自分は頑張ったし、真似できない人もいる。褒められることではないが私はそこまでのことが出来る人だと評価しても良い。正直もう借りたくないし、頭を下げるような生活は卒業したい。そんなことをしなくても良い生活を送りたい。信用してくれてありがとうだし、借りてしまってごめんなさいだ。
お金を、返ってこなくていいからこの人と二度と会いたくないという気持ちで貸したというかあげたことがあるので、自分を含めてお金を借りる人が嫌いだった。でもまぁ、お金を返すことでその人との信頼関係は保たれるんだよなと前向きに捉えることにした。前向きに捉えるのが正しいと思わなくてネガティブに捉えていたが、ネガティブに捉えると前に物事が進まないのが私だということは理解した。
パトちゃんとは困ったときは助け合う関係だから一緒にいる、それだけで一緒にいる理由なんて十分だ。信頼し合っているからうまくやっていけてる。信用できなくなるときもあるが、それでも乗り越えてきた関係なのかもしれない。パトちゃんとはいい関係だと思うのは幻想なのかも、と思ったが幻想ではなくて案外いい関係なのが現実なのかなと思えるようになった。そしてこれからも良い関係で居たいと思う。一人だけ努力しすぎて疲れたり、良い関係が崩れたりもするけれど、そういうときに思いっきり立ち止まって考えることが出来るのって素晴らしいと実感した。
人生とは奇跡の連続という考え方は幻想的と思われる方もいらっしゃるかもしれないが私は奇跡の連続という方が現実的に感じる。だって一歩違ったらここにはいなかったかもしれないから。
ネガティブな考え方は嫌だけど、大事だと思うしポジティブな考え方が嫌なときもある。現実的な捉え方って面白くなくて嫌だったけど、考え方をちょっと変えるだけで面白くもなる。幻想的な考え方は好きだけど、たまにそのせいで気が狂うこともある。私の頭も首と同じくらいには凝り固まってたんだなと思った。
多分私が変な思考に囚われてしまった一つの要因は小学生のときに行ったディベートにある。インスタントラーメンを毎日食べることについて何か議論した気がする。もう記憶も曖昧だが、インスタントラーメンを毎日食べるのは健康に悪いからと私のチームは反対派で手軽だからとあちらのチームは賛成派だった。いざ、話し合いになって反対派の理由を述べた後に賛成派の意見を聞くことになり、何回かそれを繰り返しているとあちらこう言った。
「では、普段はインスタントラーメンを健康的な食事に挟めばよいではないか」
私はうっかりその意見に納得してしまって、反論が言えなかった。言いたいことがあったのにわからなくなったと悔しい思いをした。今思うと毎日食べることを議論していたような気がするが、その当時の資料はもうない。長いこと保存していた様々な思い出の品を全て処分した時期があったので確かめることはできない。もし、毎日食べることが議論のテーマなら健康的な食事を挟むという案は破綻しているではないかと思っていた。しかし、今考えると別に破綻していないかも。毎日がテーマで毎食ではないと考えると成立している。時々ラーメンを食べれば良いという強引な案に負けた気がした。もともと負けず嫌いな性格なのにより勝ち負けや論破したい気持ちが増したのかもしれない。
終わりのない論争において全然違う案を出すのも一つ手法だと最近覚えたので、あれも一つのテクニックだったのかもしれないと今では思う。私はその変なテクニックをいつの間にか覚えて人生で使っていたのかも。
反論できなかったことが悔しいと思っていたが、今では反論するつもりもないのに反射で相手を言い負かす勢いで言葉が出てしまうことがある。
私は今でも勝ち負けを意識しないようにしているだけで、本当は勝ち負けを気にしているのだろうか...
全部一人でできなければ負けだと思うのだろうか。まだ抑圧した感情がありそうだな。抑圧した感情を知るとコントロールしやすくなる。コントロールすると物事がスムーズに進んだりする。
現実と幻想のバランスを考えることで随分と生きやすくなった。
どんだけ生きるのが不器用なんだよっとツッコミたくなる...
久々に凪のお暇という漫画を読んだ。本当に久しぶりに漫画を描きたくなった。懐かしいなぁと何年も開けなかった資料棚の扉を開けたら頑張って書いたプロットを見つけた。
「漫画を描きたい気持ちちゃんとあるじゃねぇか」
絵を描けなくなっても、必死に抗っていた自分の痕跡を見つけることができた。
あのときは評価できなかったけど、絵で描けなくて小説にして必死に書いていた自分を褒めた。自分にとって波乱万丈な出来事が続いたが、それがあったからここにたどり着くことが出来たのかもしれない。
いい出来事にも、悪い出来事にも、感謝したくなった。
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