鴻雁北
渡りゆく水鳥の多くは、最北の地へと集い、桜前線を大きく突き放して去ってゆく。北国と称される地方では、ようやく桜が咲き出そうという頃合いだが、まずは寒冷の一難を乗り越えなければならないだろう。
日差しは春だが強風吹き渡る河川敷で、大きく揺れる桜の細枝を見上げていたら、そんな風に思ってしまった。腰かけたベンチから見上げた空は、大部分が枝に覆われている。
薄紅に色づいた桜の枝は、これはこれでとニシキさんが言っていたように、確かに風情があった。冬風に揺らされる枝だったら、強く揺らされても耐えているように見えるが、春風に揺れる枝は遊んでいるようにも見える。荒れる風を乗りこなしているかのような。こういう印象の違いが、季節が変わったことの証左なのだろうとも思う。そういうことが感じ取れるくらい、自分はこの土地に馴染んだのだな、とも。
輝きが増えた川には、鳥の姿が少ない。正確には、水鳥たちは流されないよう川の縁沿いに避難しているため、見えづらい。水辺ではなく田畑に行けば、鷺や烏、雉がご飯を探して歩き回っている。陸と水辺とでこうも違うものなのか。いざ意識してみると不思議なものだ。
「お待たせ、梓くん。買って来たよ」
この辺りの桜はいつ頃咲くのか、まあもうすぐだろうとぼんやり思っていたら、少し遠くの自販機に行っていたニシキさんが戻ってきた。両手にそれぞれ、色違いのお茶を携えて。ニシキさんは普通の緑茶で、自分は
「ありがとうございました、ニシキさん」
「これくらいどうってことないさ。待っている間、何か面白いことはあったかい?」
「ニシキさんの言った通り、もうそろそろ咲きそうな桜の枝は風情があるなとか。それと、渡り鳥が去った後の水辺は、少し寂しいんだなと思っていました」
「君も風情を解するようになったか、素晴らしいことだね。これからもその調子で、色んなことを見つけていくといい」
隣に腰かけたニシキさんも、パキッとペットボトルを開けて、さっそく緑茶を飲んでいる。自分より風に揺れる箇所が多いニシキさんは、座っていても盛大に風の影響を受けていて、見ているだけで大変そうだ。慣れているから平気そうでもあるけれど。
「この土地に馴染んだから、ニシキさんたちの言うような風情が分かるようになったのかもしれません」
焙じ茶の独特な香りが、体内へ溶けていくのを感じながら、入れ替わるような呟きが落ちた。
人の姿を取れるようになってから、自分はここで、たくさんのものを口にしてきた。鳥のままだったら食べられなかったものまで。それが体内へ溶けていくと、感情というものが発生することを知った。感情というものは、時に厄介だけれど、目に見えない空白を満たしてくれるものであることを知った。渡り鳥として生きていた頃の記憶を持ちながらも、自分は変容しているのだなと、しみじみ思ってしまう。
「それなら、もうこの頃合いに、君から目を離しても大丈夫になったんだねぇ。船でどこかへ出かけることもできる」
「ああ、そういえば、船は乗ったことがありませんね。折節の里から行きたい場所へ、すぐに出られますから」
「そうそう。移動手段はあんまり考慮しなくていいからさ、乗ることそれ自体が貴重な体験なんだよね」
飛ぶ際に、先頭を担ってくれていた鳥のことを思い出す。先頭が飛ぶことで生み出された気流が、後続の自分たちの労力を軽減してくれる。鳥の時は詳しいことなど知らず、ただそうしていると良いという認識だけだったが、知識として触れるとすごいことだったのだなと思ってしまう。そういう仕組みは、別の姿で別の生き方をしていても、巡り合えることなのだなとも。
「ただ、これから先は少し天候が悪くなってしまうらしいから、旅行はしばらくお預けだな。友人たちに手紙を書いて過ごすことになりそうだ」
「そうしてください。自分も頑張って仕事をします。荒天の中を行くのは慣れているので」
「君のそういう
「そうですね。無茶は上がさせませんから、安全な環境で頑張らせていただきます。なんだかんだ、やりがいもありますからね」
こういうことを、人間は何と言うのだったか。ホワイト企業、とかなんとか。実際、自分の強みを生かして、やりがいのある仕事を続けられるというのは、恵まれたことだ。自分はたくさん恵まれている。
風に吹かれ続けると寒くなってくるので、休憩もそこそこに、ニシキさんと自分はベンチから立った。後はいつものように、良さそうなお店でお土産を購入して帰宅する流れだけれど、少し要望ができたので言っておく。
「ニシキさん。もしあったらでいいのですが、枝を象ったお菓子を買って帰りませんか」
「お、いいね。見つかるかどうか不安だが、それがいい。簡単に見つけられたものより、探し回った末に辿り着くものの方が、ほんの少し特別な気分にしてくれるからね」
予想通りの答えが返ってきた。ニシキさんが言いそうなことも、すっかり分かるようになってきた。これもまた、馴染んできた証に違いない。
さて、本当に枝を象ったお菓子は見つかるのだろうか。楽しい勇み足なニシキさんに続きながら、つい思ってしまうけれど。望みのものが見つからなくても、良いものは見つかるだろう。そういう風に思えば思うほど、この姿で生きることは、楽しくなっていくのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます