第21話「闇と光のはざま」
翌朝、ラボ内放送が「午前7時」を告げても、理久(りく)はまどろみに深く溺(おぼ)れていた。寒さを感じながらも意識が遠く、目覚めない。それでも、体内のリズムがじわじわと現実へ引き戻すように、静かにまぶたが開く――。
(昨日は結局、2、3時間も眠れなかったのか……)
起き上がり、頭を振って覚醒しようとする。冷たい空気が肌を刺すが、夜中に遭遇した“あの光景”が蘇(よみがえ)るたび、胸が重くなる。壊れたアコアの残骸、薬品に浸(つ)かった破片、繰り返されている軍事実験の痕跡。あそこがこの企業の“本当の”研究室だとすれば、アルマがどう扱われるか想像に難くない。彼女は“特別なハッキング能力”を持つがゆえに、いずれ同じ運命を辿(たど)らされるかもしれない。
(くそ、こんなところに置いておけない……!)
理久が奥歯を噛(か)みながら身支度を整えると、ノックの音がして扉が開いた。顔を出したのは若いスタッフで、昨夜ほとんど眠れず目も腫(は)れているようだ。彼女が「おはようございます……ちょっと廊下もまだ寒いですよ。凛花さんはもう起きてて、向こうで待ってます」と小声で言う。
「わかった……そっちへ行こう」
理久は頷(うなず)き、廊下へ出る。相変わらず低めの室温だが、昨日よりは少しましになったかもしれない。相手企業が冷却装置のトラブルを把握して対応中なのだろう。あるいは“何か”が一段落ついたのか――いずれにせよ、油断はできない。
#### * * *
宿泊区画の小さなラウンジへ行くと、凛花(りんか)が椅子に腰掛けていた。顔はやや青白いが、意志の強い瞳を見せて理久に声をかける。
「おはよう。顔色……悪いわね。あれからあまり眠れなかったみたいね」
「そっちこそ……昨日はアルマのところへ行こうにも情報がなくて、落ち着けなかっただろ? 俺も同じだよ……」
理久が苦笑まじりに答えると、凛花は深いため息をついた。「ええ。こんな形で時間だけが過ぎていく……。あの子が今、どうしているか……昨日、 ‘面談がある’ と言われてからずっと会えてないものね。さすがに今日は会わせてくれるんでしょうけど」
若いスタッフが重い声で「でも、あのサングラスの男たちが『面談』とか『検査』とかを理由に引き離す可能性は高いですよね。毎回そうやって私たちを遠ざけてる……」と呟く。そこには猜疑(さいぎ)が入り混じった沈黙が落ちる。
(どうしてこんなに警戒されなきゃならないんだろう……いや、相手からすればアルマは“最高級の軍事アコア”で、私たちは外部者。そりゃあ遠ざけるか)
暗い考えに沈みそうになるのを振り払うように、理久は意を決して声を張る。「今日こそアルマに話すんだ……。この施設がどういう場所か、俺が夜中に見てしまったアレを、伝えるしかない」
「え……あなた、何か見たの?」
凛花と若いスタッフが同時に目を丸くする。理久は気配を探るように周囲を見回し、低い声で「ああ……詳しくは部屋に戻ってから話す。ここはカメラがあるかもしれないし……」と言う。今ここで“裏倉庫で見た実験の惨状”を大きな声で漏らせば、すぐにサングラスの男が踏み込んでくるかもしれない。下手をすると強制的に退所させられる危険すらある。
とりあえず宿泊区画の自室に戻り、ドアを閉めてから三人で向き合う。理久は昨夜の出来事――扉の鍵が閉まっておらず潜入できたこと、内部に“バラバラのアコア遺体”が冷却されていたこと、そのファイル内容から察するに軍事実験の残酷な証拠が山ほどあることなどを話した。
「やっぱり……! そんなひどいことをここで……」
凛花は蒼白になる。若いスタッフも「うそ……。アルマさんを ‘研究’ するって言ってたの、そういうのも含めて……?」と震えた声を洩(も)らす。
「おそらく彼らは、軍や政府と裏取引をしているんだろう。アルマがこのまま ‘道具’ として認められれば、安全と引き換えに “解析対象” として好き放題調べられるかもしれない。いつか不要になったら、あの冷却室に……」
言葉にするだけで吐き気を催(もよお)す。凛花も目に涙を浮かべながら、「そんなの嫌……絶対に許せない!」と拳を握りしめる。若いスタッフは混乱が頂点に達し、「じゃあすぐ逃げるしかないですよ! アルマさんだってこんな施設にいたくないに決まってる……!」と声を上げる。
だが、理久は苦い顔で首を振る。「どうやって? 企業の警備網は厳重だ。下手に逃げてもすぐ捕まるだろう。外に出たとして、槙村らに狙われる可能性だってある。俺たちは何も準備していない」
凛花が歯噛みする。「じゃあ、どうすればいいの……。アルマはまだ体が万全じゃないし、あの子にはハッキング能力があるけど、今は企業に ‘鍵’ を握られてる。……無理なの?」
三人とも黙り込む。絶望を突きつけられたように感じるが、それでも立ち止まるわけにはいかない。せめてアルマ自身がこの真実を知って、どう動きたいかを選択できるようにしてあげたい――その一点は揺るがない。
「俺たちができるのは、まずアルマに全部話すこと。そこから ‘逃げるかどうか’ を決めてもらう。それが彼女の意思なら、命がけでも手伝うよ」
理久の言葉に、凛花と若いスタッフはうなずく。現状ではまず “情報” を共有し、アルマが真実を知ったうえでどう選ぶかだ。
(彼女が ‘残りたい’ と言い出す可能性もあるが、あの冷却室の実態を知れば絶対に受け入れないはず……少なくとも、黙って企業に従うなんて選択はしない)
決意を共有した三人は、早速アルマに会いに行こうと宿泊区画を出る。廊下には相変わらず警備らしき雰囲気が漂うが、白衣やスーツの社員がちらほら移動しているだけで、特に止められはしない。理久たちは昨日まで何度か足を運んだリハビリルームやメディカルルームを手がかりに、まずは “彼女がいそうな場所” を目指すことにした。
「……あれ、でも今日は案内係が来ないわね」
凛花が不思議そうに首を傾げる。いつもならサングラスの男か誰かが待ち構えて、「そちらは立ち入り禁止です」と言ってくるのに、今日は誰もいない。ただしカメラのレンズは動き、こちらを見ているはずだ。
「逆に気味が悪い……。もしかして、向こうは ‘好きに動かせて’ 何か仕掛けてるのかも」
若いスタッフが声を潜める。理久も同感だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。ひとまずリハビリルームへ行くと、扉が無人で開いている。誰もいない。ベッドも片付けられていて、 “いまは使っていない” 雰囲気だ。
「くそ……じゃあ次はメディカルルームか?」
理久たちは引き返してエレベーターへ向かうが、制御パネルが “使用不可” となっていた。仕方なく階段へ回る。途中、すれ違う社員にアルマの所在を尋ねても「知らない」「本日は特別スケジュールで動いている」と素っ気ない反応。どうにも埒(らち)があかない。
(また ‘面談’ か ‘検査’ なのか? 昨日からずっとやってるなんて考えられないぞ……)
苛立ちを覚えながら3階まで上がり、メディカルルームへ通じる扉に手をかける。だが、ここもロックが掛かっており、鍵が下りている。モニタを見ると “現在使用中” の表示があり、暗い室内が映し出されているだけだ。誰かがいる気配はない。
「アルマ……どこにいるんだ……?」
凛花が息を切らしつつ、若いスタッフと顔を見合わせる。理久は頭を掻(か)きむしりたい気分だ。見つからない。企業が意図的に隠しているかもしれない――そう思うと焦りが増す。
そこへ、奥の廊下から突如「アルマ?」という名を呼ぶ声がかすかに響いた。三人は耳を凝らす。どうやら技術者らしき男性が誰かと話している声だが、隠しているような会話ではなく、普通のトーンで言葉を交わしているらしい。
「アルマさん、もう少しですからね。上層部の打ち合わせも終わるはず……」
男の声。どうやら “アルマ” の名前を呼んでいる。三人は一気にそちらへ駆け寄りたい衝動に駆られたが、下手に大声を出すのは危険。意を決してそっと近づき、角を覗(のぞ)き込むと、技術者っぽい人が廊下の先にある扉を閉めているところが見えた。
「……っ!」
その扉の向こうにアルマがいるかもしれない。三人は息を凝らし、足音を潜めて近づく。が、技術者はすぐに鍵を掛けたのか、扉がロック音を立てて閉ざされ、「大丈夫ですよ、少し待っててくださいね」と言いながら立ち去ってしまう。扉のプレートを見ると “隔離室C-2” と書かれている。 “隔離室”? 嫌な胸騒ぎがする。
(アルマを……ここに隔離しているのか?)
再び鍵が掛かっているが、リハビリルーム同様に “昨日の夜みたいに不意に開く” なんて都合のいいことは起きそうにない。だが、中には確かに人がいる気配が微かにする。まさかアルマが “隔離” されているのか――。扉には小さな覗(のぞ)き窓もなく、中の様子はまったく分からない。
凛花が舌打ち混じりに「どうする? こじ開ける?」と低く言うが、そうすれば大音響が出て警報を食らう可能性が極めて高い。若いスタッフは腕を震わせ「まず、技術者に ‘アルマさんに用がある’ と言って開けてもらうとか……」と提案するが、相手が素直に応じるとは思えない。
すると背後から静かな足音が近づき、三人はギクリと身を強張(こわば)らせる。振り向くとサングラスの男が無表情に立っていた。その姿にヒヤリとするが、男は淡々と口を開く。
「皆さん、隔離室には入れませんよ。アルマさんは ‘少し問題が発生している’ ので、安全のため一時隔離しているんです。心配ならラウンジへ戻って待機してください」
「問題って……何の問題だ! アルマは危険な状態なのか?」
理久が憤(いきどお)りを押さえきれずに声を上げると、男は肩をすくめ、「暴走や発熱じゃなくて、 ‘コアレベルの不整合’ というか……要するに再起動時のデータ乱れが想定以上に大きくてね。昨夜も会議の途中で体調を崩し、いま強制クールダウンさせているんですよ」と告げる。
「なんで ‘隔離室’ なんだよ。いつまで閉じ込めるつもりだ!?」
凛花も感情的に叫ぶが、男は苦笑いを浮かべるだけ。「あまり刺激を与えないためです。下手に人と接触すると、コア負荷がかかる恐れがある。あの子が自分の意思で ‘一時隔離を受け入れる’ と言ったんですよ。そっとしておいてあげるのが一番だと思いますが」
(嘘だ……アルマがそんなにあっさり隔離を受け入れるわけがない)
理久は拳を握りしめる。「ふざけるな……! 会わせろ。あいつに直接聞かないと納得できるかよ!」
サングラスの男は軽く鼻で笑い、「何度も言いますが、今は面会謝絶(しゃぜつ)ですよ。上層部の指示でもあるし、アルマさん本人も ‘大丈夫だから少しだけ一人にしてほしい’ と言ってました。もしそれが信用できないなら、お引き取りいただいても構いませんが?」と例の捨て台詞(ぜりふ)を放つ。
どうにもならない。強行突破すれば企業の警備に阻まれるか、アルマが本当に疲弊しているなら逆効果かもしれない。だが理久の胸には昨夜の “惨劇倉庫” の光景が焼き付いている以上、黙って引き下がる気になれなかった。
「アルマ……本当に自分で ‘隔離’ を受け入れたって……そんな馬鹿(ばか)な」
男は突き放すように「もし疑うなら自分で確認してみたら? ……いや、無理ですね。鍵は厳重管理ですし、あなた方が勝手に入れば緊急通報が鳴りますよ。痛い目を見るのはそちらですよ」と言い放ち、踵(きびす)を返して去っていく。
やりきれない思いを抱きつつ、三人は通路に立ち尽くす。隔離室C-2の向こうにアルマがいるとすれば、すぐにでも扉を叩きたくなるが、それは企業にとって “契約違反” になりかねない。彼女の体調や意志と無関係に管理される現実に苛立ちが募る。
「……どうしよう、理久さん。あの子……本当に ‘隔離室で休みたい’ なんて言うかしら」
凛花が激しい眼差しで尋ね、理久は首を振る。「絶対にあり得ない。もう一人にしてほしいなんて、あんなに ‘人と一緒にいたい’ と言ってたやつが……。企業の嘘(うそ)だろうな」
「そうですよ。無理やり隔離されてるんだ……!」
若いスタッフも頬を紅潮させて拳を握る。
だが、結局、その場でどうすることもできず、一旦は引き返さざるを得ない状況だ。作戦も準備もないまま、理久たちは再び宿泊区画へ戻り、部屋にこもった。いつか必ず “彼女に全てを伝えて行動する” チャンスを掴(つか)まなければ――その焦りと無力感に苛(さいな)まれる時間だけが過ぎていく。
#### * * *
その日の夕方。再びサングラスの男が部屋を訪れた。「アルマさんの意識が安定してきたので、少しだけ面会が可能になりました。ただし ‘ガラス越し’ になりますが、よろしいですね?」とつんとした態度で言う。
「ガラス越し? ……また ‘隔離状態’ のままか?」
男は頷(うなず)く。「ええ。面談室の一部を透明パネルで仕切って、アルマさんがそちらに入ります。あなた方は外側で話をする形です。10分ほどで終了となりますから、あしからず」
まるで “囚人面会” だ……と理久は思いながらも、会えるだけマシかと内心苦悶(くもん)する。凛花と若いスタッフも苛立ちを表に出しながら、それでも会いたい気持ちを優先して頷く。こうして、三人は男の先導で再び廊下を進む。
辿(たど)り着いたのは企業が用意した “面接室” という小さな部屋。扉を開けると、二畳ほどのスペースがあり、その奥にガラスのパネルで仕切られた小室がある。そちらの中にアルマが椅子に座っているのが見えた。彼女はローブの上からブランケットを掛け、顔色は悪くないが、どこか魂が抜けたようにぼんやりしている。
「アルマ……!」
理久たちが声をかけると、アルマははっと目を見開き、やや放心した顔から微笑みを作る。「あ……皆……会えた……よかった……」
かすれた声音だが、意識はある。理久たちはホッと胸を撫(な)で下ろすが、同時に “隔離状態” の寂(さび)しさが伝わってくるようで胸が痛む。
「どういうことなの、アルマ? 企業は ‘あなたが望んで隔離室にいる’ って言うけど、本当なの?」
凛花が焦燥(しょうそう)混じりに尋ねる。アルマは視線を彷徨(さまよ)わせながら言葉を選び、少し困ったように眉を下げる。
「ボク……もう分かんないんだ。いっぱい検査されて、コアが痛くなって……周りは ‘休むべきだ’ って言って、ボクも ‘そうなのかも’ と思って……気づいたら、あの小部屋でずっと寝てた。正直、ずっと眠っていた気がするよ……」
若いスタッフが涙を浮かべて「ひどい……。あなたが自由に動けないのはおかしいよ!」と声を荒げると、アルマは悲しげに微笑む。「でも、動ける状態じゃなかったんだ。本当に、体が熱くなって……頭が割れそうで……。こんなになっちゃうなら、ボクが軍事レベルなんて……いらないよ」
理久はガラス越しに拳を握り、「アルマ、聞いてくれ。お前を ‘いらない’ なんて、絶対に言わせるもんか! だけど……ここの企業が何をしているのか、俺は昨夜、ちょっと見てしまったんだ……」と打ち明けようとするが、背後でサングラスの男が咳払いをした。
「面談は10分程度ですよ。あまり興奮させるような内容は控えてください。アルマさんの体に負荷がかかるかもしれないので。そろそろ話をまとめてくださいね」
「くそ……!」
理久が男を睨(にら)みつけるが、聞く耳を持たない。アルマが慌てたように言葉を発する。「大丈夫……ボクは話したい。でも、負荷がかかるとか言われたら……みんなに迷惑かかるかも」
その小さな声に、凛花も苦しそうにうつむく。若いスタッフも合図のように眼を伏せる。結局、このラボではアルマの意志より企業が優先される。どうしようもない現実。理久は悔しさを噛(か)み殺しながら、それでも少しでも思いを伝えようと口を開く。
「アルマ……俺は決めたんだ。お前をこんなところに置いておくわけにはいかない。企業が ‘所有契約’ とかほざいてるが、そんなもんさせない。俺たちでお前を連れ出す方法を探す。絶対に……」
聞きながらアルマははっとした表情を見せ、「……でも、ボクは外へ出ても槙村(まきむら)や政府に狙われるかも……それにボクが体調崩したら、また死にかけるかもしれない。怖いよ……」と縮こまるように答える。その声は弱々しく、企業の言う “安全” にすがる気持ちも否定できない様子だ。
「分かってる。だから一人じゃないって言ってるんだ……。俺たちが全力でお前を守る。簡単じゃないけど、ここで ‘物’ として生きるなんて嫌だろ?」
アルマは目を潤ませたまま、細かく首を振る。言葉が出ない。きっと、彼女もどうしていいか分からないのだろう。体の不安と自由への憧れがせめぎ合い、企業が “面倒を見てくれる” と言うほど誘惑もある。結果、真実を知らずにいたら “仕方ない” と諦めるかもしれない――。それこそ企業の狙いだ。
(なんとしても冷却室で見た ‘地獄’ を伝えたい……!)
理久は決意を込めて声を強めようとするが、またしてもサングラスの男が腰から小型端末を取り出し、「はい、10分経ちました。アルマさんを休ませますので退室願います」と低く告げる。あまりにも一方的。
「ふざけるな、まだ話して――」
言いかけた瞬間、アルマが小さく首を振り、「理久さん……ボク……またあとで……話そう。今日は、あんまり頭が働かないんだ。ごめん……」と辛そうにつぶやく。その様子はまるで意識が混濁しているかのようだ。コアの負荷というより、眠剤や鎮静剤でも打たれたような印象を受ける。
「アルマ……また眠いのか? お前、なんか ‘薬’ を盛られてないか?」
理久の問いかけにも、アルマは曖昧(あいまい)に「さぁ……でも平気。ボク……大丈夫」と弱い声で返事する。疲弊しきった瞳を見ると何も強くは言えない。呼びかけても吸い込まれそうな沈黙に落ちてしまいそうだ。
スーツの女性が入ってきて、「理久さん、凛花さん、スタッフさん、こちらへ。アルマさんは休息が必要です」と扉を開く。まるで追い出すかのような態度だ。仕方なく三人はガラス越しにアルマを見つめ、「また会おう」とだけ声をかけて部屋を出た。
#### * * *
廊下に戻ると、サングラスの男が胸ポケットから書類を取り出し、三人に差し出す。「ところで、先日の ‘契約’ について、上層部が明日中に結論をもらいたいそうです。先日お渡しした書類にサインをいただくか、このまま退所か――どちらかを選んでくださいね」
理久は書類を睨(にら)みつけ、「アルマがこんな状態で、俺たちに ‘所有権契約’ をさせる気か!?」と吠(ほ)えるが、男は無表情に「はい。アルマさんが意識あるうちに話し合い、意思を確認すればいいでしょう。まさか ‘あの子の許可がないとサインできない’ なんて言わないですよね? 法律的には彼女の意思は関係ないんですよ」と冷徹に返す。
「てめぇ……!」
凛花が怒りに震えるが、若いスタッフがそっと腕を押さえ、ブレーキをかける。いまここで暴れてもアルマにメリットはない。男はにやりと笑い、「では明日までに回答を。お忘れなく」と言い残して去っていく。
呆然と立ち尽くす三人。結局、企業は “アルマを活用する道” へ強引に誘導している。彼女自身は弱っている状態で、現実に対抗する余裕がない。もし逃げ出すなら、十分な準備と覚悟を要するが、それすらも時間が許してくれない。明日中に答えを出せと迫られ、猶予(ゆうよ)は皆無だ。
(どうすれば……)
理久は唇を噛(か)み締める。凛花も若いスタッフも苦しそうに顔を見合わせる。もし “所有契約” にサインすれば、企業が求める “研究協力” もセットになる。いずれアルマが冷却室行きになる可能性だって高い。一方、ここで退所すれば槙村(まきむら)や政府の追跡が待ち受け、しかもアルマが本当に外へ出られるかも分からない。どちらも地獄だ――それが彼らの率直な結論だった。
(いや、絶対にまだ打開策があるはず……)
思考をめぐらせながら、理久は決意を固める。明日の回答を企業が迫るなら、逆手に取って “この場での交渉” を表面上受け入れ、アルマを連れて外へ逃走するプランを練るしかない。完全に反故(ほご)にすることを前提に、企業を欺(あざむ)く危険な策だが――これしか手はないかもしれない。
「……よし、やるしかない。アイツらが明日までに答えを出せと言うなら、 ‘分かった’ と返事しておいて、アルマを外へ連れ出す段取りを作ろう」
理久が低く言い放つ。驚いた凛花と若いスタッフは視線を交わし、「でも無茶すぎるよ……。警備やカメラがあるし……」と戸惑う。けれど、他に選択肢がないのも事実だ。凛花が決然と頷(うなず)く。「私も賛成……。このまま企業の言いなりになるのは無理。アルマが壊れる前に逃げなきゃ」
若いスタッフも渋々ながら「分かりました……私も協力します」と唇を噛(か)む。三人は急ぎ宿泊部屋へ戻り、初めて “脱出計画” を具体的に議論し始めた。ここから外へ出るルート、警備の死角、時間帯、アルマの体力――問題は山積みだが、もはや背水の陣だ。
(こんな地獄のラボで、あいつが ‘物’ にされるくらいなら……失敗して死んでも構わない)
理久は燃えるような決意を胸に、二人とともに作戦の端緒(たんしょ)を探る。明日には “回答” を出すと言って相手を油断させ、夜かあるいは早朝にアルマを連れ出す。それが唯一の “微かな突破口” かもしれない――そう信じて、三人は限られた時間で頭をフル回転させた。
#### * * *
夜になっても企業は三人を呼び出してこなかった。アルマからも連絡はない。つまり、明日こそ “結論” を出す日に違いない。三人は宿泊区画の部屋で集まり、詳しい脱出計画を絞り込む。カメラの監視をどう掻(か)い潜(くぐ)るか、扉のロックをどうするか、さらには外へ出たあとの足――幸運にもラボの裏口に車があれば狙うなど、苦しいアイデアを積み重ねる。それらが本当に成功する保証はないが、無策よりはマシだ。
(アルマを守るためなら、俺はどんな手でも使う……!)
理久は夜半まで準備し、いよいよ “最後の戦い” に挑む覚悟を固める。外に出ても危険は多いが、ここに留まるよりは希望がある。彼女が元気になったとき “アコアのまま自由になる” 道を探す――そのために生き延びるしかないのだ。
(アルマ、お前は本当は自由に空を見上げて笑える子なんだ。俺が何としても、そこへ連れていく……)
冷たい闇がラボを包む中、理久の心には小さな炎が宿っていた。最悪の地獄を見てきたからこそ、今度こそ彼女を救う――その誓いだけが、揺れる手を支えている。
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