紅花栄
じめじめベタベタの酷い湿気が襲い来る梅雨時に、年々暑さを増していく夏。どちらも嫌な季節だ。雨水が滴る傘を畳まないといけないのも、日焼け止めを塗らないといけないのも億劫。だけど、私は今、そんなことに「億劫」という言葉を使えることが贅沢な事態に直面している。通常の人の手には負えない事態に。
とある文通相手曰く、私は異界に迷い込みやすい性質らしく、ふとした時に人の世界ではない場所へ入ってしまう。異界の存在と関わりを持たなければ、この性質は開花しなかったらしいのだが、とある雨の日に人ではない存在と出会ったことで見事に巻き込まれ体質となった。その文通相手は人ではないけれど、大切な友人だ。私を巻き込んだと未だに気にしているから、あまり言わないようにしている。
さて、今回私が迷い込んでしまったのは、一見なんの変哲もなさそうな路地裏。少し雨になりそうな空模様は、あちら側と変わらない。けれど人の気配が全くなく、不気味な静けさに包まれている。路地裏とは言え、人通りも交通量も多めの場所だ、全くの無音なんてあり得ない。
迷い込んだだけで済んでいるうちに、さっさと出なければ。そういえば、文通相手の友人ことニシキさんから、手紙と一緒に薄紅の布切れを同封されていた。手紙にはお守りだと書いてあったけれど、もしかして役に立つのだろうか。
バッグに入れていた封筒を出して開けると、薄紅の布切れが勢いよく飛び出す。花びらほど小さくはないけれど、ひらひら空を渡っていく。足元に気をつけつつ、見失わないよう追いかけた。歩き慣れた靴を履いてきて良かった、ちょっと道とは呼べないところも走れる。何だか冒険しているみたいと思えば、迷い込むのも悪くなかった。もちろん、きちんと出られること前提で。
体を横にしないと通れない路地や、ちょっと小高い塀の上、猫が通るような道を行く時、布切れはなるべく低速を心掛けてくれるようだった。……布に心って言葉を使うのはちょっとおかしいかもだけど、そう見えるからとりあえず良しとする。かくして薄紅の布切れに追いつくと、開けた場所に出られた。途端、ぐわっと雑踏に包まれる。無事に帰ってこられたようだ。細い路地は表通りに繋がっていて、人通りも車通りも、風景として飛び込んでくる。
「お、
布切れが私の手のひらへ降りてきたのを受け取ったところで、聞き覚えのある声がした。我ながら弾かれたように横を見れば、ココアブラウンの長髪に
「よ、良かったぁ、出られて」
「うんうん。私が持たせたお守りも、きちんと役目を果たしてくれたようだ。それは折節の里で採れた紅花で染めた布でね。染めたてだから、切れ端でもじゅうぶんお守りになる」
「へえ……でも、それならもっとこう、お守りっぽいビジュアルのやつが欲しかったです」
「ごめんね、今度はきちんとお守りっぽくしたのを贈るよ。どうせなら糸にもこだわってみるか」
ふむ、と興味深そうに思案するニシキさんだが、私はいったい何を贈られるのか。お守りという名の、何かとんでもないものを贈られるのではなかろうか。単なる巻き込まれ体質なだけなのに、身に余るものを贈られると困る。
「おっと、誤解のある間を生んでしまったね。大丈夫、しっかり君を守ってくれるものを作るとも。私もそんなに大したモノじゃないし、加護みたいなものはつかないさ」
「それならいいんですけど。にしても、ニシキさんが住んでいる里ってすごいんですね。採れたものがそのままお守りに使えるなんて」
「まあ、常世だから、一応。さて、こんな話も雑踏に紛れるとはいえ、立ち話もなんだ。当初の予定通り、どこかに寄ってお茶でもしようじゃないか」
にっこり笑うニシキさんに頷いて、手のひらに載せていた紙を折り畳み、鞄ではなく服のポケットにしまう。また迷ってしまったら、いつでも飛び出してもらえるように。さすがに一日二回、どこかへ迷い込んでしまったことはないので、今日はもうどこにも迷い込まないと思うけれど。
隣に並んでくれたニシキさんとの話に意識を傾けて、遠ざかる路地の気配を忘れる。こういう時は振り返らず、忘れていくものだと、ニシキさんに教わったので。もう私が意に返さないと分かれば、あちらから手を引くから、なのだとか。
もっとも、今日の路地裏にそういう存在がいたのかどうかは、私には分からない。私に分かることと言えば、ニシキさんが得難い友であること、この方面ではニシキさんを信用できるということ。それが分かっていれば、きっとじゅうぶんだ。
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