第20話「微かな突破口」

 重く冷たい空気に包まれたラボの廊下を、理久(りく)は人目を忍ぶように進んでいた。深夜。館内放送も完全に消灯時刻を告げ、ほとんどの技術者やスタッフは帰宅、あるいは夜勤の少数だけが残っているはずだ。最低限の照明と監視カメラのランプが、わずかに廊下を照らすだけ。いつものことながら、魂を凍らせるような無機質な冷気が染みわたる。


 宿泊区画の自室で眠れずにいた理久は、いても立ってもいられなくなった。前日から“アルマが上層部の面談に呼び出され、長時間拘束されている”という話を聞き、心配が募る一方だったが、夜になっても彼女の姿は戻らなかった。サングラスの男やスーツの女性を問い詰めても「明日には面会できる」などと繰り返すだけで、納得のいく説明はなされていない。


「もう待ちくたびれた……。いいかげん限界だ」


 その焦燥(しょうそう)を振り切るように部屋を出た理久は、夜勤の警備が手薄になるタイミングを見計らって廊下を歩いている。以前、裏倉庫へ入り込んで見つかった苦い記憶があるため、最大限に注意していた。カメラの死角や曲がり角を慎重に確認しながら進むものの、向こうもプロだ。軽々しく企業秘密の区画へ入り込めるわけがない。しかし、それでも――何とかアルマの所在を突き止めたい気持ちが勝(まさ)っていた。


 (絶対にどこかに彼女がいるはずだ。何も連絡がないのはおかしい。面談や検査と言っても、一体いつまでやるんだ……?)


 ひそかな足音を立てて廊下を曲がると、空気がさらに冷たく感じられる。先日のように「施設の空調がトラブル」なのか、あるいは深夜帯だけ省エネで下げているのか。どちらにせよ、アルマにとって快適とは言い難いだろうと想像すると、胸が痛む。


 同じころ、凛花(りんか)も若いスタッフも同様に睡魔が遠く、部屋で身動き取れずにいた。だが、理久が行動を起こすことは伝えていない。余計なリスクを拡大しないため、自分ひとりで探りに行くと決めたからだ。万一見つかって強制退去を喰(く)らえば自分ひとりの責任で済む。彼女たちを巻き込まないための判断だった。


 「……こっちか。それともこっち……?」


 廊下の分岐に立ち止まり、理久は記憶を手繰(たぐ)る。アルマがよく通っていたリハビリルームやメディカルルームは、昼間しか開かれていないのを知っている。夜間には施錠されるか、別の場所へ移動されているかもしれない――では、上層部と面談する“会議室”か“専用区画”はどこにあるのか。先日呼び出された会議室へ向かってみたところで、誰もいない可能性が高い。かといってむやみに奥を探れば、カメラに引っかかってあっという間にサングラスの男が来るだろう。


 (それでも、何もしないわけにはいかないんだ……)


 覚悟を決め、理久は“カンファレンスルーム”のあるフロアへ向かった。途中、夜勤らしき技術者と鉢合わせしそうになり、曲がり角で慌てて隠れる。相手に見つかれば面倒になる――視線を捉えられないよう細心の注意を払いつつ、階段を上がる。エレベーターは監視カメラがあるため、使わない。


 2階へ到着し、暗がりの廊下を歩いていると、先日の面談で使った扉が見えた。もちろん鍵が掛かっているだろうが、念のためノブを回してみる。やはりロックされている。中に灯りが見えないので、誰もいないと判断し、そっと離れた。


 (いないか……いま話し合いが行われてるとしたら、別の部屋かも。あるいは地下に深い研究区画があるのかもしれない……)


 徐々に気持ちが重くなる。裏倉庫へ行けばまた見つかる危険大だが、それ以外に宛てもない。すでに滞在してから日が経つのに、施設の全容はいまだつかめないままだ。企業は巧妙にセキュリティを張っており、安易にうろつくと高い確率で捕まる――だが、一縷(いちる)の希望を頼りに動くしかないのだ。


 廊下を引き返そうとしたとき、ふと空調の吹き出し口付近を見つけた。そこから勢いよく冷気が漏れているようで、不自然なほど強い風が吹いている。まるで冷蔵庫内かと思うほど寒い。思わず「こんな所にアルマがいたらたまらないな……」と思いながら触れてみると、微かな振動が伝わる。


 「何だ……故障か?」


 囁(ささや)きながら、理久は天井付近を見上げた。そもそも施設の空調がどこまで繋(つな)がっているか知らないが、夜間にこんな強い冷気が流れているのは異様だ。もしかするとどこかの部屋の冷却装置とリンクしている――そのどこかでアルマが“強制冷却”を受けている可能性も……そんな悪い想像が頭をよぎる。


 (ちょっと考えすぎか……とはいえ、何か引っかかる)


 冷却が高負荷で回っているとすれば、それを必要とする行為が行われているのかもしれない。例えば、アルマの“コア”を再解析するために膨大な熱が発生する装置を稼働させているとか……。


 「……やっぱり裏倉庫に行ってみるか?」


 一度見つかっている場所だけに危険だが、あそこが企業の本当の研究区画に通じている可能性は高い。アルマの面談と称して実はコア解析を進めているかもしれない――そんな仮説に賭(か)け、理久は意を決した。


 階段を下り、以前覗(のぞ)き込んだ場所へ向かう。夜勤警備に遭うリスクが大きいが、全員が眠っているタイミングを狙うしかない。音を立てないように呼吸を整え、慎重に進む。途中で曲がり角を警備員が歩いているのを見つけ、必死で隠れたりとヒヤヒヤの連続だ。


 やがて、半地下へ通じる扉が見えてくる。前にサングラスの男に捕まった場所だ。鍵が掛かっているはずだが、念のため回してみる――もちろん、鍵は掛かっていた。だが、彼は懲りずにドアを軽く押す。すると、意外にもわずかな隙間があいているようで、鍵が完全には閉まっていないらしい。


 「……え?」


 拍子抜けするほど簡単に隙間が開く。どうやら施錠を忘れたのか、それとも何かの作業で一時的に解錠しているのか分からないが、理久にとってはチャンスだ。隠されていた区画へ踏み込むなら、いましかない。


 深呼吸して一歩踏み出す。すると、すぐに冷たく湿った空気が押し寄せた。暗い階段が続き、奥からかすかなモーター音が聞こえる。まるで大型コンピュータか冷却装置が稼働しているかのようだ。おそらく以前に覗(のぞ)いた裏倉庫の拡張区画だろうが、その先に何があるのかは未知だ。


 「こわいな……でも行くしかない」


 理久は自分に言い聞かせ、階段をゆっくり下りる。途中で不快な薬品臭が漂うが、布のマスクなど持ってきていないため、そのまま鼻を押さえて進んだ。手すりも埃(ほこり)っぽく、普段は誰も通らないのかもしれないが、足跡らしき汚れは見える。


 階段を下りきると、狭い通路が左右に伸びていた。片方は倉庫らしい鉄扉があり、もう片方は奥にかすかな光が差している。光のほうへ行くしかないと判断し、そちらへ足を進める。モーター音が大きくなり、床が微かに震えるのを感じる。


 やがて行き止まりに見える壁の左側に別の扉があり、そこには「冷却室A-3」と貼り紙があった。内部から冷たい風が漏れ出しているせいで足元がさらに寒さを感じる。冷却室――設備か何かを保管しているのだろうか。まさか“生体部品”を冷蔵しているとは思いたくないが、軍事研究の匂いがする場所だけに油断できない。


 鍵が掛かっているか試すと、案の定ロックがかかっていた。ただ、電子錠のディスプレイがわずかに点滅していて、どうやら故障かメンテナンス中らしく、暗号化の途中で止まっているようだ。パネルを触れると赤いエラーが出てくる。


「……あれ、壊れてるのか?」


 理久は思わず口にする。夜中にまさか空調や鍵のシステムが同時にトラブルを起こしているのか、それとも故意に仕組まれた罠なのか。恐る恐るパネルをいじってみると、奇妙なことに「ERROR: ALICE SUBSYSTEM OFFLINE」と英語のメッセージが出る。なんだそのアリス・サブシステムというのは……?


 (とにかく開けられないのか?)


 ロックを解除できるとしたらアルマ級のハッキング能力が必要だろうが、ここには理久一人。しかもこの企業のシステムがただ壊れているのか、クラッキングされているのか判別できない。そう考えていると、通路の奥から小さな金属音が聞こえた。


 「……誰かいるのか?」


 思わず身を引いて耳を澄ますが、やや遅かった。向こうも気配を感じたらしく、足音が近づいてくる。理久は咄嗟(とっさ)に腰を落とし、段差の影に隠れ込む。深い息を止め、物陰から通路を覗(のぞ)き込むと、白衣の男性らしき人影が冷却室A-3の前にやってきた。


 「……もう、ダメなのか……?」

 白衣の男は独り言のようにつぶやき、ロックパネルを見て苛立ちを込めて操作しているようだ。だがエラーは直らないらしく、「ちっ……やはり緊急停止が効かないのか。槙村(まきむら)たちが騒ぎ出すのも時間の問題だな……」と顔をしかめている。


 槙村――名前を聞いた瞬間、理久の胸が大きく鳴った。やはりこの裏区画は槙村や企業の怪しい連中が関連している場所かもしれない。白衣の男は続けて「アリス・サブシステムが落ちてるのに、冷却だけが全力稼働してる……死体でも保存してるんじゃないだろうな……」と不気味なことをぼやく。


 (死体って……何のことだ? まさかアルマじゃないよな……いや、彼女は生きてる……)


 息を詰めながら理久は耳を澄ます。白衣の男はパネルを諦めたのか、ため息をついてスーツの胸ポケットからスマホらしきものを取り出し、通話を始める。


 「もしもし……ええ、こちら冷却室がロックされてますが、鍵のシステムがダウンしててね……。うん、アリスのメインが止まってるらしい。ええ、なんでか知らないが、昨夜からトラブル多発で手が回らんよ……とにかく早く直さないとヤバいって……分かった、じゃあ頼む」


 通話を切った男は再び扉に向かい、「しゃあねえ、応急で手動オープンするか……」とドライバーのような工具を取り出す。どうやらパネル部分を外して物理的に鍵を解除するつもりらしい。もし本当に扉が開いてしまえば、中に何があるのかを理久も目撃できるかもしれない。


 (……どうする? 一緒に部屋へ入って、隠れて見るのか? 見つかるリスクが高すぎる……)


 躊躇(ためら)いながらも理久は様子を見守る。白衣の男は器用な手つきでパネルを外し、中の配線をいじり始める。するとカチリと金属が動く音がして、ロックが外れた。男が扉をこじ開けるように力を込めると、冷気がブワッと溢(あふ)れ出てくる。まるで冷蔵庫か冷凍庫だ。たまらなく寒そうだが、男は眉をしかめながら中へ入っていく。


 「……うわ、こりゃひでえ。ほんとに何を保存してんだ……」


 部屋の奥は暗く、かすかに青い照明が見えるが、理久からは中の様子がほとんど分からない。男の呟(つぶや)きだけが断片的に聞こえ、どうやらかなり異様な物体か設備があるらしい。「液体? グロいな……」「死んでる……?」「これ……アコアの破片か?」という声が漏れ、理久の不安をかき立てる。


 (やはり軍事用途の遺体や壊れたAIの残骸を保管しているのか……)


 身震いしながらも、理久は好奇心を抑えきれず、もう少し近づこうかと逡巡する。しかし、すぐに男が部屋の奥で「うわっ、まずい!」と声を上げ、ガタンと何かが倒れる音が響いた。慌てて扉のほうへ戻ってきた男は、顔を青ざめているようで「こんなの見てられない……早く冷却をオフにしないと本気で漏洩(ろうえい)するぞ……」と呟き、サッと扉を閉めて鍵も掛けずに走り去ってしまった。


 「……なんだ……」


 理久は思わず後を追おうかと思ったが、男は足早に階段を上がってしまい姿が見えない。まさかの事態に置き去りにされた形で、扉の前に残される。こんな場所に長居すれば危険なのは百も承知だが、扉のロックが外れているいま、中を覗(のぞ)くだけでも何か手がかりが得られるかもしれない――


 (……行くしかないか……)


 決意し、周囲を見回して警備の気配がないことを確かめ、そっと扉のレバーを回した。引くと重々しい金属音を立て、再び冷気が吹き出してくる。たまらず片腕で顔を覆いながら中へ潜(くぐ)ると、白い霧のような空気が床を覆っていた。嫌な化学薬品の匂いが鼻を突き、思わずむせる。


 奥には青い照明の管が数本通っており、大型タンクや冷却パイプが複雑に連なっている。床には細かな水滴が滴り、まるで冷凍庫に踏み込んだような湿気だ。右側に棚があり、ビニールシートのかかった箱がいくつか並んでいる。左側には大きめのメタルラックに、見慣れないロボットパーツやアコアの頭部らしき物が転がっている。破損が激しく、血の代わりにオイルや冷却液のようなものが流れ出している。


 「う……きついな……」


 それだけなら“廃棄パーツの保管庫”と思えなくもないが、奥のほうには透明なチューブが幾つも連結されたタンクがあり、白濁した液体が満たされている。そこに何か人型が沈んでいる気配がある。姿を確認しようと歩み寄ると、背筋に寒気が走った。タンクの中には明らかにアコアと見られるボディが浮かんでいるのだ。腕や脚が欠損し、まるで人形をバラバラにしたような光景――頭部は外され、胸部が抉(えぐ)られている。まさか実験か拷問の跡か。


 (……これは……!)


 理久は思わず声を上げそうになったが、ぐっと堪(こら)える。辺りには複数のタンクがあり、それぞれ壊れたアコアの残骸や、すでに腐敗に近い状態の人工皮膚が漂っている。まるでホルマリン漬けの人体標本のようだが、これはアコア標本だろうか。いずれにせよ、企業の“裏実験”であることは間違いない。


 (こんな……酷(ひど)いことをしているのか、ここは……!)


 アルマがもしここに連れてこられたら。そう想像するだけで吐き気がこみ上げる。ここで見ている遺体やパーツは、おそらく企業が軍事案件で回収したり、処分された高性能AIを解析したりするための“素材”なのだろう。恐らく政府や軍への成果を渡す裏仕事の一環だ。


 (これが“○○テック”の本性……! アルマを死なせない代わりに、いずれこうやってパーツにされるかもしれない――)


 想像を振り払うように後ずさりした理久は、ドアの近くに何かが転がっているのに気づいた。白衣の男が先ほど倒してしまったらしい、大きめの金属箱が中身を散乱させている。そこには紙のファイルやら光ディスクがこぼれ出ており、「CONFIDENTIAL(機密)」と印字されたラベルが貼ってある。


 迷ったが、ここまで来たからには少しでも情報を得たい。理久は慌ててファイルを手に取り、中身をパラパラと見る。英語や専門用語が多いが、中には日本語のメモも混じっていた。「SAMPLE #AGX-02 アコア生体皮膚の再利用可否」「コアアップリンク試験」「爆発リスク:高」――内容は理解しきれないが、軍事アコアの研究データとおぼしきものだ。さらに「AI制御不能事例」「個体サンプルの戦闘データ解析」など、おぞましい文言が並ぶ。


 突然、扉の外で足音がした。理久は慌ててファイルを戻し、箱を倒したままでは不自然だが、片付ける時間もない。仕方なく薄暗いタンクの陰に身を潜(ひそ)めて息を殺す。足音が近づき、扉が再び開くと、先ほどの白衣男が慌てて戻ってきたようだ。


 「しまった……箱を倒したままか。誰かに見られたらマズいぞ……ああ、何でこんなときにトラブル続きなんだよ……!」


 ぶつぶつ文句を言いながら男が箱を起こし、書類を乱雑に詰め直す。一部のファイルは血やオイルが染みてしまったのか、捨てるか後でコピーするか悩んでいるらしい。「お偉方は何してるんだ……ずっと上層部とやらが来てるって言うのに、こんな下処理もさせられて……」と愚痴(ぐち)をこぼす。


 (上層部が……? アルマを拘束してるかもしれない連中か……!)


 理久は身を固くし、男の動向を見守る。しかし男は書類をまとめると、タンク周りを一瞥(いちべつ)してため息をつき、「こんな冷却量、やりすぎなんだって……二度手間にならなきゃいいけど。もういい、さっさと戻ろう……」とつぶやき、再び扉を閉めて去って行った。鍵を掛ける音がしなかったので、外のパネル故障を放置しているのかもしれない。


 物陰から抜け出した理久は、震える呼吸を整えながら顔をしかめる。この部屋こそが企業の“闇”を象徴する場所――破損アコアの死体や部品を解析・保管しているのは明らか。ファイルの中には“爆発リスク”“制御不能”などの用語もあった。これがアルマの運命となるかもしれないと思うと、激しい怒りと恐怖が交錯する。


 (あいつら、いつかアルマを使い物にならなくなったら、ここへ放り込んで解体する気かも……!)


 拳を握りしめ、涙がにじむ思いだった。企業にとってはアコアは製品、サンプル、研究材料――命も心も関係ない。アルマに軍事的価値がある以上、今は“優遇”されているが、いずれ役目を終えれば“処分”されるかもしれない。その未来を想像すると、理久は怒りで胃がきしむように痛くなる。


 (こんなこと……絶対に許せない。アルマをこんな場所に置いておけない!)


 だが、ここで騒ぎを起こせばどうなる? 一人で喚(わめ)いても捕まるだけかもしれない。アルマを守りきれる力も手段もない。それでも、この闇を見てしまった以上、黙って引き下がるのは不可能だ。なんとか彼女を説得して、企業の手を離れ脱出する術(すべ)を探らなければ――


 「くそ……。どうすれば……?」


 小声で呟(つぶや)きつつ、理久は冷却室を後にする。深い暗闇の中、震える手でドアを閉め、鍵は掛けずにそっと廊下へ戻った。足早に階段を上り、回り道して宿泊区画へ引き返す。万一このまま捕まればファイルを見たことがバレてしまう。そうなれば強制退所どころじゃない。アルマを巻き込む危険が高まるだけだ。


 部屋へ戻り、眠るフリをしてベッドに沈むが、頭が熱く覚醒して眠れるはずがない。あの恐ろしいアコアの残骸、タンクに浸(つ)かるバラバラの躯体(くたい)。企業が進める軍事実験にぞっとした。こんな連中にアルマを渡すわけにはいかない。その一心が理久の心を焦がす。


 (どうにかしなきゃ……俺たちだけじゃ弱い。誰かに助けを呼べないか? 警察はダメかもしれないが、……もし勝峰(かつみね)さんや他のスタッフが無事なら、外で助力を探せるか……?)


 わずかな可能性にすがるように思考を巡らせても、何も具体策は浮かばない。アルマの心を守るために、彼女を企業から離脱させる――それが最終目標。だが、外は危険が待ち構えているかもしれない。槙村(まきむら)らしき勢力や政府の目もある。それでも、あの“解剖室”まがいの冷却室にアルマが連れてこられる未来だけは絶対に避けなければならない。


 (アルマが心から“生きたい”と望むなら、その道を一緒に切り開く。それを妨げる連中と、俺は戦うしかない……)


 夜は深まるばかり。廊下の冷たい風の理由は、あの冷却室に集中していたんだと確信できる。ファイルやタンクを見てしまった以上、理久の中で“灰色のラボ”に対する嫌悪が決定的になった。もはや相手を信用する余地は微塵(みじん)もない――ただ、アルマを助け出す機会を狙う。それだけだ。


 (明日……アルマと話さなくちゃ。彼女がこの施設に留まりたいと思っているとしても、ここがどういう場所か伝えたい。今のまま何も知らずに契約なんかしたら……取り返しのつかない地獄だ)


 決意を噛(か)み締め、理久は目を閉じる。明日には必ずアルマと密に時間を作り、本当のことを伝える。それで彼女がどんな反応を示すか分からないが、最低限の事実――企業の裏側を知らせなくては、守りようがない。


 (寒い廊下……あれは象徴だ。ここが死と冷酷さを隠す闇の空間という証明。アルマには温かい陽だまりが必要なんだ……)


 そう胸の奥で呟(つぶや)き、ようやく理久は瞼(まぶた)を降ろす。何時間か眠れるかは分からないが、気力を蓄えるしかない。明日こそ、あの優しい笑顔を曇らせたくない――そんな思いが、きしむ胸を支えていた。

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