後編 砂漠の王と氷姫

 シヴェラに拒否権はなく、あっという間に出立の日はやってきた。


 持ち物は予定通りに完成させた婚礼衣装のみだ。故郷を離れるのだから気心の知れた侍女を連れてくるように、と気遣いがあったが、ついて来る侍女がいるはずもなく、シヴェラは一人で向かった。


 礼儀として最低限の身なりだけは整えるべきなのに、国王もアルカレアもシヴェラに金をかけるのを渋り、結局寸足らずのドレスのままだ。ただし毛皮のコートだけは丈のあった物を渡された。アルカレアのお下がりではあるけれど。


 トナカイの引くソリで国境を越え、雪のない地域に出ればその後は馬車で向かう。冬でも凍らない地面をシヴェラは初めて目にした。


 ズハラの国境には迎えが来ていた。申し訳程度につけられたトヴァルカ側の護衛たちは、せいせいしたとばかりにシヴェラを引き渡した。


 ズハラ側の護衛はシヴェラが侍女も連れずにいることに戸惑いを見せたが、身の回りのことは自分でできるとシヴェラが告げると、ほっとしたように馬車を進めた。


 拡大したズハラの国土は広大で、砂漠に着くまでに何日も馬車で移動した。護衛たちは長旅に恐縮していたが、宿で眠れるのだから文句はない。引き渡されるまでは野宿だった。


 やがて砂漠に出ると、ラクダの上に乗せられた輿こしに乗り換えた。


 目の前に広がる一面の砂の海に、シヴェラは言葉を失った。色の違う雪原のようでも、時を止めた海原のようにも見える。


 命の影がないところも雪原にそっくりだったが、気温が違いすぎた。コートはとっくに脱ぎ去り、ズハラが用意してくれた薄手のゆったりとした服装に着替えていた。ヴェールも取るよう言われたが、シヴェラは拒んだ。まだアルカレアでないとバレてはいけない。


 そこからの道のりも随分と長く、いくつかのオアシスを経由して、やっとシヴェラは王宮へと到着した。


 謁見の前に身なりを整えるようにと通された自室は、重厚な石壁に囲まれたトヴァルカとは違い、四方の壁がなく開放的な空間だった。部屋、と呼んでいいのかもわからない。


 砂漠の中にあるというのに、部屋の外には噴水のある庭園があり、厚みのある葉を持つ見慣れない植物が植えられていた。


 部屋の中の調度品のデザインはトヴァルカでは見ない物だが、質がいいのは見て取れた。飾りに宝石や金がふんだんに使われている。寝台は特に豪華で、天蓋てんがいからは細かく刺繍が刺された薄いしゃが吊られていた。


 アルカレアはシヴェラは十四番目の妻だと言っていた。それなのにこの待遇だ。ズハラの国力が凄まじいことがうかがえる。トヴァルカのアルカレアの部屋よりもよほど豪華だった。


 侍女が三人あてがわれ、シヴェラは服を着替えた。これまでよりもさらに薄い生地で作られており、露出が多かった。羞恥しゅうち心はあったが、侍女たちも似たような服装だったので、豪に入れば郷に従えとばかりに受け入れた。


 髪とメイクも直したいと言われたが、シヴェラはヴェールを外すのを拒んだ。せめてズハラ風の目元から下を覆う物に変えさせて欲しいと言われたが、それも拒んだ。隠したいのは鼻と口ではなく、髪と目なのだ。ズハラの服装にトヴァルカのヴェールではチグハグにもほどがあったが、シヴェラもこれは譲れなかった。


「わかりました。では装飾品だけでも――」

「駄目っ」


 シヴェラの首から、するっとネックレスが外れた。思わず胸に押さえつける。この三年、一度も外したことのなかったそれは、他人の手であっけなく外れた。


 だというのに、シヴェラの体に変化はなかった。てっきり魔力が暴走すると思っていた。だが、ネックレスをつけさせられる前も、別に暴走したわけではないのだ。


「ズハラでは金の装飾をするのが一般的で、銀は太陽神の弟である夜神に通じ、仕える巫女にしか許されない装飾なのです。ですから、これをつけてザフラーン陛下の御前に出ることは叶いません」

「そう、なのね……」


 シヴェラはネックレスから手を離したが、やはりなんともなかった。


 髪の色が赤でないことのみならず、この分では銀であることも咎められそうだ、と静かにため息をつく。


 空いたデコルテに金の首飾りをつけ、耳飾りと腕輪、そして足輪もつけた。足輪には鈴がついており、シヴェラがサンダルの足を進めるたびにシャランと涼やかな音を立てる。


 王の呼び出しがあるまでお休みくださいと告げ、侍女たちは退出していった。床に敷き詰められているクッションに座る気にはなれず、寝台に腰を下ろす。


 開放的な空間ではあるが、だからこそと言うか、じっとしていても汗ばむほどの暑さだった。出立してから随分経つが、トヴァルカはまだ寒さが厳しいだろう。夏でもここまでの気温になることは滅多にない。一人でこんなにも贅沢に暑さを享受していいのだろうか。国民に申し訳ない気持ちになる。


 これから謁見するザフラーン王は、シヴェラがトヴァルカの血筋であることを信じてくれるだろうか。


 アルカレアは、ズハラとは王女と婚姻をとしか告げていないからシヴェラでも問題ない、と言っていたが、シヴェラの存在は国外にはおおやけにされていないし、トヴァルカの王族であるならば必然的に赤髪赤目の炎の魔力持ちだと思っているだろう。銀髪灰目のシヴェラが正真正銘の王族だと言い張ったところで、虚言をしていると断じられてもおかしくはない。


 だが、やるしかないのだ。


 身代わりが発覚し、その結果殺されることになろうとも、首を落とされる前に、トヴァルカを攻め滅ぼさないよう直訴だけはしなくては。


 シヴェラは緊張で震える手で、強張こわばった顔を覆った。


 と、その耳に、悲鳴が飛び込んできた。部屋の外からだ。複数の女性が何かを叫んでいる。


 シヴェラは思わずそちらの方へと走り寄った。速口すぎて何と言っているのかわからない。ズハラとトヴァルカは同じ大陸言語を使うが、互いになまりがあり、ゆっくり話してもらわないと聞き取るのが難しかった。


 ただ、助けを求めているのだけはわかる。


 待機するよう言われているのだから部屋を出てよいわけはないのだが、シヴェラは吸い寄せられるように庭園へと降りていた。


 芝生の上に少年が倒れている。年の頃は七、八歳といったところか。その周りには侍女と思われる女性たちがいて、口々に何かを叫んでいた。だが、動転しているのか、少年を助け起こそうとも、誰かを呼びに行こうともしていない。


「何があったの!?」


 駆け寄ったシヴェラは、少年の脇へとひざまずいた。


 少年は真っ赤な顔をして、ぐったりとしている。体中から汗が噴き出していて、荒い息をしていた。


「熱っ」


 少年の額に手を乗せたシヴェラは、反射で手を引っ込めた。手の平を見るとうっすらと赤くなっている。火傷をしそうな程に熱かった。


 人がこんなに熱を持つことなんてあるの!?


「水を! 入れ物がないなら布を濡らすだけでもいいから! あと誰か対処できる人を呼んできて!」


 うろたえる侍女たちを叱咤すると、ぎこちないながらも彼女たちは動き始めた。できれば氷が欲しいところだが、砂漠の国ズハラでそれは望めまい。


 いっそ近くの噴水に少年を沈めたほうが早いのではないか、と思い至ったシヴェラは、少年の背中と膝下に腕を入れた。


「熱っ」


 ジュッと音がしそうなほどに熱い。少年が息をしているのが不思議なくらいだ。一刻を争うだろう。シヴェラは少年をぐっと持ち上げ、抱きかかえた。


 早く、冷やさないと。


 そう思った瞬間――。


 シヴェラの胸から細く青白い光の線が空に向かって打ち上がった。


「えっ!?」


 そして、見上げたシヴェラの上に、ドサッと白い物が落ちてきた。


「うぇっ、うっぷ、な、何、雪!?」


 肩口で顔をぬぐって、落ちてきたものの正体を知る。抱えていたはずの少年は、こんもりとした雪山に姿を変えていた。


「え、ちょっと、大丈夫!?」


 顔の雪をよけないと窒息してしまう。地面に下ろそうにも、雪で濡れていてはばかられた。――が、躊躇している場合ではない。


 シヴェラが仕方なく少年を地に横たえようとした時。


「何をしている!」


 腕の中の少年が奪われた。


 少年を奪ったのは、褐色の肌を持つ体格のよい男だった。ゆったりとしたズハラの服をさらにくつろげていて、目のやり場に困る。黒いウェーブの髪は背に流されるままになっていて、それがまた男のだらしなさを助長していた。


「冷たい!? なんだこの粉は。溶けて……氷なのか……?」


 少年の上の雪をほろった男は驚愕きょうがくの声を上げていた。


 男――そう、男だ。シヴェラが通されたのは後宮のはず。子供である少年はともかく、成人男性であるこの男がここにいる意味。


 シヴェラはすぐさま片膝をついて顔を伏せた。ズハラ流の礼の取り方だ。べちゃりと足が濡れるが構ってはいられない。


「お前、トヴァルカの姫だな。この子に何をした」


 何を?


 シヴェラにも何が起こったのかわからない。突然空から雪の塊が降ってきたのだ。だが、自覚はないにせよ、シヴェラが降らせたのだろう。ならそう答えるしかない。


「ゆ、雪を降らせました」

「雪とはなんだ」

「空から降る氷の粉です。トヴァルカでは冬は雨の代わりに雪が降ります」

「なぜだ」


 なぜ?


 まさか雪が降る理由を聞いているわけではないだろう。なぜシヴェラがそんなことをしたのかを問うているのだ。


 これも正直に答えるしかない。


「冷やさなければ、と思ったからです。その子供の身体が燃えるように熱く、このままでは危険と判断しました」

「そうか」


 男は納得したかのように呟くと、そのまま去って行った。周囲にいた侍女たちも、男に続いて去ってしまう。


 え、それだけ?


 シヴェラはしばし呆然としていた。


 男は間違いなくこの国の王、ザフラーンだろう。そしてシヴェラがトヴァルカの姫だと見抜いていた。であるならば、炎の力ではなく氷の力を使ったことに疑問を持ったはずだ。なのに、何も聞かれなかった。


 いや、今すぐに追及しなくてもいいと判断しただけだろう。シヴェラに逃げ場はないのだから。


 許しをうてから告げるつもりだったのに、先に偽物だとバレてしまった。もう一度ザフラーン王に目通りすることは叶うだろうか。もしかすると、王族を欺いた罪でそのまま――。


 シヴェラは両腕で自身を抱きしめるようにして、ぶるりと震えた。




 * * * * *




「本当に、あの時は肝が冷えたわ」


 床に敷き詰められたクッションの上、胡坐あぐらをかいたザフラーンの膝の上で後ろから抱きしめられたシヴェラは、右ほほに手を当ててため息をついた。


「大げさだな」

「大げさなんかじゃないわよ。本気で殺されるかもしれないと思ってたんだから」

「ははは、まさか」


 すりっ、とザフラーンがシヴェラの銀色の髪に頬ずりをする。


「俺は救世主が現れたと思っていた」

「大げさね」

「大げさなものか。事実、君はこの国を救ってくれた。そして俺のことも」


 ザフラーンは、ぎゅっとシヴェラを抱きしめた後、熱っぽくシヴェラを見た。


 おっと。このままでは危ない。


「さて、そろそろ熱もしずまったわね。今日のところはこれでおしまい」


 身の危険を感じ、シヴェラはザフラーンの顔をぐいっと押しやった。


「まだくすぶっている」

「いいえ、大丈夫。続きはまた明日。私はこれから氷室ひむろの様子を見に行かないといけないの」


 シヴェラは膝の上から降りる。


 立ち去ろうとしたシヴェラの手を、ザフラーンがつかんだ。


「そろそろ俺の気持ちにこたえてくれないか」

「いいえ」

「どうして」

「どうしても何も、私たちは契約結婚だもの。あなたは私に庇護ひごを与え、私はあなたの一族が患う熱病を鎮める。それ以上の関係は望まない約束でしょ」

「そんな契約をした奴を殴りたい」

「あなた自身よ。それとも私を殴る?」

「そんなことできるわけがないだろう」


 ザフラーンは、降参、とばかりに両手を上げた。


 この攻防はもうずっとザフラーンの負け越しだが、シヴェラは自身の牙城が崩れ始めているのを自覚していた。そう遠くないうちに陥落するだろう。ザフラーンのたくましい腕に抱かれて、あんなにも胸が高鳴ってしまっていたのだから。


 だがそれを、今言うつもりはない。


「それじゃあ、また明日」


 名残惜しそうにするザフラーンの視線を遮るように、シヴェラは部屋の扉を閉めた。

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砂漠の王と氷姫 藤浪保 @fujinami-tamotsu

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