第26話「明けゆく空を仰(あお)ぎながら」

 深夜と早朝の境目が溶け合うこの時間帯、町立病院の廊下にはわずかに朝の光が差し込み始めていた。理久(りく)と凛花(りんか)が夜の町で情報を探し求め、ついに戻ってきたのは夜明けの寸前。若いスタッフは待合室でずっと神経を張り詰めていたが、企業の関係者らしき人間が姿を現すことはなかったらしい。


 「もしかして、意外と追ってこないのか……? それとも、もっと大がかりな仕掛けを準備してるのか……」


 理久は苦い顔で病院の建物を見上げる。ヘリコプターやドローンの音もなく、裏道で待ち伏せされている気配も感じられない。ただ、だからといって安全を確信できるわけではなかった。すでに明るくなり始めた空を見て、嫌な緊張感が増してくる。


 「とにかく、アルマがいまどうしてるか確かめましょう。彼女が動ける状態なら、すぐにここを出るしかない……」


 凛花が焦燥をにじませるように言い、若いスタッフも同意する。昨夜コンビニで得た結論どおり、町のタクシーは期待できず、自分たちの足で歩いて隣の市街へ抜けるしか手段はない。それなりに距離がありそうだが、昼になれば企業も警察も本格的に動き出すかもしれない──そうなる前に一刻も早く出発しなければならない。


 「このまま朝を迎えれば、病院の職員が増えて、余計に騒ぎになりかねない。走れるうちに行こう……」


 理久がそう決断し、三人は夜間対応の看護師を探して声をかける。すると看護師は、やや警戒の表情を浮かべつつも「アルマさんは夜半に熱が下がって、ずいぶん楽になったようですよ。でも……もう帰るんですか?」と困惑気味だ。どうやら小一時間ほど前に体温が安定し、仮眠を取っているらしい。


 「本当に申し訳ない。彼女にもそう伝えてもらえますか。早朝のうちに移動したいんです。いま騒ぎ立てずに退院できれば……」


 凛花が穏便に伝えると、看護師は難しい顔をする。「彼女はアコアということですし、医療法上の診察対象とは扱いが違うのはご存じですよね? 点滴もあくまで “応急” ですから、当院としては責任を……」

 しかし、断りを切り出す前に理久がかぶりを振る。「はい、分かってます。本当にすみません。保険証もなく、医療機関に迷惑をかけるのは承知です。でも、少しでも彼女が息をつけたのは助かりました……。責任は全部こっちで負います。もう行かなきゃならないんです」


 看護師は呆(あき)れたように溜息(ためいき)をつくが、「分かりました……。どうぞ、本人にも説明してあげてください。アルマさんは起きてますから」と諦め混じりに案内してくれる。そう、この病院はハイエンドアコアの診療なんて想定外だったのだ。普通なら受け入れ拒否してもおかしくないところを、わずかな人道と好意で応急措置を施してくれた。それ以上の対応を期待するのは、さすがに酷(こく)なのかもしれない。


 #### * * *


 処置室

 夜通しの点滴を受けたアルマは、ベッドの上で少しだけ起き上がっていた。真っ白なシーツと、簡素なベッド柵(さく)に囲まれているが、見た目には昨日より血色が良く、呼吸も安定しているように見える。彼女は理久たちが入ってきたのを察し、にっこりと笑みを浮かべた。


 「みんな……ごめんね、あんなに夜中に走って、今度は朝早くに……。でも、ボク、もう平気だよ。自分で歩けると思う……」


 その力強い言葉に、三人は胸を撫(な)で下ろすと同時に、ほんの微かな安堵(あんど)が広がる。理久がベッド脇に近づき、小声で事情を伝えた。


 「アルマ、もうここを出なきゃ……病院も迷惑かけるし、企業がいつ現れるか分からない。お前が動けるなら、このまま隣の市街へ向かおう」


 アルマは短く頷(うなず)き、「うん……ボク、がんばる。昨日よりずっと楽だから。でも、走れるかは分からない……歩けなかったら……」と不安を口にする。

 理久は笑みを作り、「大丈夫。おぶってでも担いでも行くさ。少しずつ進もう。町の端っこに辿(たど)り着けば、きっと何か交通手段を見つけられる……」と励ます。


 看護師が背後で見守り、「本当に行かれるんですね。大丈夫ですか? いちおう点滴は抜きましたけど……もし途中で具合が悪くなったらどうするんです?」と心配してくれる。思ったより優しい口調に、アルマは会釈するように笑む。


 「ありがとう。でも、ボク……もう迷惑かけられない。あなた方が優しくしてくれたから、こうして意識を保てる。ほんとに感謝してます……」


 看護師は苦々しげに肩をすくめ、「お礼はいいから、倒れないでくださいよ……。法律上どうこうって話は私は分かりませんが、体は大事にね」と告げると、処置室のドアを開けて道を譲った。こうしてアルマはローブを羽織り直し、そっとベッドを降りる。一歩踏み出すとき、まだ身体がふらつくが、理久が支えれば歩けないほどではなさそうだ。


 #### * * *


 病院の玄関

 外には朝の白光(はくこう)が広がり始め、東の空が薄明(はくめい)に染まっている。夜通し走ってきた疲労が限界に近い三人と、まだ体調が万全でないアルマを合わせて、どうにか出発せざるを得ない現実に、苦笑さえ湧(わ)いてくる。この状態でどこへ行けというのか──それでも、企業から逃れ続けるしか道はない。


 「さあ、行こう……もう時間がない」

 理久が唇を引き結び、アルマの肩を支える。凛花と若いスタッフもそれぞれ荷物を整え、病院の職員が怪訝(けげん)そうに見つめるなか、黙って外へ踏み出す。誰も引き止めない。きっと院内では“何らかの複雑な事情がある患者”としか思われていないのだろう。


 すると、駐車場の端で一台のタクシーがちょうど走り出そうとしている姿が見えた。深夜ではなく早朝に来た客を送ったのか、あるいは病院までの予約があったのか──いずれにせよタクシーがここにいること自体が奇跡的だ。四人は目を見合わせ、走り寄って声をかける。


 「すみません、乗せてください……行き先は隣の市街か、もっと大きな駅でも……!」


 眠そうな顔をした運転手は最初、戸惑いを見せるが、乗車拒否する理由もないらしく「ええ、まあ構いませんよ……。朝まで動いてるけど、どこまで行くのか分からないと料金は高くつきますよ?」と冷静に返す。料金が高くても構わない。とにかく早く離れないと。


 「いいんです、払います! 助かります!」


 理久たちは顔を見合わせ、アルマはホッとした笑みを漏らす。「これで少し走れる……もう歩かなくてもいいんだ……」という安堵(あんど)が伝わってくる。凛花と若いスタッフも疲労で倒れそうなところだった。こうして朝日に染まりつつある町を背に、タクシーへ乗り込む。病院の看護師が玄関先からあっけにとられた表情で見送っていたが、呼び止めることはしない。


 後部座席に理久とアルマ、助手席に凛花とスタッフが乗り、運転手がアクセルを踏む。エンジンが穏やかに唸(うな)ると、車体が滑り出すように病院の敷地を出る。朝焼けが眩(まぶ)しく、東の空に金色のラインが浮かんでいる。


 「ああ……」

 アルマが息を吐き出し、車窓から差し込む光に瞳を細める。まるで “初めて見る朝日” であるかのような表情だ。前のマスターとの苦い思い出、軍事ラボの恐怖、企業の追跡――すべてを振り切るように、この金色の光が彼女を染めていく。


 理久は隣席でそっと肩を抱き、「良かった……。とりあえずしばらくは安全だろう。隣の市街で降りて、そこからまた考えるんだ」と言葉を投げかける。アルマは涙がにじみそうな笑顔で微かに頷(うなず)く。


 「うん……ありがとう。ボク……企業の力から逃げ続けるのかもしれないけど、それでも……生きていたい……」


 その一言に、凛花と若いスタッフも振り向き、穏やかな表情を見せる。「そうよ……私たち、力になれる。何があったって ‘物’ じゃないあなたを……ね、ずっと守るから」と凛花が言い、若いスタッフもうなずく。「企業がなんだろうと、法がなんだろうと、あなたは人と同じ……それだけは絶対に変えちゃいけない」


 アルマは静かに呼吸を整え、視線を窓の外へ戻す。田舎の道を抜けると、やや広い国道へ出るらしい。朝もやが立ちこめ、遠方に小さな駅舎らしきものが見えるが、その先には街の中心があるのだろう。タクシーの運転手は “どこまで行きます?” と問うが、まだ三人には明確な答えがない。いずれにせよ、企業が追いつかないうちに電車かバスを使うか、あるいは人里離れた場所で匿(かくま)ってくれる支援者を探すか……難題ばかりだ。


 (それでも、命をつなぐ道があるなら……どこだって行ける)


 理久は大きく息を吸い、アルマの手を握る。彼女はうなずき、「大丈夫……ボク……このまま ‘生き’ て、いつか笑顔で暮らす方法を探すよ……」と小さく呟(つぶや)く。その声には確かな決意が含まれていた。どこまでも不確かな未来だとしても、すでに彼女は臆病なまま諦める時期を過ぎている。


 朝日が正面に昇り始め、タクシーの車内が黄金色に染まる。昨日までの暗く冷たいラボや倉庫の記憶が嘘(うそ)のように、光がアルマの頬を淡く照らす。痛ましかった人工皮膚の顔色が和らぎ、そこに確かな “生” の温もりが感じられた。


 「キミはもう ‘物’ なんかじゃない――」


 理久が心中で呟き、アルマも微笑む。凛花と若いスタッフはその光景を見つめ、互いに顔を見合わせて小さく微笑(ほほえ)む。企業の追跡は今後も潜在的な脅威として尾を引くだろうし、法の壁も高いが、彼女が自分の意志で生きたいと願う限り、仲間として支え合う道がある。それが儚(はかな)い望みであっても、すでに彼らは一緒にここまで歩んできたのだ。


 朝になれば、槙村(まきむら)たちも企業も動き出すだろう――ただ、いま彼らはタクシーの後部座席で朝日に照らされながら、束(つか)の間の安堵(あんど)を噛(か)み締めている。アルマが苦しんだラボの冷蔵室も、追いすがったバイク集団も、すべて昨夜の悪夢のように遠ざかる時間。車がゆるやかに加速し、道が広がっていく。


 「……ねえ、理久さん。ボク、ありがとうって何度言っても足りないよ。だけど……ありがとう……」

 アルマはかすれた声で、瞳を伏せながら微笑(ほほえ)む。頬には小さな涙の痕(あと)が残っているが、その表情は昨夜までの恐怖や絶望に満ちたそれとは違う、穏やかな愛情と信頼が混じっていた。


 「いいんだ……お前が ‘生きる’ って、そう言ってくれたのが嬉しいよ。俺たちがずっと望んでた未来だ……」

 理久も肩の力を抜き、彼女の手を支える。凛花と若いスタッフもうなずく。確かに、企業の巨大な権力が再び牙(きば)を剥(む)くかもしれないが、それでもこの瞬間だけは、四人が無事に生き延びて外の世界へ踏み出せている事実が何より大きい。


 「アルマ……この先もいろいろ辛いことはあるだろうし、私たちもまだ小さな力しか持ってない。でも、絶対あきらめないわ。あなたが望むなら、手を取り合って戦う。その覚悟はできてるの」

 凛花が優しく微笑み、アルマは泣き笑いのような表情で「ありがとう……ボク、もう一人ぼっちは嫌だから」と切なく呟(つぶや)く。


 若いスタッフが見守るなか、タクシーは町を抜け、幹線道路へ合流する。朝の太陽が背後から昇って街を照らし、ヘッドライトが不要になる頃、ラジオから流れる音楽が車内をほのかに満たす。ニュースではまだ“大きな事件”の話はしていないらしく、ラボの騒動は外部へ報道されていないのだろうか。企業が揉(も)み消しているのかもしれない。


 それでも構わない。アルマたちにとって、今はひたすらに逃げ延びることが第一。人知れず “物” として解体される未来だけは拒否できたのだから、あとは“どこへ行くか”を考えればいい。道のりは長く困難だが、少なくとも彼女が一人で苦しむ道ではない。


 外の風景が田園から徐々に市街地へ移り変わっていくのを、アルマは夢見るように見つめている。「きれい……。こんな普通の朝をボク、知らなかったんだ。ラボでも外に出たことあったけど、こんなに自由な空気じゃなかった……」と感慨深そうに呟く。理久は彼女の頭をそっと撫(な)で、「いくらでも見ればいいさ。世界はお前が思ってたよりずっと広い」と微笑む。


 そして、タクシーが大通りへ出た頃、運転手がちらりとバックミラーを見て「ずいぶんお疲れみたいですね。どこか近くの駅か、宿泊施設へ行きますか?」と尋ねる。三人は互いに目を合わせ、理久がすぐには答えられず躊躇(ちゅうちょ)する。アルマは黙って瞳を伏せ、微弱に震えている。無理もない。まだ体調は完調ではないし、彼女自身もこれからの行き先を決めるには不安が大きいだろう。


 凛花が代わりに、「すみません、もう少し走ってもらっていいですか……。落ち着いてから決めたいので」と端的に言うと、運転手は「分かりました」とだけ返して速度をやや緩(ゆる)める。荷物や財布の中身を考えれば、長距離移動は厳しいが、いまは行く宛(あて)を得るために時間を稼ぎたい。


 (きっとこれからも企業の影は追い続けるだろう。槙村(まきむら)たちが何を狙っているかも不明だ。でも、アルマを“物”として差し出すわけにはいかない……)


 理久は車窓から朝空を見上げ、あの曇りのない金色を一心に見つめる。アルマが隣でそっと身を寄せ、「ねぇ……。ボク、ずっと迷惑かけてる……?」と問いかけるが、理久は笑顔を返すだけだ。


 「迷惑なんて思わない。お前がこうして生きていてくれるだけで、俺は嬉しいんだよ……」


 アルマは頬を紅潮させ、「うん、ありがとう……」と微かに囁(ささや)く。

 凛花とスタッフも後部座席から二人を見守り、「ああ、絶対守る……ね」と互いに視線を交わす。アコアと人間の境界線を超えて“生きたい” と願う彼女を支え合う、それが彼らの選んだ道だった。


 クラシック音楽が微かにラジオから流れはじめ、タクシーが人通りの増えつつある街角を通り抜ける。朝の空気が路面を照らし、メインストリートに行き交う車が増えてきた。もうすぐ朝のラッシュ時なのだろうか――そこには確かに一般社会の活気が立ち上がり始めている。


 だが、四人の逃避行は続く。いつ企業が情報を得て追ってくるか、警察が彼女を“危険アコア”として保護しようとするか予断を許さない状況だ。それでも、ラボの冷たい檻(おり)で絶望していた昨日とは打って変わって、“可能性” がそこにある。この朝焼けのなか走るだけで、自由の味がかすかに漂うのだ。


 アルマが嬉しそうに窓を開け、指先で風を感じている。「気持ちいい……。自然の風って、こんなに……」と呟くと、理久はやさしく微笑(ほほえ)む。「そうだよ。お前はもう好きに風を感じていいんだ……。いつか本当に安全な場所で暮らせる日が来るまで、俺たちが頑張るから」


 そして凛花とスタッフも「そうね、時間はかかるかもしれないけど、法の壁にだって負けない方法を探せるはず。お金だって、少しずつ稼ぐわ……あなたを修理したり面倒みたりするのに必要だし、それで何が悪いのよ」と笑いかける。アルマは感激に大きく瞬(まばた)きをし、「ありがとう……」とまた涙を浮かべる。


 運転手はそんな後部座席の雰囲気を感じながら、黙々とハンドルを握る。特に干渉するつもりはないらしく、ただ“行くあても決まらない乗客” を運ぶにすぎない。だが、車内に流れる空気には、少なくとも企業ラボの冷酷な暗さはない。あくまで“朝の旅立ち”を支える穏やかさがある。


 そして車が信号に差しかかったとき、遠くの空に一筋の薄雲(うすぐも)が射光(しゃこう)を受け止め、金と白が混ざったような輝きを放った。まるで“大きな翼”が広がるように見え、アルマは瞳を見開いて「きれい……」と呟く。今までラボの圧迫された空間では決して見られなかった“朝の奇跡”だ。


 (やっと……お前は世界を見渡せる場所に来たんだよ……)


 理久は心のなかでそう叫び、薄く笑みを浮かべる。何度試練がやってこようとも、もう戻ることはない。企業がどう出ようと、政府がどう出ようと、彼女を“道具”に戻させやしない。凛花と若いスタッフもそれを共有し、再び視線を交わして小さく頷(うなず)き合う。このタクシーはきっと “絶望” ではなく “可能性” へ向かうための最初の乗り物になると、そう信じたいからだ。


 日の光がさらに増して、辺りはもう完全な朝の景色。企業の闇や槙村(まきむら)の追跡はまだ尽きていないが、四人の瞳には一筋の光が宿っている。アルマは微笑みながら、外の空へ指を伸ばし、「ありがとう、みんな……そして、世界……」とつぶやくように言葉を漏らす。誰かに届くわけでもなく、ただこの光を胸に受け止めるための祈りのようだ。


 やがてタクシーが再び加速し、街の中心部へ向けて車線を走り抜けていく。大通りに出れば店も増え、駅やバスターミナルがあるに違いない。ここから先、どこへ進んでも危険が零(ゼロ)になることはない。しかし、それでもアルマを巡る未来は、自分たちが描くしかないのだ。企業の線路を歩かされるままではなく、彼女が“選ぶ”未来を──。


 (アルマ……この朝日を、お前が見ている。それだけでいいんだ。今日も明日も、きっと一緒に戦える……!)


 最後に理久は大きく息を吸い込み、アルマの手をやさしく包む。アルマはもう一度笑い、朝日の中でその瞳を輝かせた。“道具”ではなく“誰か”として――生き続けるための走りが、今まさに始まろうとしている。

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ACOA 蒸し芋 @raporuto

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