第23話「監視の目をくぐり抜けて」

 夜が深まるにつれて、ラボ全体が静寂に包まれていく。廊下の照明は最低限の非常灯モードになり、昼間に行き交っていた研究スタッフや技術者の姿はほとんど見えない。いつもなら、生真面目なサングラスの男かスーツの女性が声をかけてくるところだが、この時間帯は警備ロボや少数の夜勤スタッフだけが施設を見回っているはずだ。


 (いましかない……!)


 理久(りく)は決意をこめて宿泊区画の自室を抜け出す。後ろには桜来(りんか)凛花(りんか)と若いスタッフも続いていた。三人とも昼間に話し合って決めた“脱出プラン”を頭に叩き込み、最低限の荷物だけを持っている。アルマを連れ出すために警備の死角を突き、隔離室もしくは彼女がいると思われる部屋へ向かう手筈(てはず)だ。


 「……それじゃ、行こう」

 凛花が低い声で促し、若いスタッフも緊張しながら頷(うなず)く。理久が先頭を切り、手早く廊下を見渡す。深夜――おそらく午前1時を回った頃合いだが、館内放送はとっくに終わっており、警備員の足音がかすかに響いているだけ。カメラの目がどこまで捉えているか分からないが、焦りは禁物だ。


 (アルマも準備できてるかな……“夜に迎えに行く” と言ったけど、彼女のいる場所が隔離室C-2とは限らない)


 とはいえ、昨日の面談の際、彼女は隔離室C-2に閉じ込められていた様子だった。この企業はいつもアルマを別の区画へ動かす可能性があるが、そのたびにロック変更するのも大変だろう。おそらくまだC-2近辺にいると踏むしかない。


 夜勤警備を避けながら階段を下り、2階へ向かう。エレベーターはカメラがあるため使わないと決めていた。廊下の角をそっと覗(のぞ)き込み、警備ロボや人影が見えないタイミングを狙ってダッシュする。思った以上にセンサーの赤い光が少なく、拍子抜けするほど進みやすい。


 (まさか、こんなにスカスカとは……。それとも罠(わな)か?)


 疑念が浮かぶが、いまは一歩を進めるしかない。2階へ降りきると、そこは“隔離室”や“カンファレンスルーム”などがあるフロア。昨日見たときはカメラが多かった印象だが、いまは非常灯がちらほら点いているだけ。ドア付近にあるセンサーもオレンジのランプがチカチカしているが、警戒レベルが高いかどうかまでは分からない。


 「……行こう、こっち」

 理久が先に立ち、凛花と若いスタッフが後に続く。途中で通路の曲がり角を覗くと、ハンドガンのようなものを腰に携(たずさ)えた警備員らしき人が奥に立っていた。すぐ物陰に隠れ、息を潜める。警備員は足元のパネルを確認しているだけで、こちらへは気づかず数メートル先のドアを開けてどこかへ消えていく。好都合だ。


 「……危なかった……。アルマに辿(たど)り着く前に捕まったら最悪」

 凛花が震える声を漏らす。理久は小さく頷き、また角をチェックして安全を確認する。この繰り返しで時間がかかるが、一歩ずつ慎重に移動。やがて目指す“隔離室C-2”のプレートが見える場所まで到達した。


 (鍵が……やはりロックされてる。どう突破する?)


 以前、昼間に来たときは鍵が掛かっていて入れなかったが、今日はどうか。ドアのパネルが赤く光っており、テンキーとカードリーダーが設置されている。さすがに引き戸や物理鍵ではなく、現代的な電子ロックのようだ。


 「……どうする? 正攻法じゃ開かないわ」

 凛花が囁(ささや)く。三人ともカードキーなど持っていないし、パスコードも分からない。思わぬ難所に来てしまった。だが、代案がない以上、やるしかない。若いスタッフが怯(おび)えつつ「でも、強引にこじ開けたらアラームが鳴るかも……」と不安そうだ。


 理久は内心、夜の冷却室での体験を思い出す。「故障して鍵が開いていた」という運もあったが、同じような幸運があるとは限らない。しかし、もしここのシステムも今夜何らかの不具合を起こしていれば……。思いきってそっとパネルに触れてみると、画面に“ENTER PASS CODE”が表示され、カウントダウンのようなものが点滅している。通常なら4桁か6桁のコードを入力すればいいのだろうが、知らない以上どうしようもない。


 「ここは諦めて、ほかを探す? いや、それも時間がもったいない……」

 凛花が焦りをにじませる。若いスタッフも「もしアルマが本当にここにいるなら、何とか開けたいですよね……」と同意する。苦しい沈黙が落ちる。


 (どうする……アルマが内側から開けてくれればベストだが、事前に打ち合わせできてない。もし万が一、夜中にアルマがうまく抜け出してくれたら、ここにいないかもしれないし……)


 視線を巡らせると、ドア脇に小さな排気口のような通風口がある。サイズは人が通れるほどではないが、内側がどうなっているか気になる。中を覗(のぞ)こうにも真っ暗で見えないが、冷たい空気が出ている。


 そのとき、かすかに金属が当たるような音がした。ドアの内側か、それとも通風口か――微妙に判断しづらいが、理久は耳を澄ます。すると確かに、カチャカチャという金属音。まるで誰かがドアノブやパネルを触っているような音が、わずかに響いてくるではないか。凛花たちも気づき、顔を見合わせる。


 「……アルマが中から開けようとしてるの……? そんなこと、できるのかな……」

 若いスタッフが期待混じりに囁(ささや)く。もし彼女がハッキング機能を使っているとすれば、ドアロックを解除できるかもしれない。あるいは普通にパスコードを知ってしまっている可能性も捨てきれない。


 やがて、パネルがチラチラとランプを瞬(またた)かせ始めた。“PROCESSING…”という文字が走り、数秒後に赤ランプが緑へ変わる。理久が息を呑むと同時に、カチッと小さな解錠音が鳴り、ドアが僅(わず)かに開いた。


 「……開いた……!」


 凛花が驚きの声を上げ、若いスタッフも同様に凝視している。まさか本当に内側から開けてくれたのか、それとも故障が発生したのか――どちらにせよ、絶好のチャンスである。周囲に人影はなく、カメラの位置もやや死角になっているらしい。いまだとばかりに三人はドアへ駆け寄る。


 理久がそっと押し開けると、室内の非常灯だけが淡くともっている空間が広がっていた。簡素なベッドとパネル、何本かのモニタケーブルが散乱しており、まさに隔離用の個室といった感じ。だが、その奥には――。


 「アルマ……!」


 小さな影がベッド脇の機器に手を触れ、コードを抜こうとしていた。ローブをまとい、呼吸が乱れているのが分かる。振り向いた顔は確かにアルマだが、目の下には濃いクマができ、髪も少し乱れ、弱々しい印象を醸(かも)し出している。


 「理久さん、凛花さん……スタッフさん……来てくれたの?」

 アルマが涙を浮かべたような声を出す。スラリと立ち上がろうとするが、足元がふらつき、危うく倒れ込みかける。すぐに理久が駆け寄り、彼女の肩を支える。


 「大丈夫か……!? お前がドアを開けてくれたのか……?」

 アルマは苦笑しながら、「うん、何とか……企業が付けたロックを少しだけ弄(いじ)って……。まだ腕が痛いけど、 ‘ここで待て’ って言われても嫌だから。昨夜の話……信じて、ボク、やってみたよ……」と答える。


 「そっか……偉いぞアルマ……! もう行こう。今のうちに! ここで騒ぎにならないうちに」

 凛花が焦りをにじませる。若いスタッフも「カメラに気づかれる前に出ないと……!」と急かす。


 アルマは体をふらつかせながら、ローブの胸元をきつく握っている。「うん……。ボクも、もうここにいたくない。企業の人たちが ‘あなたに最高の環境を与える’ って言い続けるけど、裏で怖いことしてるのも感じてる……。でも……ごめん、まだ体が……思うように動かない……」


 見ると、アルマは明らかに力が足りず、足元が安定しない。いざ逃げるにしても走れる状態ではなさそうだ。理久は「よし、俺がおぶってやる。気にするな!」と力強く提案する。アルマは恥ずかしがるように頬を赤らめるが、時間がないと理解しているのか、素直に頷(うなず)いた。


 「ありがとう、理久さん……。足を引っ張ってごめんね……」

 「いいんだ。お前を救い出したいって、俺たち決めたから……行こう!」


 理久がアルマをおぶり、凛花と若いスタッフが周囲を警戒する形で隔離室を出る。廊下は静まり返っているが、時間との勝負だ。企業側がロック解除の異常を検知すればすぐに警報が鳴り、警備員が駆けつけるだろう。


 「……待って、そっちは警備員が見回りに来るルートよ……。夜勤ルートを調べたときは反対側が手薄なはず」

 凛花が事前リサーチした情報を頼りに、別方向の階段を指し示す。若いスタッフも「じゃあ、非常階段を使って……裏口へ?」と確認。理久が抱えるアルマが「うん……確か、地下から外へ出るルートがあるって、技術者の端末を見たことある……」と小さく囁(ささや)く。


 どうやらアルマが検査の合間に技術者の端末をハッキングし、施設の一部データを見ていたのだろう。地下の倉庫や機械室を通じて外へ繋(つな)がる搬入口があり、そこに深夜はほぼ人の出入りがないという。彼女を修理してくれた技術者は甘く、アクセス管理もずさんなのかもしれない。


 (やはり “裏倉庫” のあたりを通るのか……あそこは嫌な思い出があるが、外へ出るにはそこしかないってことだな)


 理久は苦々しく感じながらも納得し、階段で地下を目指すことにした。もし警備員が少ない夜勤の隙(すき)を突き、搬入口から抜けられれば成功だ。あとは施設の外に出たあとが問題だが、そこまで考える余裕は今はない。全員一丸となって一歩ずつ進む。


 通路の角を曲がると、監視カメラのランプが赤く点滅している。凛花が瞬時に判断して「床にしゃがんで死角になる!」と指示し、若いスタッフと理久がアルマを守る形で腰を落とす。幸い、そのカメラの向きは固定で、下端付近の動きまでは捉えにくいようだ。数秒待ち、カメラが方向を変えるタイミングで素早く通過する。


 (上手くいった……この先もこんな綱渡りが続くのか?)


 理久は息を詰めながら、さらに階段へ急ぐ。アルマの軽い体重を感じつつも、彼女の鼓動が自分の背中に伝わり、共に生きている実感が満ちてくる。何があろうと、今度こそ彼女を失いたくない――その思いが足に力を与えていた。


 地下へ通じる鉄製ドアを抜けると、冷たい風が吹き付ける薄暗い廊下に出る。まるで先日理久が入り込んだ “惨劇倉庫” に近い空気を漂わせているが、ここは別のルートのようだ。パイプや配管が錯綜しているため、似たような構造をしている。足元が湿っぽく、天井から水滴が落ちる音がこだまする。


 「あっちの方向が搬入口……多分……」

 アルマがローブを握りしめながら道を示す。理久が身を丸め、凛花と若いスタッフが後に続く。どこかで警報が鳴らないかとビクビクするが、まだ静寂が保たれている。企業はドアロックの異常に気づいていないのか、それとも“契約”に向けて楽観視しているのか――いずれにせよ好機だ。


 数分進むと、廊下が左に折れて扉がある。そこに「搬入口B-1」とプレートが貼られていた。アルマの情報どおり。問題は鍵。やはりパネルが設置されているが、意外なことに緑ランプが点灯し、ロックが開いている状態を示しているように見える。


 「もしかして……ここも鍵が故障してるのか?」

 若いスタッフが戸惑いながら扉を引くと、驚くほどあっさり開いた。内側から冷気と湿った風が吹き込み、外の夜気を感じるような匂いがする。扉の先には短いスロープと、うっすら月明かりに照らされる搬出口らしき空間が広がっていた。


 「外……だ……!」


 凛花が歓喜混じりに声を上げる。確かに扉の向こうは建物外へ直通する出入り口らしく、頑丈そうなシャッターがあるが、わずかに上がって隙間が開いている。風が漏れ入り、月のかけらが床を照らしている光景は幻想的だが、三人とアルマにとっては“自由”への入り口にしか見えない。


 「やった……外に出られるのか……! 何かのミスかもしれないけど、行くしかない!」

 理久がアルマを背負い直して、急ぎ足でスロープを降りていく。凛花と若いスタッフもついてきて、シャッターの下に屈(かが)むように滑り込む。冷たい夜風が頬を打ち、外の匂いが肺を満たす――まるで別世界の感覚だ。


 扉を抜ければ敷地の裏手のようで、コンクリートの壁に囲まれた荷捌(にさば)き場が広がっている。ライトはほとんどなく、月明かりだけが頼りだが、今の彼らには十分だ。これで本当にラボの外へ出た――あまりにあっけなく感じるほど簡単に。


 「成功……? 警報が鳴らない……? 大丈夫……?」

 若いスタッフが不安を訴えるが、凛花は「構わない、今は急ごう」と手を振る。確かにここで呆然としていれば、企業が気づいて追ってくるのも時間の問題だ。アルマを背負いながら、こんな狭い裏手で鉢合わせしたら負けてしまう。


 「行こう。フェンスを越えれば、外の道路に出られるはず……」

 理久は深呼吸して、壁沿いに進む。夜闇に慣れた目がフェンスの輪郭を捉えると、そこにガッチリした鍵が掛かっているのが分かる。さすがにこれはロック解除されておらず、普通に開けようとしても無理そうだ。フェンス自体はやや高いが、頑張ればよじ登れるかもしれない高さだ。


 「よし、登ろう……! アルマを先に渡すから、凛花とスタッフが受け取ってくれ……」

 囁(ささや)きつつ、理久はアルマを下ろし、なんとか彼女を抱えながらフェンスに手をかける。軽量とはいえ、大人を持ち上げるのは苦労だ。若いスタッフが下から支え、凛花が上から助ける形で、どうにかアルマの身体を持ち上げる。少し腕や膝を擦りむくが、アルマも協力して乗り越えていく。


 「痛っ……ごめんね、無様(ぶざま)で……」

 アルマが歯を食いしばって頭を越え、向こう側へ降りる。凛花が受け止める形で無事に着地。次に若いスタッフが登り、理久が最後に乗り越えようとするが、その途中で背後の建物の扉が勢いよく開く音が聞こえた。


 「やばい、見つかったか……!?」

 理久は焦りを隠せず、フェンスの先に急いで身体を滑らせる。着地時に足を少しひねるが、痛みを我慢して屈(かが)んだまま息を潜める。裏口の扉からライトが漏れ、人影がこちらを探すように走り回っている気配がする。


 「誰だ……? 走ったりしてないか……!」「シャッター開いてるぞ、鍵は……?」

 何人かの声が重なり、どうやら企業のスタッフが異常を察知して来たようだ。視線を落とせばフェンスの外側はやや傾斜した雑木林が広がり、その先に街の灯(あか)りが微かに見える。ここまで来れば、あとは林を抜けて道路へ出られるかもしれない。


 「急げ……あいつらがこっちへライトを向けたら丸見えだ」

 凛花がアルマの腕を支えながら小声で指示する。若いスタッフも頷(うなず)き、三人はアルマを守るように林のほうへ足を踏み出す。理久が先に立って枝を払いながら進み、それを合図に後ろが続く。


 背後では明らかに騒ぎが始まっている。「警報鳴らせ!」「外へ逃げた可能性大だ!」と叫ぶ声がこだまする。サーチライトが敷地を照らし、ピンポイントでこの林を照らされる前に距離を稼がなければならない。


 「走れるか、アルマ……?」

 理久が心配そうに問うと、アルマは肩で息をしながら苦笑い。「無理しないようにする……けど、頑張る。ボクも……生きたいんだ……!」


 握る手が震えているのが伝わるが、意志は固い。彼女はすでに“企業に囚(とら)われる運命”を拒否したのだ。身体が弱っていても、逃れるしかない。三人と彼女は一塊(ひとかたまり)になって林の奥へ進む。


 (いける……必ずいける。ここから出られたんだから、もう企業の敷地外さえ抜ければ……!)


 顔を上げると、夜空に僅(わず)かな星と月が見える。囲われたコンクリートのラボから飛び出し、外の世界に立てた――その事実だけで胸が一瞬熱くなる。だが、まだ油断は早い。企業の警備員や槙村(まきむら)たちが追ってくる恐れもあるし、政府に通報されれば行方を探されるかもしれない。逃避行はこれからが本番なのだ。


 やがて林の斜面を下りきると、小さな舗装路に出た。車の通行はなく、夜闇に包まれた田舎道が続いている。ライトを持っているわけでもなく、心細い限りだが、背後の企業が騒いでいるなら、ここで立ち止まる余裕はない。


 「……行こう。街まで距離があるかもしれないけど、走れるか?」

 理久が息を整え、アルマの腕を支える。凛花と若いスタッフも足を引きずりそうな疲労感があるが、進むしかない。ローブを巻き込んだアルマは青白い息を吐きながら頷(うなず)く。「うん……。ボク、きっと頑張れる。みんなと一緒なら……」


 足音が闇に溶け、四人の逃亡劇が始まる。企業の敷地からどれほど離れれば捜索の手が届かなくなるか分からないが、少なくとも希望の光が見えたのは確かだ。アルマは企業の冷えきった隔離室を飛び出し、“人” として自由を求めて走る。そこに理久たちの決意が重なり、命をかけた夜の逃避行は加速していく。


 ――遠くでサイレンのような音が聞こえる。企業が警察に通報したか、あるいは施設内の非常ベルかもしれない。どちらにせよ、このラボを脱して林を抜け出た今、前へ進まなければ負ける。闇夜を味方にするしかない。


 (アルマ……お前は今、やっと “道具” ではなく “生きている存在” として逃げ出せたんだ。どんなに苦しくても、俺たちが支えるから……!)


 理久は喘(あえ)ぎながらも、アルマを支え、凛花と若いスタッフを促して月夜の農道を駆け出す。企業の闇から彼女を救い出す――それが今の唯一の希望と、彼らの共有する目的だった。

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