こじつけ屋の陰謀論

雨月 零音

 創作のはじまり

 ようこそ、いらっしゃいませ!

こじつけ屋店長の雨月 零音(うづき れいん)と申します。私は自分という人間専門の研究者です。

生活する中で私は浮かんできた疑問の答えを探し、研究しています。正しいかどうかは定かではありません。

 全て私の妄想です。私から見た世界で見つけた答え、または真実、それとも信実?もしくは心実と書くべきでしょうか?

私は超過激に私の人間学のレポートを書いたので読まれる際は覚悟してご覧くださいませ。

 

 私が売るのは好きな“もの”の名前です。

お代はチャンスとパワーです。私は夢を見て、パズルという枠に当てはめて売るものです。

さあさ、最後までお楽しみくださいませ。



私は嘘100%でできている。



 バカ正直で、肉食動物的な顔の割に草食動物的みたいな体で、身体の中は海水生物のようで、両生類のような器官だと感じている。


だけど、私の存在はまるで霊のようだ。


 私は子供の頃に、モーセの十戒を表現したアニメを見た影響か、非常に乾燥した土地で生まれたせいか水が好きでモーセのように海を割ってみたかった。

ファイナルファンタジーVIIIのリヴァイアサンになってみたいと思っていたし、

レインというキャラクターの名前が可愛くて"零音れいん"と名乗ることにした。

 雨月うづきという名前は、高山しのぶ先生が描かれた"あまつき"という作品から取ったものだ。

タイトルの真実を魅せられた後、美しすぎて名前を聞くだけで静かで少し冷ややかな風景が浮かぶ。

 雨後の月というお酒も同じように美しい映像を思い浮かぶのでとても好きだ。私は別に美しい人間ではないが、名前だけは美しいものにしたいと思っている。私の人生も別に美しくないし、今まで語るきはしなかったし、秘密主義の家で育ったから自分や家のことを外で話すことは禁忌であった。

 実際秘密にしてきたから生き延びることができたし、平和に生きることができた。家族も守ることができた。


 だが私はこうも考えた。


「私だけが幸せで本当に良いのだろうか?」

「家族だけを愛し、家族だけを守り、苦しんでいる人に手を差し伸べないことは正しいことなのだろうか?」

 そんな疑問を抱きながら過ごしているうちに、私はあるゲーム実況で聞いた言葉に心を打たれた。

「安全な所からの協力を協力と言えるのか」

 私は感受性が高いが故にニュースを見るのが辛い。人の苦しみや痛みを容易に想像してしまう。だからニュースは見ないようにしている。

だがそれでも周りの人から嫌な情報が流れてくる。だから根本を断つ為に改善策に執着するようになった。

 事の発端、原因をたどり、どうしたらそういったものがなくなるのか考えるのが癖だ。戦争のニュースが頻繁に流れるようになって、元々うつの傾向があったのが、かなりひどくなった。


「私はのうのうと生きていていいのだろうか。できることはなかろうか」


 いろいろ考えたが実行したとして良い結果が得られるとは思えなかった。


「戦争をやめろ」と訴えたところでやめてくれるわけではない。


 私はただただ平和を願うしかなかった。兵士でもなければ、政治的に何か出来る立場でもない。一般人として何かしようとしても瞬く間に消される未来しか見えなかった。


 それでは何も解決できない。


 私は私の人生を生きる以外には何もできない。


 そしてなかなか終わらない戦争にだんだんとイラつきを覚えていった。


「どうして争う?争う以外に方法はないのか?何故そんなに拘るのだ?」

 疑問ばかり浮かんだ。

 

 自分の生活に影響している戦争を知りたくなり、動画を見たり、様々なジャーナリストの記事を読んだ。


 ある日、私は以前から気になっていた。メタルギアソリッドをプレイすることにした。何かを理解するためではなかった。現実逃避したくてデスストランディングをやって面白かったのでメタルギアも遊びたいと思っただけだ。

 そして私の心を大きく突き動かしたのはメタルギアソリッドⅤファントムペインというゲームだった。

 初めは何が起こっているのか全く理解できなかったが、とても魅力的でよくわからないままプレイした。そして戦争とは何かを知ることとなった。


 ただ恐ろしくてよくわからないものの正体が少しずつ明らかになり、現実を受け止めやすくしてくれた。

 メタルギアソリッドの親玉、小島秀夫さんのインタビューの切り抜き動画が時々流れることがったので見てみると、語り継ぐことがキーワードなのかもしれないと思うようになった。

 私には戦争を止められないが、誰かに平和について語るくらいならばできると考えた。そして周りの人にメタルギアソリッドの話をするようにした。


 別に正しいやり方だとは思っていないが、楽しい会話の中で誰かの中に平和の種をまきたかった。

 戦争というニュースから逃げていた私も戦争のニュースと向き合えるようになった。そして平和について真剣に考えるようになった。


 しかし、歴史などの勉強をしているうちに平和すぎる世界の先にあるのが争いかもしれないと思うようになった。


 平和な世界を退屈と感じる人は少なからずいる。頑張る理由がなくなると人はおかしくなっていく。だから私は急に怖くなった。自分が平和を願ったばっかりに破滅を招いてしまったらどうしようと。


 世界一の天才と呼ばれたジョン・フォン・ノイマンのようになりたくない。ただでさえ頭を抱えていたのに、さらに頭を抱えることになった。


 たかが一つの創作物にそんな甚大な被害には及ばないだろうと思いながらも、頭の片隅にもしものことを考えていた。言葉を選べば選ぶほどに怖くなってくる。

 そして私は自分に問いかける。


「安全な場所で何もしないことが平和と言えるのか」


 正直、これが一番争いのない答えだ。しかし平和でない人が確実に一人いる・・・それが私だ。自分がたどり着いた答えについてもう一度考えた。


「透明人間のフリをして無難にやり過ごすことが果たして生きていると言えるだろうか」


 別に花のように世界の片隅で幸せに生きることが間違いではない。その花を見たものはきっと癒されるに違いないのだ。


「だが、わたしはどうだ?それでいいのか?」


「物心つく前から絵を描いて、自己表現していた私が何も表現せずに生きるのか?」


「自分が不利にならない為に、批判を受けない為に、自分のやりたいことも、あまつさえ自分の人生すら否定するのか?」


「世界の均衡を少しでも崩すおそれがあるからといって、自分の存在を殺し、感情を殺し、幽霊の如く生きてそれで満足できるのか?」


「正しいことよりも楽しいことがしたかったのではないのか?私とはなんぞや?生きているとは何ぞや?」


私は私に問う。


「お前は、エッセイ本を読んで、自分の人生を知ってもらうことで誰かを救えると知ったから同じようにして誰かに手を差し伸べてみたかったのではないのか?」


「お前は恐怖のあまり、自分が隠し続けてきた憎悪のあまり自分を救った存在を忘れてしまったのか?」


 そうだ、私は怖がりだ。評価されることが怖くて前に踏み出せず昔から弱虫だった。

 そうだとも、精神的な虐待を受け続けてきて誰にも言えない、冷えて真っ黒になった溶岩の溶岩のような憎悪を抱えている。ストレスに耐えて耐えて苦しみ続けても、噴火しそうになってもマグマを体の外に出さないように必死だ。何年も何年も毎日のようにうなされ、夢の中でも現実でも休まることなく生き、ストレスを感知する機能を自ら壊して、自分の記憶を黒く塗りつぶし、自我さえも失いかけた。

 しかし、本当のところは私が悪魔なのか、悪魔のされたのかよくわからなかった。私を理解できる人はいないし、理解しなくてもよいと思いながらここまで来た。私のような危険で迷惑な人間のそばには誰もいないほうがいいからと自分の築いてきたコミュニティを破壊し続けてきた。


 それでもそばにいようとする者はいる。


 それでも私は素敵な方々に出会う。


 それでも、私は素敵な作品に出逢う。


 そうだ、その通りだ。私は自分を救った存在を忘れかけている。

 自分が自分にかけた呪いを解くためのたくさんの鍵。


 YouTuber、ゲーム、本、映画、アニメ、人、動物、神さま...

 

 私は小さい頃に星空に向かってお願い事をした。お願いできる数が少ないのであればまとめればいいと、せこいことを考えた。


「そうだ!お願い事全部叶えてほしい」


 しかし、星空は私に告げた。


「お前はもうその力を持っている」


 そして確かに自分の願いが叶うことが人生で多かった。


 あまりにも大層な願い事をしてしまった為に大きな代償を払った気がする。ランプの魔人のように手枷足枷てかせあしかせをかけられ、小さな部屋に閉じ込められてしまった。

 私は常々社会性がないと感じていたが何かいい方法があるに違いない、この難関は成長するための試練だと思ってひたすらに勉強した。


「人の心がわからないのなら心理学を勉強すればいいじゃないか!」


 そんな安易な考えで心理学の勉強を始めた。心理学に興味を持ったのは他にも理由があり、夢占いが好きだったからなのと、テストで倫理というものを知ったからだ。テストを受ける前、倫理という言葉すら知らなくて興味本位でわずかな資料を読んだ気がする。ほとんど知識がなかったのにも関わらず満点を取ってとても嬉しかった。人生で満点を取ったことはあまりなかったが、一度美術のテストでも100点を取ったことがあって、大変喜んだ。

 社会のテストはギリギリ2ケタある感じだったが、よくわからない学問で良い点が取れたので知らない学問には興味があった。高校の社会科の教員に、大学へ行かないなんてもったいない、と言われてずっと疑問に思っていた。


「はあ?何言ってんの?私の成績の悪さ知らないわけじゃないでしょ?お金もないし。何を考えてこんなことを言うんだ?」


 何年も謎だったのが、勉強を重ねていくうちに知った。ヒントは親友がくれた。大学は私が思っているような学校ではなく、色んな教授の話を聞きに行くような場所と教えられた。


 社会性ゼロで勉強バカなお前は、大学で好きなことに集中して同じ勉強バカな友達でも作れ、ということだったかもしれない。


 家庭に色々と問題を抱えていたし、大学へ行った後のことも考えると行っても仕方ないと勝手に思っていた。今でも大学へ行ったとして成功していたとは思えない。勉強には興味はあっても具体的に活かそうとは考えていない。


 私の願いはよく叶うが、成功体験ではなかったきがする。願いが叶ったあとに失敗するのがお決まりだった。道は開くし、チャンスは掴むがその先に待っていたのは何かの崩壊だった。人間関係の崩壊、環境の崩壊、心の崩壊。


「私はちゃんとやった筈だった。言われた通りにやった筈だった、正しくやった筈だ、何が違った?何故うまくいかなかった?」

 

 手段を変え、考え方を変え、環境を変えた。わからない、どうして他の人は同じことをやってもうまくいく?悪いやり方ならばうまくいくのか?

 しかしそれもダメだった。何を変えても同じ結末を迎える。


 悪循環から抜け出したくてある日私は、仕事を辞めることになった人にどうすれば辞められるのか訊いた。同じ悩みを持つ同志だと思い込んでいた。だからつい、余計なことをしゃべってしまった。仕事を辞めさせてもらえないんだと言うと少し間が空いてからこう言われた。


「それは、あなたが優秀だからですよ」


 胸に鋭い刃が刺さった気分だった。


「んなわけ...」


 そんなわけなじゃん、人手が足りないだけだよと言いかけてすぐやめた。人の気持ちを否定しちゃいけない。そうだ、この前親友の言葉を何故か全否定して一人で反省したじゃないか。受け止められない言葉をあえて受け止めることで真実が見える筈。


「...ありがとう」


 それだけ言って、すべての言葉を飲み込んだ。


 あなたは違うのか?とは言えなかった。相手の内心は想像できてもハッキリわかるわけではない。決めつけてはいけない。表情に出ていたわけではないし、私が勝手に思っていることだが、凄まじい嫉妬を感じた。

 どうしてだ?私は何も特別なことをしていない。当たり前だと思っていることをしているだけだ。慎ましく生きてきた筈だ。美人でもなければ天才でもない、頭が良いわけでもない、運動ができるわけでもない、仕事に至っては凡人だ。

 ただの凡人にどうして嫉妬する?誰もかもどうして嫉妬する?どうしてあなたまで嫉妬する?何故嫉妬されるか依存されるかの未来しか待っていないのだ?

 そんな疑問に答えてくれたのは、おすすめで出てきたスピリチュアル系の動画だった。


「それはあなたのオーラとステージが合ってないから」


 いや、オーラとかわかんないし、ステージなんてのぼりたくてものぼれねえっての。でも強いて言うなら青色のオーラだと面白いなと思いながら診断したら当たってしまったが...


 私の解決できない問題にスピリチュアルな理由をこじつけることで納得できるようになった。他にも双極性障害に見られる特徴的な行動10選がほぼ当てはまったりとまだまだ要因はありそうだが、オーラやエネルギーといったものに問題がありそうだ。

 あとは逆エンパス可能性もある。親友の話をもうちょっと重く受け止めるべきだった。

 次のステップに進める為におすすめ動画を見ていって性格診断的なものにたどり着いた。性格診断は子供の頃から好きだった。

 自分を知ることは、自分に合ったものを見つける鍵になる。血液型、星座、体癖論、MBTI、動物占い。たくさんのピースで一体どんなパズルが完成するのかとドキドキしながら枠にはめていく。表3種体癖、裏6種体癖、INTP型。

 そしてついにはもっとも適した言葉に出会った。感動的な瞬間だった、と同時に大きな絶望も感じた。


 司令型(軍人さんタイプ)


 なんという皮肉だろうか、同族嫌悪とはよく言ったものだ。平和主義者でもないのに、平和を願った私が軍人タイプか。

 あぁ、確かにステルスカラーが一番キマるといえばキマる。迷彩柄はメタルギアソリッドを見るまでは嫌いだった。思えば制服好きであった。

残酷で苦手な映像を怖いもの見たさで見るのはどうしてかと思い、調べたことがある。

 ある方がこう述べた。


「きれいなものに囲まれすぎているから」


 野生としての、生きる為の本能で私は怖いものを求めるそうだ。


 社会性0、倫理観MAXになると軍人にたどり着くのだろうか。

 よく考えれば私は落武者の血筋。両親ともに先祖をたどっていくとゴリゴリの兵士の家系。何かしらの理由で戦から逃れて生き延びた者の子孫。秘密主義と雲隠れは生き延びるためのルール。


 落ちても武者として生きる。 


 刀を手放し、忍者のように生き、商人として闘ってきた。


 叔父は拳で闘いを楽しむ方だったという。黒帯を持っていたという話も聞いたことがある。過去に悲しい出来事があり、行方がよくわかっていない。探せば会えるかもしれないし、もしも会えたら話したがらないだろうが祖父の話を聞いてみたいものだ。

 私はフリフリのドレスよりきっと道着が似合う見た目だ。中学生に上がる前に剣道部に入ると決めていた。わけあってやめてしまったが、道場の前を通ると竹刀が激しくぶつかる音が聞こえて気持ちがウズウズする。私の中で血が騒ぐ。軍人の末裔でありながら私は軟弱な身体と軟弱な精神だから軍人としては不向きな体質だ。おまけに剣道を習っていた時間が短いのにしっかり武闘派の心構えが身についたのだ。これまた私が社会でうまくいかない原因の一つであるようだ。剣道部を続けられなくてもいつでも再開できるように基礎だけは忘れぬように心に留めておこうなんて考えていたのだ。しかし、ぼんやりと見ていた動画のコメント欄に武道をたしなむ者で社会に苦労された話がいくつもの載っていて哀しくなった。


 私が習った礼儀作法は私が働いた場所では不利だった...。


 姉のように美しく優しく愛情深い女性にもなれず、兄のようにたくましく面白く賢い男性にもなれず、強い剣道部員にもなれず、立派な社会人にもなれず、弱く無知で何をやってもうまくいかず激しい劣等感を抱いてきた。


 どこにも根を張れない、立派になれない宙に浮く根なし草。


 どこかのコミュニティに入るだけでひずみのような、つむじ風のようなものが発生してやがては嵐となり、落雷が起きるような状況になる。

 誰かと他愛もない話をするだけで相手の闇が浮き彫りになる。私は水面みなもと同じなのだろう。自分の見たくないものが映るから私と向き合いたくない人は多い。相手の親や子と同じことを言ったりするから嫌われても仕方ないと思うが、八つ当たりを受けたりするので文句が言いたいなら本人に言ってもらいたいものだ。偶然にも思考がかぶってしまったが、私はあなたの親でも子でもないし、どうこうするつもりはない。言いたい人に言えないからといって似たような人にジャブを打って憂さ晴らしをするのはいかがなものかと。


「○○の世代は楽でいいわね。生意気でわがままで好き放題やって」


 まあ、あながち間違いではないがどう聞いても好き放題させているのは私でもその子でもなくてあなたでしょ?

 そこまでは言い過ぎかと思い、世代ごと否定するのはやめてほしい、私もその世代だからとお願いしてもやめなかった。これはもう私に対する攻撃だ、許せない。まだ好き放題やったわけじゃないのに!好き放題言っているのはお前なのに!せめて私の記憶を閲覧してから本当に楽で、生意気で、わがままで好き放題やってたかどうか確認して欲しかった。そんなのズルい!私にも好き放題やらせろと抗議するも聞く耳は持ってもらえず試合終了。

 これは私とこの人の問題だから他の人は巻き込むべきではないからとしばらく黙っていたが、私を味方する方がお怒りの様子で現れた。巻き込み事故は回避できなかった...。どうやら知らぬ間に陰口を言われ、自分のお気に入りが悪く言われているのがたまらなかった方が揉めていたのだった。

「おい、やめろって私のことで喧嘩するのは!私が嫌われても私一人の問題だが、私のせいであなたまでが不利になっては二人の問題になっちまうだろ?」

 そう思ったが、私を味方された方は全力で私を可愛がりたいので話は通じない。


 どの世代にも楽するものと苦労するものはいると思うのだが、上下の世代を責めるんだよなぁ...。そんな方には社会や歴史の勉強をお勧めします。私をかばってくださった方は多分そんなものに全く興味がないのでしょうが。


 人に嫌われている理由は他にも"聖書"と同じことを言っているからという意見もある。しかし私は内容をちゃんと知らない。幼少期に豆本を所持していた時期があり、そこに描かれた美しい絵はぼんやり覚えている。食事前と寝る前に祈る為に読んだことがあるくらいだ。私は心の問題を解く為に脳を切り拓いて聖書と同じ答えにたどり着いただけだ。


「好きなことや出来ることを許される範囲で精一杯やればいい」


 前からやっていたが、いまいちどやってみると色々できるようになった。ただ、人間関係がうまくいかなかっただけだ。そこが私の生きる場所でなかっただけだ。

 それを教えてくださったのは私を大切にしてくださっている方々とディズニーアニメだった。幼稚園の頃繰り返したくさんのディズニー作品を観てきた。


 ただ、天才アニメーターの作品に影響を受け続けるとどうなるのかというと普通ではなくなる。美しい絵と美しい音楽と素晴らしい構成夢のような世界に依存してしまうようになった。おそらくもっとも好きな作品はバンビだ。オープニングの曲は私にとっての子守歌で、感動のあまり聞く度に涙が出る。子供の頃は泣くことは恥ずかしいこと、情けないことだと思っていた。多分よくからかわれたせいだ。感情的なのは弱いからだと思っていた。そのせいで私は自分の感情を抑圧するようになり、自らの感情に支配されるようになってしまった。社会で生きていく為のスキルだと思い、大人になりすましていた。実際には仕事をする為の技術でしかなく、人間関係を構築する技ではなかった。

 心の奥深くではおかしい、私はディズニーアニメで世界について学んだのに違うじゃないかと思っていたことだろう。そりゃそうだ、私はあまりに野性的過ぎたのだ。バンビにライオンキング、ジャングルブック、101匹のわんちゃん、ターザン、わんわん物語、オリビアちゃんの大冒険、"きつねと猟犬"など動物の視点で世の中を見がちなのだ。もっとムーランやリトルマーメイド、王様の剣などで学んだ方がよかったのだ。人間嫌いが過ぎる。

 しかし、私を人間にしてくれたのは間違いなく人間の友達なのだ。いつだって人との関わり方を教えてくれた。


 そして、人間社会で生きていけないことを証明してくれたのも友達だ。残念なことに私は動物的過ぎる。私の行くべき場所へ導くのは野生の動物。彼等は私の前に現れ、追いかけているうちに目的地着く。

 残酷だ、人として生まれたのに人間性に欠けていて人の心よりも動物の方がわかる。前世があるとすれば、前世は人間でその前は母が子供の頃に飼っていた犬だったと思いたい。それならば母の意志に忠実であろうとすることや人間とうまくやっていけないのにも納得がいく。

 幼少期から抱えてる心の問題を紐解くのにどの時点で、何がどうしてそうなったのかを何度も記憶の中でワープしてループして特異点の探し続けた。

「私のストレスの根源はなんだ?どこにあるんだ?」

 そして見つけた、どうしようもない答えを。

 私のストレスの根源は"生"にある。外見と中身が一致していない。人間の中にうさぎか小鳥か小動物が2匹いるに違いない。メスとオス一匹ずつだ。だから小動物とは仲良くやれる。これで私の問題は万事解決だ。この答えに納得できない者にはこう言おう。

「私はユグドラシルという名の生命の樹から落ちてのぼれなくなり、人のもとにコウノトリが届けてくれた猿だ」

 チンパンジーと人間の記憶の話を聞いた時に納得した。確かに情報を文字だけでなく、映像や画像として記憶している。私の眼はカメラのレンズと同じようなものだと認識した。人間のフリをしているチンパンジー。人間になろうとしたチンパンジーかオランウータンかもしれない。ゴリラのぬいぐるみが好きだったり、ドンキーコングが好きだった幼少期の記憶がふとよみがえる。あんなに子供の頃に遊んでいたのに、猿が好きだったのにいつからか嫌いになっていた。猿は人のものを盗む、荒らすという認識になっていたかもしれない。


 倫理の漢字を入れ替えてもいいなら輪理と書きたい。私の人間学の研究の結果がこれだ。ハチャメチャな輪の中の理に基づいて生き、自分の考えを持ち、意味や理由をつける。そうすると、苦しいだけの記憶が楽しいものに変わる。受け入れ難いものが受け入れやすくなる。

 私が考える"輪理"と"輪廻"を繋げることで面白い遊びができるようになった。名前で遺伝子を探すという変な遊びだ。名前の由来、言葉のルーツをたどって先祖を探すのだ。姿形を見て、音を聞いて近しいものを探す分類学のようなものだ。

 おかげで文字や数字からさまざまな隠されたメッセージを見つけることができた。隠れミッキーを探すようなものだ。私にとって文字も数字も"絵画"という認識であり記号でもある。記号はピースだ、そして暗号だ。暗号を変換していくと私でも理解できる言語というツールになる。


 私は幼少期から才能と勇気と元気が足りないと感じていた。夢を追いかけるにはあまりに平凡すぎる。前に踏み出す自信がなくピンチにならないと重い腰をあげられなかった。生命の危機を感じてようやく自分らしく生きねばと思うのだ。才能はないが、遺伝子は受け継いでいる。努力を続けたいという意志はある。自信は未だ皆無だし、元気も常に不足気味だ。

 けれど、そんな私の元に二つのメッセージが届いた。お星さまになった大好きな方からの短いお手紙だ。私に生きる元気と夢と音楽を下さった方...


wowakaさん


 彼はきっと彼のなりたいロックスターになったのだ。


 そう思うのは現実を受け入れるためだ。悲しんでほしいという気持ちで歌っていたわけではなかろう。でも辛くて彼の声を聴きたくないと拒んでしまうこともある。大好きな声を拒むなんて...。何か受け入れる理由という器があれば受け入れやすくなる。だから私は自分に言い聞かせる、変な言い訳を。悲しむのが美徳というのもあるが、私は辛い。辛いのは苦手だ。


 私はwowakaさんが遠くへ旅立ってから自分の心の声が聞こえなくなり自我を意識できなくていた。ある日、さんぽしているときに自分の本当の夢について考えていたら叶わなくなったことに気づき、泣きながら川沿いを歩いた。

 いつか漫画を描いて、アニメ化したらエンディング曲はヒトリエが良い!ボーカルのwowakaさんの声を聴いていると自分の脳裏にある世界とシンクロするのだ。そういう夢ばかり描いて、トラウマやコンプレックスを抱えていて肝心の漫画は描けなかったが描きたい気持ちはずっとあった。

 だけど、wowakaさんは旅立った。それを知って涙がボロボロと零れた。そんなときだ、一枚の美しい羽根が飛んできた。あまりに不思議な出来事に嬉しくなり、その羽根をwowakaさんからの贈り物として大事にすることにした。

 毎年命日に祈りを捧げていたのにだんだん忙しくなって忘れてしまったりするのがショックだった。彼のことを忘れないようにしたくて、もっと知りたくなって調べていたら彼が遺したメッセージを見つけた。暗号化されているが読み解きたいと強く思い続ければ読める筈だ。ヒントは彼が星として命を授かった日に隠されている。とは言っても私の勝手な解釈だが...。


 彼がお星さまになってもヒトリエは終わっていない。彼の意志は受け継がれている。それがとても嬉しい。

 彼は私の命を救ってくれた。彼が急性心不全となったため、何故そうなったか詳しく調べたことがある。コメントを書いていた方の知恵のおかげでもあるが、そのときの症状を知っていたため自分に似た症状が出たときに早めに対処ができた。高血圧になっていたのに気づき救急車を呼ぶことができた。高血圧といっても命が危ないとされるような数値ではなかったため救急車を呼ぶほどではなかったのだろうかと罪悪感はあったが、手遅れになるのを待つわけにはいかなかった。元気そうだったのに容態が急変するのは珍しくない。それに、私は体が弱いので病気の進行が速い。風をひいたかな?と思っていたら短期間で肺炎になったということはしょっちゅうある。

 寒いから鼻水が出ているのだろうか、疲れているから体調が悪いのだろうかと異変を感じたときには既に副鼻腔炎がかなり悪化していて大量の薬を飲むはめになった。違う病気で違う医師にお薬手帳を見せたときにはよほど悪かったんだなと、そのときはじめて私の体が危険な状態だったのと知った。


 体が弱いと職場で言うと、今の子は体が弱いわねぇとか健康管理ができていないとか病院に行けとか怠けているとか言われる。しかしどの時代にも体の弱い人はいたし、健康管理がちゃんとできていても弱い人は弱い。なんならそう言ってくる人の方が仕事量が少なくて健康管理ができていないことが多々あった。そういう人に限って自分は病院に行かなかったりする。体が弱いと言われることが嫌だから必死に頑張っているのに、報われないとずっと感じていた。怠けていると思われなくて何年も自分を追い詰めていた。信じられないなら証明してやろうと活気になってしまうのが私の悪い癖だ。体調が悪くても認めてもらうのも、休ませてもらうこともずっとずっと難しかった。

 ざっと数えても持っている診察券は25枚以上、使ったことのある薬は57種類以上。高い検査代を払ってもほとんど何も見つからない。たまに勘の鋭い医師がすぐ異変に気付いて検査して原因が見つかることもあるが、そういうときは結構悪化しているとき。しまいには、これはあなたの体質であり、個性なので治せませんと言われたのだ。付き合っていくしかないとわかってはいる。しかし、理解したくない、理解できない人は全力で否定する。いや、何かあるはずだ!精密検査をしなさい!なんていうのだ。


「では払ってくれ、ついでに有給も使うわ」


 そう言えばよかったとちょっとだけ後悔している(笑)。


 私にとって社会が決めた基準はあまりあてにならない。過労死ラインや血圧や熱の基準は一般人向けであり、一般的でない仕事や体の弱い人や敏感な人や珍しい人向けではない。一般的でない仕事はしていないが、過労死ラインの基準で働いたらもれなく病院行きになる。仕事によっては負荷のかかりかたも違う、負荷のかかる部位が違う、みな一緒なわけない。人はみな体質が違う、基礎体温が違う、感じ方が違う。体温が一度変わるだけで機能が著しく低下したり上がったりする、医療従事者ならばみな知っている筈だ。血管の硬さによって起こる変化は知っている筈だ。しかし、どうしても一般的なものさしではかるのだ。

 私は基本的に血圧は低め、熱が低め、呼吸器が弱い、胃酸過多、可動域の悪い関節がある、ホルモンバランスが崩れやすい、子宮筋腫がある、ニキビができやすい、疲労物質の溜まりすぎ、リンパの流れが悪い。

 微熱だとしても私の体にはキツイ。血圧が少し上がっただけで嘔吐する。予想外の痛みを感じて迷走神経反射が起こる。乗り物酔いが激しい。敏感にもほどがあるだろうと言いたくなるが、どうしろというのだ。あらゆる器官を広げれば変わるかもしれないが、ではどうやってやるのだ?と問いたくなる。


  途方に暮れる暇もないことに憤りを感じて、私の体質を認めないのならば壊れるまで働いてやろうじゃないかと無茶をするようになった。そして間もなくして関節リウマチになった。

「やらかした...」

 無茶のし過ぎで関節リウマチになったという証拠はないが、無茶のし過ぎで免疫力が落ちたのは確かでそこから異変が起きてもおかしくはない。箸が持てないほどの関節の痛みを感じたのは初めてだった。これまた問題で、リウマチになっても誰も信じられないという感じだ。私は誰も信じてくれないような嘘つきかだったか?正直に物事を言っていたと思うが。不思議と嘘をつくと信じてもらえるのだ。だったら嘘をつきながら生きればよかった(涙)。

 リウマチと診断した医師でさえ、まだ若いんだからと若干否定的であった。鎮痛薬で軽くなったもののまだ痛いことがあった。医療技術が進んでいるからリウマチは治せる病気だ、という情報を目にして試しに違う医師のところへ行くと症状ごと否定された。まさか否定されるとは思ってなくて血液検査の結果など持ち歩いておらず、結局もう一度検査するはめになった。色んな薬の飲み過ぎということもあり、かなり絞ってリウマチの治療を続けた。

 治ると言われたのに今一つ効果を感じず、ストレスを感じるばかりで治療はやめた。ホルモン剤と鎮痛薬、吸入剤だけはチートアイテムなので手放さず、長年続けてきた病院通い生活は卒業した。本当に必要なものだけ、必要なときだけあればいい。

 しばらくして私の体調は今までにないくらいとてもよくなった。関節の痛みも嘘みたいに感じなくなった。副鼻腔炎の治療を終えた後は呼吸が楽になり、睡眠もちゃんととれるようになった。お腹の調子が悪いということも少なり、猫背も直った。

 薬物依存だったのかもしれない、そう思い食生活も見直した。自分の体が弱いのがコンプレックスで栄養を取り過ぎていたのかもしれない。強くなろうとして必要のない栄養までとっていたのかもと思って、食べたいものをほどよく食べたらなかなか治らなかったニキビもいつの間にか消えた。

 少し前に親友とストレスと依存について話したことを思い出した。ほしいものを今手にできないからと先延ばしにしているとストレスが溜まり、違うもので満足させているとかえってほしいものが遠ざかってだんだんと依存してしまう、執着してしまう。食事もそうかもしれないと思い、本当に食べたいものだけを意識して食べるようにした。

 そうしているとなんだか性格まで明るくなった気がした。頭もよく回り、仕事も効率よくできるようになった。疲れ知らずになった。あまり経験したことのない晴れやかな気持ちだった。今ならなんでも出来そうと思い、キャリアアップを企てた。   

せめて今いる環境を整いたいと思い、できる限りのことはした。


 怒りには愛で対処せよ、というのが本当かどうか試したくなり嫌だなと思っている人に対してもそうでない人に対しても全力で愛を持って対応した。面白いことにみなどんどん笑顔になり、優しくなり、仕事を励むようになった。依存されることも少なくなり、私も無理な仕事を断れるようになった。


「なんだ、みんな病んでいただけなのか」


 優しい人間関係に合わせることはあったが、自らそういう空気に持っていくこともできるのかと一人感心していた。


 しかしそれも束の間、愛だけでは対処できないこともよくわかった。


 エゴイストに対抗できる立場でもなければ、知識も足りておらず、価値も感じていない。


 ビジネスを根本から理解しないまま位だけが上がる人にはお手上げだ。それを許す会社にも魅力を感じないが、私が困っていたときに手を差し伸べたのもまたその会社だった。恩は返さねばいけない、こんな受け皿でも必要な人には必要なのだ。

 頑張っている人が苦しむのも、手柄を横取りされるのも見ていられず必死に抵抗した。抵抗しても抵抗しても何も変わらないどころか悪化していくだけだった。こんなことやっても無駄だがもう少し頑張ろう、みんなでできることはしよう!という思いだった。大切に思っている人の為に、自分の為に無理をしていたらとうとう働けなくなった。

 嘔吐を繰り返し、激しいめまいと頭痛にも襲われた。低血圧気味だったのが突然高血圧気味になった。突然呼吸困難になり、胸がぎゅっと絞られるようだった。

 よく考えたら調子はよくなったが、不審な点は一つあった。


 微熱だった。


 健康的になったから基礎体温も上がったものだとばかり思っていた。微熱を気にして計測したら案外下がっていたりして気にすることではないのかもと判断してしまった。今までは体調が悪くても休めば少しずつ回復していくケースが多かったが今回はそうならなかった。ずっと体調が悪く、私生活も困難になった。心当たりはあるが、検査しても何も見つからないどころか人との会話に異変を感じるようになった。

 今まで感じなかった会話の矛盾が気になるようになった。周りの人が現実から目を逸らしている感覚は別に今に始まったことではないが、信頼していた人、会話が嚙み合っていた人まで嚙み合わなくなった。

 私がおかしいのだろうか?

 きっと精神的に問題があるんだわ!と思っていたら精神的に問題はなさそうだと言われた。まあ、そうだよね。取り乱したり、支離滅裂なことを言ったりいなかったものね。普通って言われるのが一番哀しかったりする...。


 もう、打つ手もなく本当に途方に暮れてしまった。原因が見つからなければ救済措置もとれない。仕方ない、やりたくてももうできない。身内に頭を下げて助けてもらう以外手段が見つからない。なんとか出来るのことはしよう、できる限り考えよう、探そう。

 全く体調は回復せず、苦しむ日々を過ごしていると、いい加減決断しなければと思い始めた。そんなときに上司から連絡が来て体調はどうなのか、出勤してくれないかと聞かれた。丁寧に断るつもりが、見て見ぬフリができていたものができなくなり一気に頭に血が昇ってしまった。溜まりに溜まっていた不満が大爆発してしまった。


「あーぁ...またやっちまった」


 これで何度目だろうか、依存されない方法はがむしゃらに勉強して実践しているが職場って結構難しくないか?出世すればいいのか?出世できるのかどうか怪しいし、出世したとてどうにかなる問題なのか?


 その後も色んな人に何度も何度も同じ話を繰り返す羽目になった。


「ええと、最初からそう言いましたが?あと何回同じことを言えば良いですか?別の言い方がわかりやすいですか?」


 若年性認知症というやつでしょうか?病気かどうかはわかりませんが、私の言っていることを絶対に認めたくない意志だけは感じます(汗)。

 言いたいことをシンプルにしても、言い方を変えても、難しくしても伝わりません、相手が受け取る気にならない限り。変わりたいと思わない限り。


 だがしかし、拒む理由があるから拒んでいる。


 そんな人でも尊重しましょう。

 そして私自身も尊重しましょう。


 そして一人反省会が始まる。何故、有能で知恵も経験も豊富な方が部下との良好な関係が結べないのでしょう?私のせいでしょうか?私がそうさせたのでしょうか?

私は他の人にそんなに興味がなかった、自分の仕事をしているだけだった。環境が悪いから自分が働きやすい環境になるように仕向けただけだ。他の人だって同じようなことをしているじゃないか。自分より優秀な人はいる、誰にでも優しくする人はいる、私がいなくても回るようなチームに大体いる。私が言いなりにならないから執着するのでしょうか?絶対支配したい何かがあるのでしょうか?他の人にも拘っているのを私が知らないだけでしょうか?


 私が他の人と違うとすればかなり変人で、霊感が異常なくらいだ。最近さんぽしている犬に全力で警戒されて拒絶反応を見せるので悲しい思いをしている。私に何かやばいものでもついているのだろうか。可愛いわんちゃんに怪物を見ているような目を向けられる。

 いや、そう言えば一時期やたら道を譲られたり、絶妙なタイミングでエレベーターが来たり、知人でも知らない方でもわざわざドアを開けてくださるようなことが続いたような…。

 あの時、ちょっと怖くて気持ち悪いけど、モーセが海を割ってるみたいで面白かったんだよな。飲食店に入れば静まり返り、出れば繁盛し始めたり、買おうと思ったものが毎回売り切れだったり、一つしかなかったり、好きなものや昔好きだったものが流行ったりと不思議な体験はやたら多い。

 自分に影響力があるとしっかり認識したら何か変わるのだろうか…。


 相性の良い上司とは良い職場を作れるが、相性が悪いと永遠に対立する。上司のことを想い敬意を示したら依存されてしまうし、示さなければとことん陰湿なパワハラを受ける。相性が悪い上司とうまくやっていく術をずっと探していたが私が離れる以外はないのかもしれない。過去に相性の悪い上司と揉めたこともあったのだが、全て私が悪いのだというものだから部下が誰一人寄り添ってくれない事態になった。私はもっと同僚から責められるものかと思っていたのだが、実際には擁護するような意見が多くあったと後になって知った。別に孤立させるつもりはなくても勝手に孤立していく。真面目に仕事をしなければいいだけと思うこともあるが雑に仕事をしてたのでは稼げないと思っている。


 本当は平和に仕事がしたいだけなのだが、うまくいったことはない。大人しくしていても、前に出てガンガン働いても、バランスを取ろうと努力してもダメだった。相性が悪すぎる人といても絶対によくない方向に物事が進む。そして大体私が去った後徐々に平和になっていくパターンが多い。そういうときは泣きたくなる。理不尽だと叫びたいのである。



 口先だけの人間は嫌いだ。あれこれやると言いながら実際には全然しない、もとよりやる気などないからだ。自分でそう言ったことも忘れている。やるかどうかは別にその人の勝手だし興味はないが、ビジネスにおいては話が変わってくる。上司と部下の間にだって契約は発生する。書類にもそうすると書いた上でしないことがあり、不満が出るのも致し方ない。まあ、最初からそんなに期待してなかったし!と見て見ぬ振りしていても、好きな部下の意見以外は聞かない、労働環境を変えないのでいずれ崩壊していく。


 職場の崩壊より先に自分の身の崩壊が訪れるので多少考える時間が出来る。そこで私は思った、私も口先の人間ではないか?やるやる詐欺を日常的にやっているではないか?家事をサボってしまうことも多々あるし、自分の一番やりたいことに関してはずっと目を背けているではないか。そう思うと、私も口先だけなのかも。いい加減自分にした約束を守らなければと決意した。



 スポーツをする前の健康管理と準備運動が大事なのと同じで、創作をする前にも準備が必要だと噛みしめている。以前は自然と創作が出来ていたから同じ気持ちでやり始めたらめちゃくちゃキツイということがわかった。神経のすり減りが以前と比べ物にならない。以前は瞑想感覚でやっていたのが本気でやることになったので、給料のない仕事という感覚になった。仮に給料が入ったとしても趣味で楽しんでいた頃とは違う緊張感に苦しめられる。

 何でもかんでも軽く始めてしまうのが私の悪い癖だが、あんまり真剣に考えるとだんだんネガティブ思考に陥り次第にやらない言い訳ばかり考える。

 インプットはするが、アウトプットしないから成長しないことに悩んでいたので最初はアウトプットの練習で考えをメモしてどんどん頭をすっきりさせるということから始めた。

 しかし、インプットしていた期間が長すぎて溜め込んでいたものが多すぎて一つ出したら色んなものが雪崩のように出てしまって自制心がなくなってしまった。そうすると全ての人間関係が崩れていく。友人関係も例外ではない。親しき中にも礼儀ありを徹底していたため、友人に対してかなり抑圧していた感情を持っていたことに気づいた。不満はあるが押し付けてはいけないと、本音を言わずにずっと過ごしていた。嫌われたくない一心で良い友人を演じていた。好き嫌いを自分で許さなかった。


 お互いに好きな部分も嫌いな部分もあっても良かったのに...。


 友人を家族のように思っていたのが何より問題だった。みんなで一緒に幸せになりたいという想いが強すぎた。私は今も昔も私の人生を生きていなかった。家族のため、友人のため、同僚のために人生を捧げてきたことをようやく気付いた。自己投影をしないように意識していた筈なのに気づけばもうどっぷり相手の領域に浸かっていたいた。そして私の散らばった心の一部を無意識のうちに回収してまわった。


 キングダムハーツかよ。ゲームじゃないんだから(笑)


 自我を取り戻してから本格的に自分のやりたいことを始めた。しかし、やりたいことがありすぎて何から手をつけていいかわからない状態だった。とりあえず環境を整えながら考えをまとめようと家の掃除を始めたが、考えがまとまるどころか余計に混雑した。家は綺麗になっていって不要なものも捨てれるようになったので、不要な考えも手放せるようになった。どうしても執着するものにはお疲れ様です、と感謝の気持ちを込めてお別れを告げた。


 調子が悪くて何もできないでいるとだんだんストレスが溜まっていくので、治療のうちだと思って創作に取り掛かった。人間関係が崩れてショックを受けていたが、崩れる前に実は自分の人生を歩むか友人と楽しい日々を送るかで悩んでいた。なかなか決断ができなかったが私は私で色々やっていこうと一人で計画を立てていた。


 推しと会ってみたい、話をしてみたい!感謝の気持ちを伝えたい!そんな気持ちでいっぱいだった。自分と向き合えなくなったとき、辛いとき、勇気が出ないときに元気をくれるのは推しだ。これからも応援していきたい。そして私も前に進みたい。


 最初は手紙を書こうと考えた。送るかどうかさておき気持ちを整理する練習をしようと思った。しかし手紙にしてもメッセージにしてもなんか面白くない、もっと興味持ってもらえるにしたい。ファンアートも作っていたのだが、途中からどうしてもやる気も出ず、集中が出来なくなってやめてしまった。ならば文章にしてみようと思い本を書いてみることにした。本ならば読みたい人が読みたいときに読めるからいいかもしれないと書き始めた。


 しかし、その後人間関係の壮大な断捨離をしてしまったことが原因で大きな虚無感に襲われた。今までの楽しい日々はなくなってしまい、さみしさや無力感、罪悪感が私の心を埋め尽くした。ちゃんと考えて決めた筈だ、やれることはやった筈だ、どうしてまだ気にするのだろうか。どうしてわかっていることを何度も反芻はんすうするように勉強し続けるのだろうか。どうして心の問題に気づいてもまだ解決できないのだろうか。どうしてまだ嫌な記憶を反芻するのだろうか。どんなにエネルギーを注入してもすぐにカラカラになる。

 ネガティブな雑念があると気が散るのでどうにかしたくて思い出の品をどんどん手放した。その中でも一番大事にしているアルバムを捨てようかと思った。


「思い出は心の中に」


 某有名なゲームの名台詞を心に唱えながら、アルバムを見返した。出来ることなら映画のワンシーンみたいに木の下で燃やしたいのだが、出来ないので大人しくゴミに出そうかと考えていた。

 しかし、写真がないと私はすぐ忘れてしまう。忘れたくないことまで...。


 私は今一度考えた。


 私が自分を見失ったときに最初に開いたのはアルバムだった筈だ。


 自分の過去を忘れたときに読んだのは日記だった筈だ。


 私は今度こそ本当の問題に気がついた。


 私は本当は忘れたくなかった、良い出来事も悪い出来事も。


 私はまだ自分が完璧主義を捨てていないことにようやく気がつくことができた。


 私は聖人ではない、ただの人間だ。


 ずっと受け入れられなかった。自分の悪いところをもみ消すようにして改善させて完璧人間を演じ続けていた。不必要なものは捨てる、無くす、効率化させる、ルールを作る。そうやって私は自分の感情までも否定した。


 私はだって辛かったのだ。


 私だって傷ついたのだ。


 私にだって自分の意見を言う権利はあるのだ。


 自分の感情を殺していたことに気づいていた、愛すると誓った筈だ。ずいぶん前にうつ病について書かれた本を読んだときに自分を思い出した筈だ。

 なのにまだ抑圧している。何をやっているのだ。


 自分の心の闇に気づいた日に自分を守る為にその闇を抱えて生きると心に決めたじゃないか。


 私は強がりだ。自分が傷ついた事実さえもなかったことにしてしまいたいのだ。体はずっと私に救難信号を送っていた。


・・・---・・・


 思えば私のトラウマがなんなのか、どうして克服できないのか気づいたのは嫌な記憶を反芻し続けたからだ。反芻している内に違和感に気づき、過去に取り残した自分が見えた。


「おかえり、私の感情」


 なんだか心が暖かくなった。懐かしい感じがした。


 アルバムはいらないからと手放したいことは今まで何度もあったが、結局なんとなく手放せなかった。いろんな人間関係を断った後にアルバムを開いたとき一枚の家族写真が落ちてきた。端っこに色鉛筆のあとがついていてふと裏返すとメッセージが書かれていた。名前は書いていないが知っている筆跡だ。


 私が生まれたばかりの頃の写真だった。幸せそうな雰囲気と優しく愛のあるメッセージだった。


 まるでこの日のために書いたみたいに。


 そのときはボロボロと涙を零したのに、それでもまだ気づかなかった。


 好き嫌いはあってもいい。完璧な人は人とは呼ばない、神と呼ぶのだ。神にならなくても良い。神に憧れ過ぎなのだ。何でもかんでも言っていいわけではないが、自分の意見を言う権利くらいは与えられている。私にだって人権はあるのだ。


 そう、私はずっと人として扱って欲しかったのだ。


 人間らしく生きることを許されずにあまりにも長いこと生きていた。この世の中には生まれてから死ぬまで人として扱われない人もいる。そんな人をたくさん見てきた。実際に会ったことはなくても見てきたのだ。人として扱われない方が楽という人もいるかもしれないが、私はそうではない。また、私と同じような人も救いたいと思う。

 だから私は抗ってきた。全てを変えたいとは思わない、私は自分に出来ることをやれたらそれでいい。今の社会が気に入らないのなら好きな社会を作っていいけばいい。私はずっと前から居場所のない人に居場所を作りたいと思っていた。

 ある人がそういうことをしたいと言っていたからかもしれない。あのとき、そんなのは危険だとか大変だとか言わずに応援してやればよかったと私はずっと後悔していた。私自身が無謀なことをして失敗してきたからそうなってほしくないと思っていたから。壊すつもりはなかったけど、その子の夢を壊してしまったかもしれない。


 誰かの居場所を作るのを夢見て、作った後に変な思想に囚われて虐待をするようになった施設もあることを知っていた。歴史の苦手な私が何故そんなことを知っているのだろうかと不思議に思っている。

 実際その子が若干過保護気味だということを後々知った。応援をしなかったのがいけなかったのか、注意をして正解だったのかわからずにいる。そこまで考えるのはさすがに個人の問題に干渉し過ぎかもしれない...


 私もまた過保護なんだろう。


 しかし、そんな私でも誰かの居場所を作ることには成功した。


 私のパートナーことパトちゃんの居場所くらいは作ることはできた。パトちゃんは我が家の居心地がよいのだろう。他で見ることのできない存分に羽を伸ばした姿を嫌なくらい見る。餌をあげた鳩が家に住み着いたかのように...


 私の計画していたものとは全く違うが、それでもまぁ良いか。どうせなら恩返しをしてくれる鶴がよかったのだが、甘えられたいばっかりの男しか来なかったのが現実だ。誰かの居場所を作る際はこういうことも覚悟しないといけないのだろう。


 それにしても、まだ場所を用意すらしていなかったのにパトちゃんは勝手に舞い込んできた。フライングだっての。パトちゃんがいるおかげで良い生活が送れるようになったので文句は言えないが。



 私は時々思う、自分の願いは実は気づかない間に叶っていたりする。求めていたものと違うと駄々をこねて求めすぎているのかもしれない。なんだ、ちゃんとやったことの成果出ているじゃん、気づいていないだけかと反省した。

 達成感を得られないとモチベーションが上がらずに病んでいくとわかっているから、一日一つのミッションだけでも設定してクリアするようにしている。ゲームだろうが家事だろうが、なんだろうが。

 三日坊主でも三日続いただけすごいと自己評価するようにしている。別に私にとって結果というのは実はあまり重要ではないのかもしれないと薄々思っていた。料理もそうだが作る過程が一番楽しくて美味しければ尚良いという感じだ。

 これまでも作っているだけで満足して一歩前に踏み出さずにいた。しかし、本当のところは周りを気にしすぎて前に出たいという気持ちを隠していたのかもしれない。


 だって、自分の夢を本気で追いかけていた頃の輝きや心地良さを忘れたことはなかった。あのワクワクやドキドキにずっと依存していた。過去に感じた感覚に囚われていても仕方ない、私は今も恋がしたいのだ。私は勘違いしていたが恋愛は男女関係や肉体関係のことだけではない。このドキドキが恋なのだ。私は昔からどうも過去に囚われがちで現実逃避する癖がある。何故過去に執着するのかというと現在は失ってしまったから。喪失感を埋める為のものを過去に探しがちだ。過去の失敗を、悔いを繰り返したくなくて前に進むのが怖くて、何度も何度も過去に戻る。追いかけた先の未来に拒まれるのを恐れている。他者の評価をどこまでも恐れている。


 だけど、堂々としていないとうまくいかないのだ。


 だから一歩前に踏み出した。


 導かれている、呼ばれているような気がずっとするのだ。



 どうしても元気がないけど、元気を出したいときは音楽を聴く。高いビートは心臓の鼓動を少しだけ速めてくれる、強くしてくれる。気分も少し高まる。落ち着いた音楽は癒してくれる。

 昔から音楽を聴かずにはいられなくて、ひどく心を病んでいたときはヘッドホンを手放さなかった。外出するときは危ないからと音楽を聴くのをやめたら逆にぼーっとして赤信号に気づかなかったこともあった。

 しかし、ヘッドホンをしててもぼーっとして事故に遭ったことが一度だけありそれ以来、ヘッドホンを外したが正直つけていてもつけていなくてもぼーっとするときはするので外出時はなるべく注意して歩くようにしている。

 憂鬱な気分になると音楽でさえ煩わしくて聴かなくなることがあるが、そのまま行くと一切聴かなくなるので、70%のストレスは音楽で解消されると心の中で唱えて聴くようにしている。



 体調が悪いからと外に出ないでいるとさすがに食料がつきてくるし、気晴らしに外に出て体を動かしてみようかと重い腰を上げた。

 大好きな星街すいせいさんのビビデバを聴いていたら、新曲も聴きたくなりぼんやり聴いていた。アルバムを予約して、ライブも見に行きたいと思っていたのに体調不良でそれも遠ざかってしまった。新アルバムのこともすっかり頭から抜けていた。


 Caramel Painという曲を聴いていたら瞼が涙でいっぱいになった。私の心の中を代弁しているみたいだった。そのまま星街すいせいさんの曲をずっと聴きながら歩いていたら、階段を上がった先に気になるポスターが見えた。

 私の見間違いだろうかと確かめる為に階段を上った。


 星街すいせいさんのポスターだった。


 そこに書かれたメッセージを読んでいた後に涙を堪えるのが大変だった。涙目で鼻水垂らしているやつがいるけど、あいつ大丈夫か?という目で見られそうでなんだか落ち着かなかった。フラペチーノがなかなか喉を通らなかった。


 

 会ったこともない方から暖かい言葉を受け取れるなんて光栄だ。


 彼女の存在を知ったのはコンビニで見かけたホロライブの一番くじのイラストボードがきっかけだった。彼女のビジュアルも好きだし、イラストがとても美しかった。そのイラストボードをすぐ手にすることはなく、後で探したらちょっと手が出にくい値段だったため買うかどうか長いこと悩んだ。

 しばらくして彼女の声素敵だなあと思ってソワレを聴いていた。パトちゃんが宝鐘マリンさんと兎田ぺこらさんが好きで、その影響を受けて段々とホロライブにハマっていった。

 そしてビビデバという曲が出て、本格的に恋をした。その曲が与えてくれる気持ちがなんとも心地が良かった。まだキラキラと輝いていた頃の自分に戻った感覚がした。夢を追いかけていたあの頃のような楽しい気持ちにもういちどなれたのだ。

 星街すいせいさんの素敵な姿を見て、私は彼女のように輝きたいと思い始めた。私はあるときから自分がいなくなった後のことばかり考えるようになっていた。もしものことがあったら身内が大変なことにならないように、家は常に綺麗にしよう、必要以上のものは買わないようにしよう。必要のないものは全部断ろう、将来の為にお金は大事にしなければ!と自分の好きなものでさえ拒んでいた。そうやって何でもかんでも我慢して、いつしか自分の人生を生きなくなった。お洒落もしなくなった。

 だけど輝くアイドルを見て心が躍り、もういちど青春をしたくなった。


 着れなかった可愛い制服、出来なかった好きな勉強、行けなかったお洒落な学校。思えば、あのとき出来なかったことは今なら出来るじゃないか。そう思ったとき、さっそく着たい服を探しに行った。面白いことにイメージにかなり近い服をたくさん見つけて浪費してしまった。もう過去にも未来にもすがっていたくなかった。私はちゃんと今を生きていたい。彼女はそう思わせてくれた。


 私は好きな人の喜ばせるのが好きだ。だから怒らせたり、悲しませたりすると自分自身も落ち込む。私は嫌な奴だ、ダメな奴だと昔から自分を責めて相手に合わせることに必死だった。自分を受け入れてもらう努力をしていなかったかもしれない。成人してからは家族に自分の意見を述べるようになった為、家族とはいい関係になっていった。家族に本当のことを言って嫌われたら、もう仕方ないやとそんなに執着していなかった。友人よりもよほど友好な関係だったと思う。


 私は恋愛依存のオタク気質であることを理解した。応援したり追いかけるのが好きなのであって、相手が私を好きかどうかは別に関係ないのかもしれない。通りで片思いが多かったわけだ。


 相手がもし、好きだと言ってくれたらそれはもう最高だ!ラッキーだ!


 そんな気持ちで漫画家を目指していたから違和感を感じたのだ。私は別に人気者になりたいわけじゃなくて、やりたいことやって、それでもっていいね!をもらえたら良いと思っていた。


 私はようやく絵が描けなくなった本当の理由を理解した。


 プロになりたいわけでも、上手い絵を描きたいわけでもないのだ。自分らしい絵、自分の好きな絵が描きたかった。中学生のとき絵を描いて、美術の先生に見てもらうのは本当に楽しかった。添削されるのがそんなに嫌でもなかった。ただただ絵を描いて、褒めてもらったり助言してもらったりして幸せだった。


 私はこれまでずっと自分らしく居たかった。


 そしてこれからも自分らしく居たいのだ。もう、必要のない場所で必要のない演技はしたくない。


 私はこれまであまりに卑屈だった。誰かを不幸にしてしまったとばかり思っていた。だが、私自身も不幸にされた。そして、実は誰かを幸せにしていた。幸せにしてもらっていることにしか焦点がいかないものだから、なかなか気づけなかったが赤ちゃんの頃の写真を見ればわかる。私を抱いている家族は幸せそうな顔をしていた。もしもいつか子どもが出来て生まれてきたら、同じように抱きたいと思う。愛情をいっぱい与えて、友達のような親子関係で居たい。私には家族という概念はやや堅苦しい。


 長らく続いた一人反省会は一段落しそうだ。ようやく詰まって散らかっていた頭の中が整理されたようだ。手紙のつもりで書き始めたのに反省文になっちまった。ちょっとだけ書こうと思ったのに長文になってしまった。全く不器用だ。これだから人間関係がうまくいかない。しかし、私にも持続力があったのが嬉しい。


 人間関係に納得のいかないことを言われたりされたりして、本当はもっと言いたいことがある、言い足りない、私をこんな気持ちにさせたつけを払ってほしいという変な気持ちがどんどん湧いてくる。私はどうしてしまったのだろうかと考えこんでいた。なんで嫌いな人のことなんて気にするんだろうか、何故にどうでもいい人の不幸を願うのだろうかと不思議だった。


 そして思い出した、これがいわゆる防衛反応なのではと。

 私の心が痛かったと言っているのだ。我慢しているのは辛いと言っているのだ。


 私にも他者を攻撃したいという弱さがあるのだ。


 私はかなり復讐心が強い。恩返しに全力だが、仇で返すときも全力。与えてもらった分だけ報復したいのが私の本質なのだ。


 だから私は報復を謀ることにした。

 好きなことを全力でやって幸せになるという方法で。




 「これは私の復讐だ!陰謀だ!私の楽園を作ってみせようぞ!」



 そうは言っても私はめんどくさがり屋なので、誰かに才能ある、向いてるからと言われてもなかなか気力が起きない。

 しかし、親しい人が言っているのだから試してみる価値はあるなと思う。それでうまくいかなかったら...


「ほら、私の言った通りでしょ!」


 と、仁王立ちしながら言える。うん、それは悪くない!


 私は賭け事をしたら沼りそうだからしないたちなのだが、賭け事でしか動かなかったりもする。

 親しい人の言うことが本当かどうか、私がどこまで頑張れるかどうかはっきりさせようじゃないか。



 そうやって創作を始めた...

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