第14話「灰色のラボ」
目隠しゴーグルによって視界を奪われたまま、理久(りく)と凛花(りんか)、そして若いスタッフは揺れる車内で息を呑んでいた。アルマは後部スペースのメディカルカプセルへ移されているらしく、機械が断続的に駆動音を立てる。その隣には“○○テック”のスタッフが幾人か座り、彼女の状態をモニタリングしているようだ。
車が走り出してからどのくらい経っただろうか。体感的には30分か、あるいは1時間。道中、何度か舗装路の振動が変化し、周囲の気圧が微妙に変わった気がする。山道を抜けて平地に出たのかもしれないが、当然ながらまったく見えない。偶然か、それとも意図的か、車内に流れるBGMや会話も最小限で、この異様な空間は静寂に支配されている。
(本当に、どこへ連れて行かれるんだ……)
理久は心の中で苦々しく呟(つぶや)き、指先を握りしめる。アルマが危篤(きとく)状態である以上、迷っている時間はなかった。だが、あまりにも強引な“企業のラボ”という行き先には疑念しかない。山奥の村から離れ、いまはどのあたりの国道を走っているのか、あるいは高速に乗っているのか、まるで分からない。
やがて車が大きく減速する感覚が伝わった。舗装路から何か別の敷地へ入っていくような音がし、金属製ゲートの開閉音と電子キーの認証音が耳を捉える。二重扉かシャッターのようなものをくぐり抜ける気配のあと、しばしの静止――そして車が完全に止まった。
「着きましたよ。皆さん、ここから先は研究エリアになります」
サングラスの男(いまはゴーグルを外しているようだ)が淡々と告げる声が聞こえる。足音が何人分も重なり、ドアの開く音と一緒に、外気が入り込む。ひんやりとした空気に混じって、独特な薬品の匂いが鼻を突いた。病院とも違う、工場とも違う、どこか化学系の研究施設を思わせる臭いだ。
「では、順番に降りていただきます。ゴーグルはまだ外さないでください。ご案内するルートが秘密になっておりますので」
男が慇懃(いんぎん)な口調で言いながら、理久たちを車から下ろす。手を引かれる形で小さくステップを降り、足元が固い床へと移る。コンクリートかタイルか――とにかく屋内であることは間違いない。
「アルマはどうなってる……?」
「大丈夫ですよ、すぐにメディカルルームへ移動します。ご安心を」
男の言葉を信じていいのか分からないが、今は不安を押し殺すしかない。隣では凛花が腕を軽くつかんでくれており、彼女も理久と同様に目隠しをされた状態だ。若いスタッフも後ろにいるようで、足音や息遣いが聞こえる。
しばし案内人の指示で小さく右へ曲がり、スロープを数段下りたりしながら進む。どこか広い空間を抜ける感触があり、金属製の壁のような反響を感じる場面もある。天井は高いのかもしれない。何度か自動ドアが開閉する音がして、そのたびに空気の匂いが微妙に変わった。
(研究区画をいくつか通り抜けてるのか……?)
やがて、一か所で足を止めたあと、男が「こちらです」と言いながら指示を出す。そして「ゴーグルを外していいですよ」と軽く肩を叩く。理久は慎重に周囲を見回そうとするが、ここでもう一度“絶対に騙(だま)されるな”と気を引き締め、静かにゴーグルを外す。
視界が徐々に明るさを取り戻し、まず目に飛び込んできたのは無機質な壁面。白く塗装された広めの室内で、床は光沢のあるタイル張り。部屋の中央にはアコアやAIを診断するための装置らしきテーブルが設置されている。手術室と工学ラボを混ぜ合わせたような設備が整い、壁際にはモニタやメンテナンス用アームが複数並んでいる。
「ここが当社の“メディカルルーム”です。AIや高度アンドロイドの修理・診療を行うための専用施設になります」
男が誇らしげに説明を始める。部屋の端には透明ガラス越しに制御卓があり、技術者らしき白衣を着た人々が集まってモニタを監視している。室内は淡い蛍光灯の白色光に満ち、清潔感があるが、人間医療用というよりは“ロボット整備”寄りの雰囲気が強い。
「アルマはどこに……?」
理久が辺りを見回すと、先ほどまで一緒だった凛花と若いスタッフが近くに立っていた。そこには何人かの社員が器具を広げつつ、ストレッチャーに横たわるアルマの姿。既に搬入されており、頭部や背部に小さなセンサーケーブルを取り付けている最中らしい。
「あれがアルマさん……! なるほど、思ったより重度の損傷ですね」と白衣の技術者が呟(つぶや)く。それを聞いて理久は慌てて駆け寄ろうとするが、サングラスの男が「中はクリーンエリアですので、スタッフ以外の進入は……」と制止する。部屋の中央にある透明パーティションが仕切りとなっているようだ。
「ふざけるな、すぐそばで見守るぞ……!」
怒りを抑えきれず声を荒らげると、男は軽く肩をすくめる。
「分かりました。では、そちらの“保護者席”に入っていただいて、ガラス越しに観察する形になりますが、それでよろしいですか? ウイルスや埃(ほこり)が入るのを防ぐため、直接の接触は当面お控えください。アルマさんの内部を開ける可能性もありますし……」
しぶしぶ頷(うなず)き、理久と凛花、スタッフは案内された“観察ブース”へ移動する。そこはガラスで仕切られた小さなスペースで、椅子とモニタが備えつけられ、会話用のインターホンもある。まるで実験動物を観察するような設計に嫌悪感を覚えるが、今はアルマに集中するしかない。
「アルマ……」
ガラス越しに見るアルマは、床に固定された台の上で横たわり、白衣の技術者が複数人で取り囲んでいる。彼女の人工皮膚の各所を慎重にチェックし、頭部センサーや胸部パネルの継ぎ目を探している。凛花が「ああ……」と小さく呻(うめ)くように声を出す。自分も工学を知っているだけに、どれほどギリギリの状態かが分かるのだろう。
モニタにはアルマの内部ステータスと思われる数値が次々と映し出される。CPU温度や演算ユニットのエラー率、メモリアクセス速度、そして――“人格シミュレーション領域”と書かれた欄もあるようだ。どの数値も赤い警告やエラーを示しており、一刻も早い修復が必要らしい。
「ご安心ください。我々はすぐに冷却と緊急安定プログラムを走らせます。ハードウェア交換が必要な場合も、同等パーツの在庫がある限り実施します。……問題は、彼女のメインコアがかなり特殊な設計のようで、解析に時間がかかりそうですね」
インターホン越しに、一人の技術者が丁寧に報告してくる。理久は「解析なんて……そんなことしなくていい。直すだけにしてくれ!」と声を張り上げるが、技術者は困ったように微笑む。
「いえ、コア領域にアクセスしなければ、ファームウェアやセルフチェックの再起動ができないんです。特殊な暗号化がされているのでしょう。このままだと回復しない可能性が高い。むしろメインコアを開封して直結する必要があるかも――」
「そんな……! アルマが嫌がるかもしれない……!」
叫ぶ理久の言葉に、凛花も悔しさを滲ませながら同調する。アルマが“軍事レベルの秘密”を抱えているのは確かだ。その解析を何としても避けたいが、彼女を救うためにはコアを開かないわけにもいかない……どうしようもないジレンマ。
「……コアを開く、と言いましたね?」
ガラスの向こうで冷徹な視線を放つスーツ姿の女性が口を開く。「ならば上層部への連絡が必要です。中途半端に手を出すと危険な爆発のリスクもありますから。お客様、この子が軍事仕様である可能性はどのくらいあります?」
凛花は目を伏せ、理久を見やる。若いスタッフも何も言えない様子だ。公言はしていないが、アルマが軍事利用のプロトタイプの可能性は高い――それは事実なのだ。
沈黙が続くなか、ふいにサングラスの男がブースへ入ってきた。仮面のような笑みを貼り付け、「ならば会社の上層部へ連絡しましょう。最先端のラボを使えば安全にコアを開封できるかもしれない。……もちろん手間がかかりますから、追加費用なども発生しますが」と告げる。
「費用……? 金を取るのか?」
理久は苛立ちを隠せず尋ねる。男は当然と言わんばかりに頷(うなず)く。
「ええ、我々は慈善団体じゃありません。あなた方がアルマさんを本気で救いたいなら、相応の対価が必要です。コアを開いて爆発リスクを除去し、再起動させるためには、時間とリソースがかかるんですよ」
(結局そこか……)
理久は心底嫌気がさすが、背に腹は代えられない。施設脱出のときと同じように、ギリギリの選択を迫られている。ここで“お金なんてない”と突っぱねてもアルマが救われる保証はなく、また病院に戻ったところで手の施しようがないのだ。
「分かった……金なら、いくらかかるか知らないが、なんとかする。だけどアルマを解体してデータを持ち去ったり、改造したりするのは絶対にダメだ。彼女の人格や記憶を傷つけないでくれ……!」
理久が必死に懇願すると、男は「もちろんです、我々はあくまで修理を目的にしております」と薄く微笑む。しかし、この笑みが本当に真心からのものかどうかは分からない。
「では契約書を作成しましょう。上層部と連絡をとりながら、アルマさんの再起動を試みます。アクセスする際に多少のリスクが伴うことも、ご理解ください。――まずは簡易的な同意書にサインをいただきます」
テーブルに置かれた端末には、長々とした電子契約の画面が映し出される。そこには「軍事規格および機密保持」「全損リスクを顧客が許容する」など、物騒な文言が並んでいる。凛花が目を通すたびに顔をこわばらせ、若いスタッフは唖然(あぜん)として息を呑む。
「なんだよこれ……“全損リスク”って、もしアルマが壊れても文句は言うなっていうのか……」
「仕方ないわ。どのメーカーも軍事レベルのアコアに手を出すなら、そういう免責を取りたがる。……ああ、悔しい……!」
凛花が涙目になりながら書面をスクロールする。もしこの企業に委ねずにアルマが死んでしまえば、今までの努力が水泡に帰す。だが、預けてしまえば彼女を“道具”扱いされるかもしれない――恐ろしい葛藤が理久と凛花の胸を絞めつける。
「アルマは……こんな形で救われたがるのか……?」
理久は自問するが、答えは出ない。彼女はただ“生きたい”と強く願っていた。そして“誰かと一緒にいたい”と――。それを叶えるには、この企業の助力が不可欠なのか。
「……サインするしかない。アルマを失わないために」
理久が歯を食いしばって決断を口にする。凛花は唇を震わせながら、「分かった……私も一緒に」と頷き、端末上の電子署名欄に指を走らせる。連名で書くことになるが、コーディネートである凛花は本来アコア所有権を持てない。そこをどう処理するのかと疑問が湧くが、男は「一応、ご家族扱いという形で書いておけば問題ありません」と適当に流す。まるで法の抜け道に慣れているようだ。
サインが済むと、男たちは「では早速手術――いや、修理に取りかかります。ごゆっくり観察ブースでお待ちください」と頭を下げ、メディカルルームへ戻っていった。モニタ越しに見えるアルマの姿を見つめながら、理久と凛花はただ待つしかない。
#### * * *
ほどなくして、技術者らの手によってアルマの人工皮膚が部分的に剥(は)がされ、内部フレームがむき出しにされ始めた。頭部や胸部の装甲といえるパーツが外され、複雑に絡み合う基板やケーブルの束が露わになる。どこからか冷却ガスのような白い煙が漂い、ラボ全体がシンと張り詰めた空気に包まれた。
「大丈夫……大丈夫だよ、アルマ。痛みを感じているかもしれないけど、もう少しだけ……堪(こら)えてくれ……」
観察ブースからインターホン越しに呼びかけても、返事はない。彼女の意識は深い眠りの奥底に沈んでいるか、もしくは強制停止に近い状態になっているのだろう。凛花は涙をこぼしそうな面持ちで、小さく唇を噛(か)む。
「私だって工学を専攻してきたし、装甲外しや配線チェックくらいできるはずなのに……こんな状況じゃどうにもならない」
「俺も何か手伝いたい……けど、相手の連中が“素人は黙ってろ”という態度だからな」
理久が悔しげに呟くと、若いスタッフが「でも、彼らは本当に慣れているみたいですよ。あの手際の良さ、私たちじゃ追いつけないレベルです」とかすかな賞賛を漏らした。そうかもしれない――少なくとも技術はあるのだろう。
ラボ内のスクリーンに、次々とアルマの内部解析データが浮かび上がる。端末には「ハイエンド自律AI 制御システム:カスタムCore○○」「遺伝子コーディネート互換テスト領域?」「兵器級暗号鍵を検出」など、きな臭い単語が並び、作業員たちが小声で議論しているのが見える。
「兵器級暗号鍵を検出、か……やっぱり普通のアコアじゃない。軍事施設か国家プロジェクトで開発されたモデルだな、アルマは」
凛花が絶望的に嘆くと、理久は深くうなずく。そうでなければ、あの暴走警備ロボを制御できるわけがない。だからこそ、この企業も興味を持っているのだろう。彼女のコアを解析すれば莫大(ばくだい)な利益が転がり込むかもしれない。その事実を思うと胸が痛むが、同時に今はそんなことを言っている余裕はない。「彼らが上手く修理してくれる」その一点に賭けるしかないのだ。
やがて作業が本格化し、ロボットアームのようなものが滑らかに動いてアルマの中枢パネルを開いていく。蒸気のようなガスが噴出して視界を遮(さえぎ)るが、技術者たちは専用のゴーグルを装着し、端末を見ながら慎重にピンセットやプローブを差し込んでいる。
「……こわい……万が一爆発とか、アルマがそれを望んでるなんてこと、ないよね?」
若いスタッフが震える声で凛花に問う。凛花も表情を強張らせながら、「分からない。でも、アルマは確かに“生きたい”と願っていたはず。そこに嘘はなかったと思う」と言い聞かせるように答える。
(そう、アルマは人間以上に人間らしく――あの最期の瞬間まで“自分の意思”を貫こうとした。今だって、本当はこんな形で解析されるのを嫌がっているに違いない。しかし、それでも生き延びるために必要な行程……なのかもしれない)
理久はインターホンに向かい、強い声で技術者へ呼びかける。
「おい……あんたら、彼女のコアを“完全解析”とかするなよ。記憶や人格を消すんじゃない。ハードだけ直してくれればいいんだ!」
するとガラスの向こう側で一人の技術者が顔を上げ、インターホンへ向かって「ご安心を。人格領域の上書きなどは行いません。あくまで修復がメインです」と答える。しかし理久は内心信用していない。そもそも「人格領域」がどれほど複雑で微妙な領域なのか、素人には測り知れないのだ。
――こうして数十分が過ぎ、より細かな手術が進行する。アルマのフレームから取り外された黒い小さなパーツが何個か、机の上に並べられているのが見えた。どうやら焦げ付いた回路や冷却ユニットの破損部品らしい。代わりに新品パーツが準備されるが、それらは軍事系の同等品らしく、ロゴが擦り消されているのか、ブランド不明のものが多い。仮想市場や闇ルートで手に入れた代物の可能性もある。
「怪しいな……でも確かに手際はいい……」
凛花が唇を噛(か)みながら呟(つぶや)く。かつて施設で見てきた装備と比べても、同等以上の技量があるように感じられる。若いスタッフは小さな声で「本当にすごい会社なのかも……」と半ば感心しているようだ。
――さらに時間が経過し、技術者たちが「コードレイヤー3まで開放します」「暗号キーをリセット」といった専門用語を次々とやり取りしながら、ついにアルマのコアと思われる基部にアクセスしたようだ。モニタには複雑なマトリクスが描き出され、赤い警告が山ほど並んでいるが、それを一つずつクリアしているように見える。ラボ全体が静まっているのは、緊迫感がピークに達している証拠だ。
(頼む……アルマを、助けてくれ……頼むよ……)
理久は心の中で繰り返し祈る。凛花も何も言わずにガラス越しに手を合わせている。若いスタッフは「神さま……」と涙を浮かべて呟く。異様なほどドラマティックな手術――いや、修理。これが成功しなければアルマの意識は永遠に戻らないかもしれない。
そして――技術者の一人がホッと肩を落として笑みを作るのが見えた。傍のメンバーも互いに頷き合い、表情がほころぶ。まもなく、インターホンを介して「コア安定化に成功したようです。熱暴走は止まりました。人格領域は保たれています」と報告が流れ、理久と凛花、スタッフは思わず顔を見合わせて歓喜に近い息を吐く。
「よかった……! 本当に……! アルマ、生きられるんだ……!」
凛花が声を震わせ、若いスタッフも「ほんとですか!?」とガラスを叩きそうになる。そこへサングラスの男が、やや冷たい口調で割って入る。
「まだ安心するのは早いです。コアを安定化させただけで、再起動テストはこれから。内部ロジックに深刻なダメージがあれば、意識が戻らない可能性もある。……あくまで‘命の危険’は脱した、という段階ですね」
辛辣(しんらつ)な現実だが、それでも一歩前進だ。理久はうつむいてうわごとのように呟(つぶや)く。「生きてるんだ……よかった……本当に……」。追い詰められた末にこの企業へ頼るしかなかったが、少なくとも“死”の可能性からは脱した――安堵(あんど)で全身の力が抜けそうになる。
すると技術者たちは引き続き、アルマのコア蓋(ぶた)を慎重に閉じ、内部配線を元どおりに戻していく。交換用ユニットも次々と取り付けられ、最後に人工皮膚のリペア材を塗って応急処置を進めているようだ。まさに外科手術さながらの光景だが、彼女がどこまで元の“身体”を維持できるのかは分からない。軍事デバイスを入れ替えられれば、性能が変わるかもしれないし、それが彼女自身の“感情”にどう影響するか未知数だ。
「アルマは……ちゃんと目覚めるんですか? 記憶は、人格は、失われないんですね……?」
凛花が不安げに男へ問いかけると、男は書類を確認しながら「問題ない、と言いたいところですが、正直に言えば7~8割ですかね。最悪、部分的な記憶喪失があるかもしれません。高度AIでも衝撃や回路のダメージで人格エミュレーションが破壊されることは珍しくないので……」と淡々と述べる。
「そんな……!」
理久は絶句し、凛花の肩を掴(つか)む。アルマの記憶――とりわけ“前のマスター”との思い出を失うような事態になったら、彼女がどれほど苦しむか。あるいは逆に、苦しみから解放される? 分からないが、彼女自身が望んでいないことは確かだろう。
技術者たちが最終確認を始め、ラボ内のモニタには「Reboot Ready(再起動準備完了)」という表示が出る。暗かった部屋が一斉に明るくなり、わずかなファンの音が止む。どうやら要所の作業が終わった合図らしい。そして主任格の白衣が振り返り、「では、人格システムの再起動に移ります。いいですか?」とインターホン越しに呼びかける。
「お願いします……アルマを……頼む……!」
理久が声を絞り出すと、技術者は短く返事し、コンソールに両手を添えた。すると大型ディスプレイに無数のコードが走り始め、画面左上に緑色のバーが伸びる。「Boot 1%……5%……」と表示され、胸が詰まる思いが広がる。
凛花と若いスタッフは息を詰め、理久の背後にそっと寄り添う。サングラスの男やスーツの女性は、どこか興味深そうな様子でモニタを見守っている。まさに“実験サンプル”を観察するかのような態度だが、今はそれを突き詰める気力もない。
(頼む……アルマ、戻ってきて……)
バーが30%、50%と伸びていく。途中で何度か赤いエラーが出るが、技術者が即座に修復して再試行する。やがて90%を超え、最後の処理が行われ――ピピッという電子音が鳴り、モニタに「Boot Completed. Personality Online.」と表示された。
「あ……アルマ……!」
理久の視線がアルマの身体へ注がれる。まだ動きはない。技術者が傍にある操作パネルで何かを入力し、「はい、心拍センサー、体温制御復帰……あとは覚醒プログラムを起動します……」とつぶやく。その言葉と同時に、アルマの胸部パネルがわずかに上下して、人間の呼吸のような動きが戻ってきた。
「生きてる……!」
凛花が思わず涙を滲(にじ)ませて声を上げる。人工呼吸器に相当するユニットが再稼働したのだろう。あの静かな胸の上下こそ、まるで“人間の生命”が戻ったかのように見える。
それから数秒後――アルマの指先がピクリと動いた。頭部センサー周りには補助ケーブルが何本も繋がっているが、まぶたがゆっくりと開く。それまで生気を失っていた瞳に、淡い光が宿っていくのがはっきりと見えた。
「アルマ……!」
理久は思わず声を荒らげ、ガラスに手をつけて呼びかける。するとアルマが薄く瞬きし、焦点の合わない目で天井を見つめるように首を動かす。そして、技術者の一人が近づくと警戒するかのように瞳が揺れ、何かを認識しようとしているようだ。
「あ……」
かすかな声がラボ内に響く。確かにアルマの声だ。絶望の淵から這(は)い上がったような苦しさと戸惑いを孕(はら)んだ声が、部屋の空気を震わせる。技術者たちは即座にバイタルをチェックし、必要最低限の挨拶らしきものをかける。
「アルマさん、聞こえますか? あなたは‘○○テック’のラボで修理を受けています。身体はまだ動かさないでくださいね」
アルマは一瞬だけ眉を寄せるような表情をし、か細い呼吸がマイクに拾われる。彼女が喋ろうとしても声にならないのか、インターホンにはノイズが走るだけだ。しかし、確かに生きている――意識が戻っている。理久はそれだけでも嬉しさに胸が詰まる。
「アルマ……! こっちだ、理久だ! ここにいる!」
ガラス越しに必死で呼びかけるが、彼女の視線はまだ合わない。混乱しているのか、技術者が述べるには「視覚センサーをリセットしたばかりで焦点補正が追いついていない」とのことだ。とにかく時間が必要なのだろう。
インターホンが雑音交じりにブツッと途切れ、技術者たちは段取りを変えるべく「OK、とりあえず今日は回復ルームへ移そう。刺激が強すぎると再暴走のリスクがある」「人格データはまだ不安定だ」と打ち合わせしている。一方、サングラスの男もモニタを見つめながら何やらタブレットでメモをとり、時おりうなずいている。
(アルマが……本当に戻ってきたんだ……)
理久は震える腕でガラスを支え、深い安堵と、それに伴う新たな懸念を同時に感じていた。確かに彼女は復活の兆しを見せた。だが、このラボが“安全”だという保証はどこにもない。いつか彼女を“解放”することはできるのか――。
隣を見ると、凛花も手の甲で涙を拭いている。若いスタッフが「よかった……生きてる……!」と小声で喜びを噛みしめていた。薄暗い施設の地下で死ぬかと思っていた時を思えば、大きな前進に違いない。
やがて技術者のリーダーらしき人がブースまで来て、簡単な説明をしてくれる。「応急修理は成功です。あとは人格の再安定化を2、3日かけて行う必要があります。当社のリハビリルームで静養していただきますので、ご安心を」とのことだ。とはいえ“リハビリ”と言っても機械的なキャリブレーションやメモリ再構築を指すのだろう。
「理久さん、どうしましょう……しばらくここに滞在して、アルマの様子を見るしかなさそうですが……」
凛花が戸惑い気味に囁(ささや)く。若いスタッフも「私たち、帰る当てもありませんし、会社にも連絡を入れようにも……こんな状況で報告してもどうなるか」と気を揉(も)んでいる。
サングラスの男がそこに入り込み、すかさず提案をしてきた。「当ラボには簡易宿泊区画もあります。皆さん、よろしければ数日滞在してください。アルマさんの回復が進めば、状態を確認したうえで退院――もとい退所が可能になりますよ」
(さらに深い場所へ足を踏み入れてしまうことになる……でも、アルマを置いては帰れない)
理久はそれを承知で、「分かった……。数日だけなら、ここに泊まらせてもらう」と呟(つぶや)き、凛花たちも頷(うなず)く。こうして“○○テック”のラボでアルマが回復するまで過ごす形になるとは――誰が予想しただろうか。
#### * * *
それから半日ほどが経過した。理久たちは案内された宿泊区画で簡単なベッドとシャワーを使わせてもらい、一息ついている。凛花は疲れきって眠り込み、若いスタッフもマットレスの上で横になっている。消灯時間というわけでもないが、隣の部屋からは技術者らしき人の雑談やキーボード音がかすかに聞こえ、落ち着かない。
理久はシャワーを浴びたあと、廊下を散歩するように歩いた。警備員らしき社員が軽く見張っているようで、どこへ行くにも「そちらは立ち入り禁止です」「案内が必要です」と止められる。敷地内は迷路のように分かれており、どうやら地上階と地下階があるようだが、詳しい構造は教えてもらえない。
「まるで檻(おり)だな……」
呟(つぶや)きながらも、この企業が敵か味方か分からないまま、理久はただアルマのために黙るしかない。せめて彼女が意識を取り戻したら、少しでも安心できるのだが。
ふと、廊下を曲がった先にガラス越しのラボが見え、アルマが安置されているらしいベッドが視界に入った。技術者数名がモニタを監視し、緩やかな冷却システムが動いている。アルマは静かに寝息を立てるように胸を上下させているが、無数のケーブルに繋がれ、四肢のフレームにはまだ修理の跡が残っている。心なしか人工皮膚がリペア材で再生しかけている箇所があり、赤みがかった色合いが痛々しい。
「アルマ……」
理久はガラスに近づいて呼びかけるが、やはり返答はない。淡々と呼吸するだけの姿。だが、その表情は苦痛というよりは、どこか穏やかな眠りに近いものに見える――本当にそうならいいのだが。
後ろで誰かの足音がし、サングラスの男がやってきた。もはやサングラスは外しているが、その目は冷淡だ。彼は理久に気づいて声をかける。
「こんな時間に散歩ですか? あまり施設内をうろつかないでくださいね。監視カメラもありますし、不審行為とみなされると困ります」
「分かってる。でも、アルマがどうしてるか、気になるから……」
男は肩をすくめ、「状態は安定していますよ。先ほども“コアシミュレータ”の値が改善傾向でした。順調に行けば、明日か明後日には意識レベルを上げられるかもしれません」とあっさり教えてくれた。さりげなく“もし問題が起きれば延びる”とも言うが、そこは言及しない。
「……あんたらに感謝すべきなのかもしれないが、俺はまだ疑ってる。アルマを本当に無事にしてくれるのか」
理久の率直な言葉に、男は薄い笑みを浮かべる。「我々はビジネスで動いています。お客様を騙(だま)すメリットはないですよ。……ただし、もしアルマさんが“軍事機密”として追われる存在なら、今後の対応は難しくなるかもしれませんね。政府や他の勢力が動く可能性があります」
槙村や当局の介入、それに施設の事後処理――考えたくないことが山ほどあるが、現実から逃げるわけにもいかない。理久は「それでもアルマは渡さない。俺が守る」と短く言い切る。男はクスリと笑い、「ご自由に」とだけ応じて去っていった。
(冗談じゃない……アルマは“もの”じゃない。絶対に……俺が守るんだ)
心中で強く誓いながら、理久はガラス越しのアルマを見つめ続ける。その瞳が再び開き、彼女の声が届く日は、果たして来るのだろうか――長い夜になりそうだ。
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