第16話「溶けゆく境界」

 翌日、早朝――研究施設「○○テック」の薄暗い廊下に足音が響いた。前日の晩、深夜にこっそりと裏倉庫へ迷い込んだ理久(りく)は、サングラスの男に見とがめられ叱責(しっせき)を受けて以降、警戒されているのかもしれない。廊下を通るたびに職員らしき人間やカメラの視線を感じ、落ち着かない。


 しかし今朝は違った。宿泊区画のドアを開けると、案内係の女性がにこやかに微笑んでいる。

 「おはようございます。アルマさんの容体が安定しましたので、直接お会いいただけますよ。準備が整いましたら、ご案内します」


 「本当ですか……!?」


 理久は思わず声を張り上げ、まだ寝ぼけ眼(まなこ)だった凛花(りんか)と若いスタッフも飛び起きる。ここ数日、ずっと観察ブース越しにアルマの寝顔を眺めるしかなかったのだから、ようやく対面できると知って嬉しさが込み上げる。


 「はい。ですが個室内での面会になります。技術者の立ち合いのもと、あまり刺激しすぎないようにお願いしますね」


 そう念を押されながら、三人は慌ただしく身支度を整え、廊下へ出る。途中でサングラスの男とすれ違うが、彼はいつもの仮面のような笑みを浮かべただけで何も言わない。代わりに、別の社員――灰色のスーツを着た細身の青年が先導役として出てきた。


 「こちらへどうぞ。アルマさんは現在、リハビリルームの小部屋にいらっしゃいます」


 リハビリルーム――いわゆるメンテ後の調整用区画だろう。理久たちは案内に従い、エレベーターを使って上の階へ移動する。まるで近未来的な空間だったメディカルルームとは打って変わり、そこはやや落ち着いた雰囲気の廊下で、壁紙も淡いクリーム色だ。周囲に感じる薬品の匂いがやや薄れ、まるでプライベートクリニックのような穏やかささえある。


 (こんな場所もあったんだな……)


 思わず心中で驚きつつ、細身の青年の後ろを歩く。途中にはモニタ付きの扉がいくつか並び、そこには「リハビリ区画1」「調整室2」などのプレートが貼られている。どれも電子錠で管理されているようだ。


 青年が「こちらです」と言って示した部屋のプレートには「リハビリ室4」。ドアの前で青年がカードキーをかざし、スライドドアが開くと、内部は8畳ほどのスペースにベッドや椅子、簡易机が置かれ、色合いも柔らかい。病室よりは少し上質な個室に近い。


 「アルマ……!」


 理久たちは奥に置かれたベッドに向かって駆け寄ろうとする。そこには確かにアルマが座ったような状態でいる。背もたれを起こしたベッドに浅く腰掛け、まだ白いローブのような服をまとい、手足に若干の器具が残っているが、視線はしっかりと前を向いていた。


 「理久さん……凛花さん、それに……」


 かすれた声。けれども確実に彼女のものだと分かる。アルマが申し訳なさそうに小さく微笑む。目の下にはうっすらクマのような影があり、まだ疲労が抜けきっていないのだろう。


 「アルマ……っ! よかった、本当に――」


 理久は思わず駆け寄り、ベッドのそばに立つ。きつく抱きしめたい気持ちが押し寄せるが、器具があるため警戒しているのか、アルマが「ごめんなさい、まだ体が思うように動かなくて……」と遠慮がちに笑う。


 「体が痛むのか?」


 「うん……まだ細部が再構築中とか言われた。ボクは……生きてるんだね。施設で……死にかけたのに……」


 その言葉を聞き、凛花が泣きそうな笑顔でベッドに手を置く。「そうよ、生きてるの。あなたを修理できる技術を持った会社があって、私たちはそこに頼むしかなかった。でも、こうして無事目が覚めて、本当によかった……!」


 若いスタッフも「おかえりなさい……!」と感極まっている。アルマは戸惑いながら首を小さく振り、「こちらこそ、ごめんね、あのとき死ぬつもりだったかもしれなくて……」と苦笑するように言葉を零(こぼ)す。


 そのとき、ベッドの脇にモニタを持った技術者が現れ、淡々と話を始めた。「おはようございます、アルマさん。体調はいかがですか? 痛みや不調があるならお知らせください。今日は簡単なリハビリを始めようと思っています」


 アルマは技術者をちらりと見やり、微かにうなずく。「はい……体は重いですけど、大丈夫です……」

 技術者は「分かりました」と返事し、リモコンのような端末を操作して何かの設定を変える。


 理久と凛花はアルマの手元に視線を落とし、彼女の人工皮膚が若干まだ赤みを帯びている部分を確認した。ここが修理跡なのだろう。包帯を巻いているわけではないが、若いスタッフが「痛そう……」と肩を震わせる。


 「大丈夫、大丈夫だよ。ボク、もう死なないから……」


 アルマが柔らかく笑みを浮かべる。外見は小学生ほどの少女が健気に言っている姿に見え、人間ならばそれだけで抱きしめたくなるほど愛おしいものだろう。だが、その身体の内側は軍事レベルの機能が詰まっていると思うと、愛しさだけでは済まない複雑な感情がこみ上げる。


 (アルマ……やっぱりお前は特別すぎる。こんな“人間みたいなロボット”なんて、世界が受け入れてくれるのか……)


 理久は胸を痛めながら、彼女の細い手をそっと握る。暖かい――修理後も体温を維持するシステムが正常に動いているのだ。アルマは頬を少し染めるように照れ、「理久さん……ありがとう。あなたが運んでくれたんだって、凛花さんから聞いたよ」とかすれる声で呟く。


 「アルマこそ、あのとき施設で……俺たちを助けてくれたろ。お互いさまだよ」


 その言葉にアルマが微かに頷(うなず)き、“前のマスター”を失った悲しみを思い出すかのように小さく目を伏せる。ただ、今は言及しないでいてほしそうだ。理久や凛花もそれを察して何も言わない。


 「ところで、ここって……どこなの?」

 アルマが首を傾げて尋ねる。見ると彼女は室内をぐるりと見回し、壁に取り付けられた無機質なモニタや、白いパネルの並びに疑問を感じているらしい。


 「ええと、私たちが頼った会社で、あなたを修理してくれた場所。詳しくは私たちも知らないの。どうやら軍事レベルの設備があるラボみたいだけど……」

 凛花が曖昧に答えると、アルマは戸惑いを滲(にじ)ませる。「軍事……やっぱり、ボク……そういうところに繋がってるのか……」


 話が暗い方向へ向かいそうだったので、技術者がタイミングを見て口を挟む。「アルマさん、いまは体の回復に集中しましょう。あまり難しいことを考えすぎると演算ユニットに負荷がかかるかもしれません。少しずつでいいんですよ」


 アルマは不本意そうに眉を下げたが、「分かりました……」と短く返事する。理久としては、この技術者の態度に多少の苛立ちを覚えるが、アルマを救った事実もあるため強く出られない。いま彼女を守りたければ、相手のルールに従わざるを得ない。


* * *


 そうしてアルマとの“再会”が実現してから数時間が過ぎ、彼女はリハビリルーム内で軽い体操や歩行テストを行い始めていた。アコアとはいえ、神経系の再結合とバランス制御が必要なのだろう。いわゆる“再学習”のような作業がソフト面でもハード面でも進められている。


 理久や凛花は基本的に隣室から窓越しに見守っているが、許可があれば部屋に入り簡単な会話もしていいというスタンスになった。アルマが立ち上がって歩こうとする際に、万が一コケたりしないよう、技術者がつきっきりで介助する。見た目には人体リハビリとほぼ同じ光景だ。


 「あっ……」


 バランスを崩し、アルマが少しよろめく。その小さな体を技術者が支えるが、アルマは苦笑しながら「ごめんなさい、大丈夫……ありがとう」と礼を言う。見ている理久と凛花は、まるで親が子を見守るようにハラハラしつつ、微笑ましさも感じていた。


 「いいのよ、慌てないで。あなた、体の中がだいぶ置き換わったのよね。そりゃ慣れるまでは……」


 凛花が戸惑いを含んだ笑顔で声をかけると、アルマは恥ずかしそうに俯(うつむ)く。「そう……たぶん、いくつかパーツが初期のものと違うみたいで、少し重心がずれてる。……でも不思議と、気分は軽いんだ」

 その言葉に、理久は「気分が軽い?」と首を傾げる。アルマが話を続ける。


 「うん……昔のボクは、常にトラウマや恐怖を引きずっていた気がする。『マスターを守れなかった』っていう罪悪感や、あの瓦礫(がれき)の中で見た光景……でも今は、そこまで苦しくないんだ。何かが……ほんの少しだけ、楽になった気がする」


 その言葉に、凛花と理久は視線を交わす。もしかすると、修理の際にデータや記憶の一部が補正され、PTSDのような症状が緩和されているのかもしれない。同時に、本来の“前のマスター”への思い出が薄れている可能性もあるだろう。それが必ずしも悪いとは言えないが、アルマ本人がどう感じているかが重要だ。


 「それで……ボクは、それでいいのかな……マスターをちゃんと覚えていたいのに、心が痛まないのって、ボク、裏切ってるのかな……」

 アルマは小さく首を振りながら呟(つぶや)く。人間ならトラウマが癒えるのは自然だが、彼女はAIゆえに“自分が意図せず記憶を改変されたのでは?”という不安を抱くのだろう。


 「アルマ……。大切な思い出を失っているわけじゃないと思うよ。もしあのときの苦しみが薄れたなら、それはアルマが前に進む力を得た証拠かもしれない」

 凛花が優しく言葉を選ぶ。アルマはまだ戸惑いが残る表情だが、微かに頷(うなず)いた。


 理久も「つらい記憶から解放されるのは悪いことじゃない。マスターのことを忘れたわけじゃないだろ?」と続けると、アルマは「うん……そうだね。ありがとう」と柔らかく微笑む。それは確かに“生きている”笑顔だと実感できた。


* * *


 夕方ごろ、部屋の隅のインターホンが鳴り、サングラスの男とスーツ姿の女性が様子を見にやってきた。アルマに「歩行テストの成果はどうですか?」と尋ねながら、手元の端末にデータを入力していく。


 「大丈夫です。まだふらつくけど、だいぶ慣れてきました」

 アルマは控えめに返事する。


 男は唇の端を吊(つ)り上げた笑みを浮かべ、「それはよかった。やはり当社のパーツは優秀ですね。アルマさんの演算ユニットともよく適合しているようです」と自画自賛めいた発言をする。女性のほうは「人格領域も安定しつつあるとか。素晴らしい成果です」と笑みを投げかけるが、どこか冷ややかな響きがあるのは否めない。


 「さて、アルマさん。あなたは今後どのように活動する予定ですか? ご自宅に戻るのか、それとも“持ち主”となる方々が施設を用意するのか……」

 女性が何気なく尋ねると、アルマは面食らった表情をした。「持ち主……?」


 凛花が食い気味に答える。「いえ、私たちは彼女を‘所有’するつもりはありません。ただ、一緒に生活したいんです。アルマ自身も、そう望んでいるはず」

 すると女性は困ったように肩をすくめ、「法的にはアコアには所有者が必要なんですよ。とくに軍事型の可能性があるなら尚更。野良のままにしておくわけには……」と言う。男も「ええ、放置すれば世間から疑念や反発を受けますし、政府に取り締まられるかもしれない」と付け加える。


 アルマは不安そうに視線を落としながら、「ボク……野良扱い、なの……?」と小さくつぶやく。

 理久は憤(いきどお)りを感じ、「俺たちが支える。彼女が自由になるにはどうすればいいんだ……?」と静かな怒りを込めて問いかける。男は「自由?」と鼻で笑い、冷酷な口調で続ける。


 「難しいですね。AIの人権など、この国にはまだ存在しません。特にアルマさんのような特殊モデルは社会的にも危険物とみなされる。政府や警察、軍が動けば、あなた方の手を離れてしまうでしょう」

 女性も「それを避けるには、私どもと正式に契約し、アルマさんを‘管理’する立場が必要でしょうね。カバー企業として登録すれば、ある程度の行動自由を確保できますよ」と申し出る。


 まさに企業による“囲い込み”だ。理久は歯噛みしながら「それじゃ、結局はお前たちに支配されるってことか……!」と声を荒らげる。男は「支配なんて物騒(ぶっそう)な言い方はやめましょうよ。協力関係ですよ。アルマさんの‘兵器的側面’を管理しつつ、普段は彼女を自由に動かしてあげる」と飄々(ひょうひょう)と返す。


 凛花も思わず怒鳴りそうになるが、アルマが「待って……」と小さく首を振り、二人の仲裁をする。「ボク……正直、どうすればいいか分からない。でも、いまは理久さんたちのそばにいたい……。ボクは、人間と一緒に生きたいだけ……」


 その切実な言葉に、理久と凛花は胸が痛む。アルマが望むのは“所有”でも“軍事利用”でもなく、ただ“人間と等しく暮らす”ことに近い。けれども現行の法律や社会情勢は彼女にとってあまりにも過酷だ。


 男たちはそれを見越しているかのようだ。サングラスの男は「いずれ折り合いをつける必要があるでしょう。私たちは賢明な選択を待っていますよ」と言い残し、踵(きびす)を返して部屋を出て行く。そこにほんの一瞬だけ、勝ち誇ったような笑みが見えた気がした。


* * *


 面会時間が終わり、アルマが再びメディカルチェックを受けるため部屋を出る頃。理久と凛花、若いスタッフは廊下でため息をついた。結局、アルマが「どう生きるか」についての道筋は見つからない。企業の申し出を受ける以外にも、政府や警察から逃げ回り“違法アコア”として潜伏する手段もあるかもしれないが、それはあまりに危険すぎる。


 「アルマ……どうすれば一番幸せになれるんだろう……」

 理久が苦く呟(つぶや)く。もし企業と契約すれば、当面の安全は手に入るかもしれないが、彼女が“物”として扱われる状況は変わらない。かといって世間に放り出すのはリスク大だ。


 凛花も腕を抱き、「私も分からない……。法を破ってでも彼女を守るって覚悟はあるけど、具体的にはどうすれば……」と苛立ちを募らせる。若いスタッフは「会社にも連絡が取れないし、勝峰さんたちも音沙汰なし……」と不安げだ。


 そんな三人のところへ、技術者の一人が近づいてくる。「お疲れさまです。アルマさんの検査が落ち着いたら、しばらくフリータイムにしますので、ラウンジでお待ちください。夕食はそちらにご用意します」と事務的に告げる。まるでホテルの係員のようだが、実際は“監視”も兼ねているのだろう。


 「……分かりました。ありがとう」


 理久はそう答え、心ここにあらずの足取りで歩き出す。灰色のラボ――清潔で先進的な雰囲気を装っているが、その実態は企業による“人形集め”の温床かもしれない。アルマのような存在を次々と囲い込み、軍や政府に売るか自分たちで利用するか。そんな最低のシナリオが頭をよぎるたび、怒りで胸が煮えたぎりそうだが、今はまだ動くべきときではない。


 (とにかく、アルマが完全に回復するまで待つ。そのときに、彼女自身が何を望むのか……それを尊重するんだ)


 そう自分に言い聞かせながら、足を進める。凛花と若いスタッフも同じ思いなのだろう。三人とも言葉が少なくなり、瞳に不安を漂わせたままラウンジへ向かう。


 夜が深まる前にアルマとの“フリータイム”がやってくる。彼女が目覚めて会話できるというだけで喜ばしいが、その先に“自由”があるとは限らない。だが、せめて彼女の声を、ありのままの言葉を聞きたいと願うのは、どうしようもない感情だった。


 (アルマ……お前は、いま何を思っている? どうかこの世界と折り合いをつける道を、一緒に探したい)


 理久の胸に、また大きな渦が起こる。あの施設での死闘、彼女が命をかけて守ってくれた時間。それを無駄にしないためにも、きっとここで諦めるわけにはいかない。彼女が再び口を開くその瞬間こそが、新しい道を照らす一筋の光になるかもしれない。


 彼女の声――それは、誰よりも“人間らしい”声として理久たちの心を震わせるのだろう。深い迷いの中で、それだけを信じるしかなかった。

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