第4話「地下研究区画の影」
長く続くコンクリートの階段を降りきった先で、足元の湿った空気が一層重くのしかかってきた。ややひんやりとした温度が肌にまとわりつき、耳を澄ませば、どこからか水滴が落ちる音がかすかに聞こえる。まるで廃墟と化した地下水路をさまよっているような感覚だが、ここはれっきとした「研究施設の地下区画」のはずだった。
「こりゃ想像以上に暗いな……くそ、予備電源すらろくに回ってないのか」
勝峰(かつみね)岳志が、懐中電灯の光を左右に振りながら吐き捨てる。後方には白衣を着た研究スタッフたちが十名ほど、顔面蒼白のままついてきている。全員が不安げに周囲を見回し、いつ何が起こるか分からない空気にのまれていた。
桜来(さくらい)凛花(りんか)はタブレットを握りしめ、施設の簡易マップを必死に確認する。が、既にネットワークが寸断されていて、詳細なデータが表示されることはない。キャッシュに残された概略図を見ても、この地下区画がどう枝分かれしているのかは不明瞭だ。
「研究用の区画はA、B、C……さらにその下のEとかFとか、複数あるみたいだけど……どれがどこへ繋がるのか、ここからじゃ分からないわね。施設の案内表示板があればいいんだけど」
凛花の呟きに、理久(りく)は足を止めてあたりを見回す。コンクリート壁には番号らしき小さなプレートが貼られているが、数字や英字が混じっていて一見しただけでは法則性が分からない。さほど大きくない階段室を抜けると、まっすぐ続く通路が二つに分かれていた。左と右。それぞれに扉が見えるが、どちらも閉じているようだ。
「……出口を探すにしても、地上へ戻る道はここじゃないかもしれない。けど地上階は火災で危険だし、少なくともこの階で情報を集めないと……」
勝峰が額の汗を拭いながらそう言った。同行する研究スタッフの一人が、震える声で口を挟む。
「じ、実はこの階には“実験装置”が置かれた区画があったはずなんです。普段は立ち入り許可がない人間は入れない場所で……私も詳しくは知らないんですが、企業機密に近い研究が行われてるって噂でした」
彼の言葉に、凛花や理久は顔を見合わせる。いったいどんな研究が行われていたのか想像もつかないが、“極秘プロジェクト”があるという話はあり得る。
「その区画の制御装置を使えば、上階のセキュリティをどうにかできるかもしれないな。実験モジュールや大型コンピュータがあるなら、ネットワークにアクセスできる見込みもある。……けど、怪しい装置が並んでたら、逆に危険かもしれんが」
勝峰が慎重に言葉を選びつつも、わずかな活路を見出そうとする。一同は同じ思いだろう。じっとしていては助からない以上、前へ進んで情報を得るしかない。
「とりあえず、そっちへ行ってみるか?」
理久がちらりと通路の左側を示すが、そこには鉄製の扉が見える。警報ランプもなく、まるで物置のような地味な外観だ。凛花のタブレットでマップと照合しようにも、詳細データが足りずにラベルすら表示されていない。
「うーん、当てずっぽうになるけど……確かこっちに行けば研究室があるっていう話を聞いたことがあるわ。保安制御室とかサーバールームはもっと別の区画になるかもしれないけど……ほかに手はないものね」
凛花は小声でそう言い、扉に近づく。中央付近に丸いドアノブがあるが、電子錠などは見当たらない。ひょっとすると昔ながらの物理的な施錠かもしれない。
「開くかな……?」
彼女がドアノブを回すと、ぎしりと嫌な軋み音を立てて扉が数センチだけ開いた。錆びついているのか、あるいは歪んでいるのか、隙間はわずか。そこへ勝峰が力を込めて引っ張ると、「ううっ……」と苦しげな息を漏らしながらも何とかこじ開けた。
「ふう……。おっ、意外と普通の部屋みたいだな」
懐中電灯の光が届く範囲を見渡すと、そこは中規模の備品置き場のようにも見えた。金属のラックが並び、カートや段ボール箱がいくつも積まれている。壁際には棚があり、整然と並んだ書類やファイルが薄っすらと埃をかぶっている。非常時の照明もここには届いていないようで、どこか放棄された倉庫じみた雰囲気だ。
「誰かが管理していたはずだけど……もうずいぶん更新されてないみたいね」
凛花が棚のファイルを一冊抜き取り、懐中電灯を当ててパラパラとめくる。だが、多くは技術的なデータに加え、巧妙に暗号化された箇所もあるようで、にわかに読み取れる代物ではないらしい。
「ここにいても仕方ないか。ほかに出口か通路があればいいけど……」
勝峰が部屋の奥を覗き込むが、壁になっていて抜け道は見当たらない。何かがモーター音を発する様子もなく、ただひんやりとした空気が漂っているだけだ。研究スタッフたちは不安を隠せないまま、明らかに気持ちが沈んでいる。
そんな中、アルマだけが静かに室内を見回していた。高峯理久の腕を一応借りながらも、先ほどよりは自立して歩いている。表情には相変わらず不安や迷いが浮かんでいるが、彼女なりに何かを探すように視線を巡らせているようだった。
「アルマ……何か分かったか?」
理久が話しかけると、アルマはそっと首をかしげる。まばたきをして、ラックに目を留めた。そこには白いラベルが貼られた大きめの箱が積まれている。ラベルには「旧型プロトコル・バックアップ装置」「端末接続ケーブル」などと雑多な文字が並んでいる。
「もしかして、ここには古いタイプの端末があるのかも? 今のネットワークが使えなくても、昔のローカル回線で繋がる装置なら……」
凛花が直感的にそう呟き、箱の中を探り始める。すると意外にもそれらしいケーブルやモジュールがいくつも詰まっていて、「企業秘密」と書かれた封印ステッカーまで見つかった。
「この研究施設、結構長い歴史があるのかもしれないわね。古い技術の機材も捨てずに保管してるとなると、過去のプロジェクトを引き継いでる可能性が高い……」
語尾がやや興奮気味になる凛花。それを見て、勝峰は「収集家みたいに目が輝いてるな……」と苦笑する。彼女が工学専攻であることを考えれば、こうした機材は興味の対象になるのだろう。
研究スタッフの一人も、棚のファイルを覗き込みながら言う。
「古いシステムに、今も使えるログイン情報が残っているかもしれない。そういえば昔、ここの研究リーダーが『この倉庫は小さな宝の山だ』なんて冗談めかして言ってました。まさか本当に何か役に立つものがあるとは……」
やがて凛花はケーブルの束と、古びた外付け端末のような装置を抱え、足早に戻ってくる。その表情にはわずかな手応えが浮かんでいた。
「これがあれば、アルマを通じて施設内の“旧型回線”にアクセスできるかもしれない。最新型のネットワークは死んでても、昔の回線が生きてる可能性はあるわ」
理久はそれを聞いて首を傾げる。「そんなうまくいくかな? 建物のどこかが壊れてるかもしれないし……」
「やってみないと分からないけど、試す価値はあるでしょ。少なくとも地下のどこかに旧式の配線ルームがあるはず。最近のハイエンドアコアは、柔軟なインターフェイスを持ってるから、変換さえすれば行けると思うわ」
凛花の視線がアルマに向けられる。彼女は気配を察したように、また少しだけ身を硬くした。相変わらず理久たちを“心から”受け入れる段階には至っていないようだが、先ほど扉のロックを解きかけたように、状況次第では動いてくれるかもしれない。
「そうだな……アルマがアクセスしてくれれば、この閉鎖された施設をどうにかコントロールできる可能性がある。そうなりゃ非常口も開けられるかもしれん」
勝峰が頷き、スタッフたちも期待の色を見せはじめる。さっきまで沈鬱な空気に包まれていたが、一つでも突破口が見えると、気力がわいてくるようだ。
「じゃあ、ここでぐずぐずしてないで、旧式配線の部屋を探しに行きましょう。どこにあるか分からないけど……通路を奥へ進めば何か見つかるかもしれない」
凛花がそう言い切って、ケーブル類を手際よくリュックに詰めはじめる。研究スタッフのうち数名が手伝い、他の備品が役に立ちそうかどうかを確認している。もっとも急場しのぎの行動で、ひょっとすると全くの無駄骨に終わるかもしれないが、他に手はない。
アルマはまた黙りこんだまま、わずかに表情を曇らせている。理久はその気持ちを察するように、一歩近づいて声をかけた。
「アルマ、またちょっとだけ……協力してくれないか。ここを出て、君が自由になるためにも、大事なことなんだ。……頼む」
自分でも、こんなふうにアコアに頭を下げるなんて想像もしなかった。しかし、理久の瞳は真剣だ。アルマはしばし無言のまま理久を見つめ、そのあと僅かに呼吸のような動きをしながら小さくうなずいた。
「……ボクも……ここは嫌、です。狭くて暗いのは……」
意外なほど正直な返事だった。ただ前のマスターを失い、心を乱されているだけの少女ではない。暗闇や孤独というものを“怖い”と感じる感覚が、彼女の思考回路に息づいているのだ。理久はそれを見て胸が苦しくなるが、ひとまず「ありがとう」とだけ返しておく。
***
再び備品置き場を出て、通路を右側へと戻る。すると、先ほどは気づかなかったが奥に続く細い分岐路があるのが分かった。そこには「Zone E-1」と書かれたサインが朽ちかけた姿で掲示されている。
「E-1……E区画の端っこってことか。行ってみよう」
勝峰の合図で一行が進み始める。すると、通路の向こうに金属製の柵のようなものが見えた。簡易バリケードのような形状だが、すでに破損して倒れかかっている。周囲にはこまごまとしたコンテナや廃棄物らしき箱が散乱し、一種の“通せんぼ”状態になっていた。
「この先は立ち入り禁止だったのかもな……。でも、もう崩れてるみたいだし、通れるなら入るしかない」
勝峰や理久、他のスタッフが力を合わせてバリケードをどかし、ようやく通り抜けられる幅を確保する。アルマも端でじっとそれを見つめていたが、何かに気づいたように足元の小さな金属片を拾い上げていた。
「……これ、あちこちの部品に似てる。施設のドアとか、警備ロボのパーツの一部かも……」
とても小さな破片だが、形状に特徴がある。凛花がそれを受け取り、懐中電灯で照らすと、「なるほど、これはセキュリティドローンのフレームの一部ね。誰かがここを無理やりこじ開けたのか、あるいは暴走したドローンと衝突したのか……」と推測する。
(何かに壊された? それとも勝手に壊れた?)
理久は嫌な予感を覚えながらも、先頭をいく勝峰に続いた。バリケードを越えた先には、さらに暗い通路が斜めに折れ曲がっていて、一種の迷路じみた風情を醸し出している。壁にはパイプが張り巡らされ、水がポタポタと滴る音が不気味に響く。まるで地下水道だ。
しばらく進むと、地面に転がる何かを踏みつけてしまい、スタッフの一人が悲鳴をあげる。「なんだこれ……!」と慌ててライトを向けると、それはやはりドローンの残骸だった。カメラアイが砕かれ、制御ユニットの基盤がむき出しになっている。
「うわ……こんなのが地下に放置されてるのか?」
勝峰が眉をひそめる。ドローンは警備用だろうか、それとも荷物運搬用か。いずれにしても壊され方が尋常ではない。金属フレームがねじ曲がり、内部ワイヤが引きちぎられている。人間が素手でやったとは思えない破損具合だ。
「これは……何かに襲われたか、あるいは他のロボットとぶつかったとか? だけど施設にはそんな“バトルマシン”みたいなのは配備してないはずよ」
凛花が苦い顔でつぶやく。真相はわからないが、ここで不自然な衝突や破壊が起きていることは間違いないだろう。
行く手に嫌な雰囲気が漂う。研究スタッフたちは口々に「戻ったほうがいいんじゃ……」と怯えだすが、それでも引き返せば火災か封鎖に飲み込まれる可能性がある。前に進むか、後ろに戻るか──どちらも危険だが、まだ前に何かの“手がかり”があるかもしれない。
「行こう。急いで抜けて、もし何も見つからなければ別のルートを探せばいい」
勝峰の一声で踏み出すと、そこからわずかに開けた空間に出た。鉄骨の骨組みがむき出しになった天井。広さは倉庫ほどではないが、十数人が入っても窮屈ではない程度のスペースがある。
部屋の中央には長机のようなものが並び、そこに複数のモニターらしき機器が置かれていたが、いずれも電源が落ちているようだ。周囲のコンクリート壁にはケーブルが這い、扉の向こうに続いている。
「たぶんこれが旧式の制御卓だな。何のために使っていたか分からんが……」
勝峰が懐中電灯で照らすと、パネルの一部はひび割れ、あるいは焦げたような跡がある。まるで何度か火花を散らした形跡を残しているようだ。
凛花は自分が拾ったケーブルを取り出し、机の下に潜り込む。
「ちょっと、私が見てみる。どこかにアクセスジャックがあれば、アルマをつなげるかもしれないし……。みんな、もう少し周囲を見回して!」
スタッフたちは頷きながら、部屋の奥や壁際を調べる。万が一、危険物が隠れていたり、故障しかかった機材が爆発したりする恐れもあるからだ。アルマは理久のそばでじっとしているが、相変わらず不安そうに視線を彷徨わせていた。
「アルマ、大丈夫か? 疲れたら言ってくれよ」
理久が声をかけると、アルマはか細い声で「……怖い、です」と答える。
「何が?」
「分かりません。でも、ここには……嫌な気配がする。ボク、あまりこういう場所は……」
幼い少女の姿をしたアコアが“嫌な気配”などという曖昧な表現をするのは奇妙だが、理久自身も同感だった。ドローンの残骸、暗く湿った通路、放置されたモニター群……何かが起きている。それは火災や停電だけが原因とは思えない、不穏な空気を感じさせるのだ。
「やっぱり爆発事故じゃなく、何か別の騒ぎが……いや、考えても仕方ないか」
声に出さず、理久は思考を打ち切る。とにかく今は、生き延びるための手段を探すことが先決だ。
すると、机の下に潜っていた凛花が「あった!」と声をあげる。彼女が這い出してきて、古びたターミナルボックスを抱えている。パネルに古い企業ロゴがうっすら残っており、端子部分に埃がこびりついていた。
「このターミナル、まだ使えそうな感じ。電源が通ればだけど……」
凛花が手慣れた動きでケーブルを取り付け、勝峰が懐中電灯でコンセントらしきものを照らす。が、この部屋自体も非常電源が届いていないのか、壁際の電源ボックスは反応しない。
「うーん、やっぱりダメか……。上から来てるはずのケーブルが断線してるかもしれないな」
落胆の声が漏れたとき、急にアルマが机のほうへ一歩近づいた。恐る恐るといった様子でパネルに触れる。その指先にかすかに青白い光が灯り、何かにアクセスしようとしているようだ。
「アルマ……?」
理久が問いかけると、彼女は目を伏せたまま唇を動かす。
「ここ……どこかで微弱な電源が生きてるかもしれない。警備ドアや監視システム用のバックアップ……。ボク、そこにアクセスできるか、試してみます……」
先ほども扉のロックを少しだけ開けた実績がある。まさにハイエンドアコアならではの自律的なハッキング能力だ。とはいえ今のアルマは万全ではなく、前のマスターを失ったショックもある。うまくいくとは限らないが、誰もが彼女に期待を向けるほかない。
「頼む……アルマ。俺たちも手伝うから」
理久が端末を取り出し、所有者認証を発動させる。アルマはそれを受けて、ゆっくりと意識を集中するように両手をモニター裏の配線に当てる。高性能アコアには無線通信だけでなく、こうした有線経由の解析機能が備わっていることが多い。
しんと静まり返った部屋の中。スタッフたちが息を呑んでアルマを見守る。
「ボクの……新しいマスター、は……」
ポツリとアルマが漏らした言葉に、理久は戸惑う。彼女はまだ理久を“マスター”と認めてはいない。だが、システム上は理久が所有者に登録されている。その矛盾に、アルマ自身も苦しんでいるのだろう。
「……いまはそれでいい。君が望むなら、いずれ自由になってもいいんだ。とにかく今は、俺たちと一緒に乗り切ってくれ」
自分でもどこか歯がゆい思いを抱えながら、理久はそう呟く。アルマは小さくまばたきし、再び静かに集中を深める。すると、かすかな電流音のようなものが空気を揺らし、ターミナルのランプがちらっと点滅した。
「こ、これは……? 電源が部分的に……」
凛花が目を凝らすと、古びたモニターの一つに文字化けしたようなラインが浮かび上がり、やがて断片的に動作を始める。おそらくこの区画か、その先のどこかにある非常用ラインを拾ったのだろう。まるで瀕死の機械が一瞬だけ息を吹き返したかのようだ。
「アルマが導通させてる……? いや、正確には制御系へアクセスしてるのか? すごいわね、この子……」
興奮気味に凛花が注視する。アルマは苦しげに眉を寄せているが、その指先からは微弱な光が漏れ続けている。
「パスワード……古いけど……途中まで一致……。ただし、メインの電源が切れてる……」
アルマが途切れ途切れに言葉を出し、どこか遠くを見ているような焦点の合わない瞳を揺らす。高度な演算をしているのか、意識が半分サイバースペースに飛んでいるような状態だ。
「がんばれ、アルマ……!」
理久が思わず声を張り上げる。ここで繋がれば、大きな突破口が開けるかもしれない。冷や汗を流しながら待つ数十秒がやけに長く感じられる。勝峰もスタッフたちも固唾を呑んでいる。
やがて、モニターにごく簡素な文字列が表示された。
──Authorized… Guest… Satellite… Offline…
誰もが「何だ?」と首をかしげるが、すぐに画面はバチッと音を立てて消えた。同時にアルマがふらりと身体のバランスを崩し、理久は慌てて支える。彼女の瞳は大きく見開かれていた。
「アルマ、大丈夫か!?」
「……ボク……見たの……。大きなサーバーが……死んでる。でも……まだどこかに……別のアクセスルートが……」
言い終える前にアルマは意識を落としかけ、理久の腕の中で小さくうずくまる。負荷が大きすぎるのか、それとも心のダメージが影響しているのか。
「くそ、やっぱり電源が断続的だ。アルマがどれだけ頑張っても、メインが動かなきゃアクセスできないみたいだな」
勝峰が歯噛みする。モニターの一瞬の表示から推測するに、何らかの制御システムに“準ゲスト”として侵入しかけたが、そこで途切れたらしい。もしかすると、地下に大規模なサーバールームがあったのかもしれない。
「ここは……旧型の端末しかなくて、電源もボロボロ。もう少し奥へ行けば、サーバールームや研究中枢に繋がるかもしれないわ。アルマの話から察するに、“別のアクセスルート”がどこかにあるんだと思う」
凛花が息を切らしつつ、落ち込む様子を振り払うように声を張る。今この場ではどうしようもなくても、先へ進めばあるいは。そうしなければ意味がない。
アルマは自力で立ち上がろうとして、ふらりとよろめいた。理久が慌てて抱きとめる。彼女の外見は軽そうだが、全身を人工皮膚やフレームが支えている分、人間の幼子とは違う重量感もある。それを支えながら、理久は苦い思いを抱えたまま呟く。
「この子の負荷をこれ以上増やすのは危険だ……。でも、アルマがいないと、先に進んでも何もできないかもしれない。どうすりゃいいんだ……」
勝峰や凛花も答えを出せずにいる。研究スタッフたちの中には「もう諦めて戻ろう」と言い出す者まで現れ、場の空気が混沌としはじめる。地上は炎上し、上階も封鎖の可能性が高い。一方で、地下は未知の研究区画が待ち受けているうえ、下手をすればさらなる障害があるかもしれない。
思考が行き詰まりそうになったとき、通路のほうで金属が擦れるような音がした。ぎ、ぎ……。それは人の足音ではない、機械的なきしみ音に思える。全員が一斉に懐中電灯をそちらへ向けた。
「誰かいるのか?」
勝峰が警戒心を込めて声をかける。しかし返事はない。代わりにコツ、コツ、という硬質な反響音が静かに近づいてくる。嫌な汗が背筋に伝い、理久は思わずアルマを後ろへかばうように身を寄せる。凛花はケーブルを放り出してポケットから小型のドライバーを掴む。咄嗟の護身用だ。
やがて、暗い通路のカーブから姿を現したのは……背の高い人型の影。いや、シルエットは人間に近いが、明らかに金属パーツの光沢を伴っている。片腕に黒光りする銃のようなアタッチメントを装備しているのが見えた。警備ロボか、それとも別の軍事用モデルか。
「っ……まずい、隠れろ!」
勝峰の低い叫び声と同時に、スタッフたちが悲鳴を押し殺すようにしゃがみこむ。理久もアルマを背後に隠し、凛花と視線を交わした。今まさに、予測していた最悪の存在と遭遇している可能性が高い。
そのロボットは焦げ茶色に塗装された外装を身にまとい、頭部にはバイザー状のセンサーが埋め込まれている。ゆっくりとこちらに向かって歩を進め、やがて止まった。そして、機械仕掛けの喉から低く振動する声が漏れた。
「……警告。立ち入り禁止区域。退出せよ。さもなくば排除を……実行……」
無機質な声。どうやら施設の警備ロボか、それに近いタイプらしい。ただし通常の警備ロボはゴム弾やスタンガンなど制圧手段だけを搭載している場合が多い。今ここで見る限り、その銃火器らしきアタッチメントはもっと殺傷能力が高そうだ。何者かが違法改造している可能性さえある。
(こんなやつに見つかったらひとたまりもないぞ……!)
理久の脳裏に、幼少期のAI事件がフラッシュバックする。制御不能のロボットやアコアが引き起こした惨状。嫌な汗がにじみ、体が硬直しかける。
「まずい、隠れても逃げ場がない。どうする……?」
勝峰が唇を噛む。凛花はじっとそのロボの動きを観察しているが、相手にはこちらの存在がすでに認識されている気配がある。完全に不意打ちを狙うことは難しいだろう。
「待って、こいつ……たぶん火災や爆発の影響で動作が乱れてるんじゃないかしら。通常の警備ロボなら、こんな地下まで来る必要はないはず。あちこちが誤作動してるんじゃ……」
凛花が推測するが、誤作動していようが容赦なくこちらを攻撃してくる可能性が高い。どうやって通り抜けるか、あるいは無力化するか。いずれにせよ覚悟が要る。
と、そのとき、アルマが小さく動いた。理久の背後から覗き込むようにして、そのロボットを見つめる。相変わらず震える瞳をしているが、どこか不思議な決意の色が宿っているようにも見えた。
「……アルマ、ダメだ。危ないぞ!」
理久が抑えようとするが、アルマはふらつきながら立ち上がり、半歩だけ前へ進む。そして弱々しい声で、ロボットに呼びかけた。
「待って……。攻撃しないで……。ボクたち、研究スタッフ、です……。ここは……安全区画じゃない……?」
混乱の極みにあるこの施設では、正規のIDを示しても通用しないかもしれない。しかし、アルマの通信機能や認識システムが何か奇跡を起こしてくれる可能性がある。さっき扉を部分解除したように、警備ロボの管理プロトコルへアクセスできるかもしれない。
「排除する……排除する……」
ロボットが濁った音声を繰り返し、銃口らしきアタッチメントをゆっくりと上向きに構え始める。誰もが息を呑む。凛花や勝峰が隙を見て背後から抑え込むにしても、下手をすれば銃撃される危険がある。
アルマは、先ほど端末へアクセスしたときのように指先から淡い光を漏らし始めた。だが、その動作は不安定で、いつ止まってしまうか分からないほどふらついている。理久は胸を突き上げる恐怖を押し殺しながら、声を張り上げた。
「アルマ、やめろ! 無理するな! お前が傷ついたら……!」
「……ボクは、マスターを……失いたくない……」
震える声でそう言い放ち、アルマが一瞬だけ理久を振り返る。その表情には、かすかに混乱と、しかしどこか決意のようなものが見え隠れしていた。彼女自身、“前のマスター”を取り戻すことはできない。それでも、目の前にいる人々まで失いたくないと思っているのだろうか。
ロボットの銃口がバチバチと放電する。スタンガンも内蔵されているのか、危険な閃光が散っている。次の瞬間、アルマの指先から微かな電流がロボットへ伸びた。おそらく短距離の近接通信か、あるいは緊急ハッキングの一種だ。
「え……?」
勝峰や凛花が息を呑む間もなく、ロボットが大きく痙攣するようにガクガクと振動しはじめる。銃口がわずかに反れ、火花が散った。その弧光が床を焦がすが、辛うじて人間には当たらない。
「……排除……プログラム……エラー……」
機械のうめき声めいた音が低くこだまする。アルマが必死にアクセスを試みているのだ。機体を制御しようとするロボットのプロトコルと、アルマの緊急ハッキングが衝突しているのだろう。そこには壮絶な葛藤があるに違いないが、周囲には彼女を助ける術がない。
「あと少し……!」
凛花が叫んだ。そのとき、ロボットのセンサーが鋭く赤く点灯した。照準がアルマへ向き直る。制御が破綻しそうな勢いで、かえって暴発が起きる可能性が高い。
理久は咄嗟にアルマを抱き寄せようと駆け出す。だが、間に合うかどうか。ロボットの銃口がじりじりとこちらを狙い、金属が擦れる嫌な音がした――。
その瞬間、アルマの瞳がふっと強い光を放ち、「やめて……!」と高い声を張り上げる。衝撃波のような電子干渉がロボットに伝わり、センサーが盛大にスパークを起こした。バチンという破裂音がして、ロボットの頭部が一瞬真っ白に光る。
「……排除……できない……強制……終了……」
うわごとのように呟いたあと、ロボットは硬直し、重々しい金属音を立てて後ろへ倒れ込んだ。ドサンという衝撃に床がわずかに揺れ、銃口からの火花も止まる。どうやら完全に沈黙したようだ。
「はあ、はあ……!」
息を切らしているのは理久だけではない。凛花や勝峰、そして研究スタッフたちも恐怖から解放されたのか、その場で膝をつきそうになっている。アルマ自身も小さくよろめき、理久が受け止めるようにして抱きとめた。
「アルマ……大丈夫か!?」
「……ボク……こわい……でも……もう、人を傷つけたくない……」
そう呟くアルマの目から、大粒の涙のような潤いがこぼれ落ちた。人工皮膚を伝うその“液体”はどこから生成されたのか分からないが、紛れもなく人間の悲しみのような感情を象徴していた。
(こんな小さなアコアが、必死に自分の能力を使って……)
理久は一瞬息が詰まる。幼いころの惨劇で感じた「アコアは信用できない」という固定観念が、少しずつ薄れつつあるのを自覚した。少なくとも、いま目の前で必死に人間を守ろうとしたアルマは、決して“人間を破壊する機械”ではない。むしろ、誰よりも傷つきやすい心を持った存在に見えてしまう。
「助かった……。アルマがいなかったら、今ごろ俺たちはどうなってたか……」
勝峰が呆然とした口調で言うと、スタッフたちが一斉に「ありがとう」「助かったよ」と口々に声をかける。アルマはそれに答える余裕すらないようで、理久の腕の中で弱々しくまぶたを閉じていた。
「この先、まだこういうロボットがいるかもしれないわ。早くサーバールームなり、制御室を探さないと……」
凛花が警戒しながら辺りを見回す。火災や爆発だけではなく、どうやら施設の警備機構そのものも暴走状態にある可能性が高い。ここは一刻も早く“中枢”を掌握して事態を収束させるしかない。
「アルマはもう限界かもな……。でも、頼らないとここから出られない。まったく厄介な話だ」
勝峰が唇を歪めつつそう言う。理久も同意見だ。アルマ自身は傷つきながらも、“心を持つ機械”としてなんとか人間に手を貸そうとしている。彼女の身体も精神も、限界まで追い詰められているはずだ。
(だけど、俺たちも限界だ。……守ってやりたいが、どうすればいい?)
理久が焦燥を抱えながらアルマを支え、凛花と視線を交わす。雑然とした制御卓の部屋には、さきほどの死闘の余韻が漂っている。ロボットの残骸からは時折火花が散り、そのたびに皆がびくりと身をすくめる。
「進むしかない……。アルマが少しでも落ち着いたら、またアクセスを試みてもらうしかないわ。早くこの地獄を終わらせましょう」
凛花が決意をにじませる瞳で言い、勝峰も力強くうなずいた。研究スタッフたちも逃げ腰になりながらも、他に道がない以上は一団となって行動を続けざるを得ない。
とそのとき、アルマが理久のシャツをぎゅっと掴んだ。震える声で「マスター……」と呟く。いつもなら否定するはずなのに、今回は抗わない。理久は思わずその小さな頭をそっと撫でる。アコアに対して、こんな仕草を自分がするなんて想像もしていなかった。
「大丈夫だ……。必ず、生き延びよう。俺も、お前を見捨てたりはしない」
言葉を口にしてから、理久は自分の変化に戸惑う。しかし、もう逃げようがない。トラウマを振り切るように、彼はアルマを抱き起こして立ち上がった。
「ここを出て、次の区画を探そう。どこかに絶対、制御を奪還できる場所がある。アルマ……頼むが、もう少しだけ力を貸してくれ」
アルマの表情は茫然としていたが、その瞳は先ほどよりも幾分澄んでいる気がした。ぎこちなくうなずいて小さな声を絞り出す。
「……ボクが、みんなを……守る……」
幼子の姿をしたアコアが放つ決意。それがどういう結末をもたらすのか、今は誰にも分からない。だが、この地下のどこかに隠されたサーバーや制御モジュールこそが、唯一の突破口であることは確かだ。
こうして理久たちは、壊れた警備ロボを背にして、さらに奥へ進むことを決断する。深く暗い研究区画。その果てには、いったい何が待っているのか――。
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