雷乃発声
折節の里は春分の村も、現世と繋がったことで一層盛りを増した花々が、雨曇りの中に鮮やかな色を打っている。雨に打たれても枝から離れず咲き誇っているもの、散ってしまったが地面に色を加えているもの。いずれも異なる風情を持って佇んでいる。
「きみに訊くのもおかしな話だが、寒くないかい、梓くん」
「大丈夫です。ありがとうございます、ニシキさん」
焦げ茶の外套を纏い、
とは言え、これから見られる光景を前にすれば、感情豊かになってきた梓くんも反応せずにはいられまい。佐保姫の巡行を見た時もそうだったのだから、間違いない。
私たちが今いるのは、春分の村を流れる川の畔。私たち以外にも、傘を持って川辺に佇んでいる住人たちがちらほら見受けられる。雨曇りに馴染むような、物静かな色合いの笠が多いが、私が持っているように目立つ色合いの番傘もあった。傘も傘で、雨中に咲く花のように見えて面白い。
正直なところ、今は傘を差すほどでもない小雨。それでもまだ、濡れてしまうと風邪を引くかもしれないから、差した方が良いかなといったところ。雨音も風情と楽しむような者であれば、こんな小雨でも傘を開いておかしくないが、みんなこれから起こる事を知っているから差している。
「……お、見え出した。梓くん見えるかい、あそこ」
雨音を聞きながら、波紋で埋め尽くされた川面を指さす。何度も見たことがあると案外分かりやすいのだが、梓くんは見えるだろうか。明らかに渋面を作って睨んでいるから、よく見えていなさそうだけど。
「まあ見えなくても大丈夫。あのあたりに注目しているといい。出てくるから」
「分かりました」
良い返事をして、梓くんは渋面をやめ、じっと私が示した箇所を見つめていた。梓くんの格好は郵便局員の制服だが、帽子とマントが相まって、古き良き時代の学生さんや軍人さんのようにも見える。
梓くんの姿も絵になるが、私が見逃して梓くんが分からず終いだと無意味なため、私も既に捉えた影を見つめ直した。川の色に馴染む、透明で細長い影。無数の波紋に遮られながらも、蛇のような形と分かるそれは、これから蛇よりも強大な存在になるモノだ。
間もなく、透明な蛇が、ぐっと体をもたげる。水がそのまま動いているかのように。ここまで動けば梓くんにも分かるだろうと見てみれば、鴨羽色の目がまん丸く見開かれていた。
「見えたね?」
「見えました」
「体調に変化はない?」
「寒気はしますが、大丈夫です」
短いやり取りだったが、梓くんの緊張が瀬戸際にあると充分に知れた。緊張を通り越して畏怖に固まっていれば、返答さえないだろうから、答えている時点でここにいられるだけの強さはある。
事実、透明な蛇がぬっと現れてから、周囲に漂う気が濃密になっている。蛇が水底から力の源を引き上げたからかもしれないし、自然が呼応し合っているからかもしれない。いずれにせよ、力の弱いものは酔い潰れてしまいそうな空気が、どんどん濃さを増している。
川から起き上がり、透明な体に雨を受けて、鱗代わりに波紋を纏う蛇。天を見上げた蛇は、ピタリと動きを止めたかと思うと、次の瞬間には大きな水飛沫を上げて飛び立った。
通り雨と化した飛沫の幕が、思いっきりこちらの傘を叩きつける中、透明な蛇は踊るように曇天へと昇っていく。細長い輪郭が仄白く光っているため、雲間に消えてしまうまで見続けられた。光っていたのは雨を弾いているからなのか、溢れる気力が発光していたからなのか。どちらでもあるのだろう。あれはそれだけ強大だ。
「いやぁ、私も引きずられそうになってしまった。どうだい梓くん。龍の昇天を見た感想は」
同じく空を見上げていた梓くんは、少し間をおいて、ゆっくりと視線をこちらへ向けた。佐保姫の巡行を見た時とは違い、放心してしまっているらしい。無理もないことだ。
「……すごい、ですね」
何度か瞬きを挟んだのち、梓くんはようやくといった体で、絞り出すように言葉を零した。その一言に尽きても仕様がない。龍なんて、私たちの手に及ぶような存在ではないのだから。
「うん。すごいんだ、この時期に昇天する龍は。弱った龍はまた秋に地上へ戻ってきて、水底に潜み、春が来たら若い龍と一緒に空へ戻るという。さっき飛び立ったのは若い龍だね」
「……そうでないと、自分は気絶しているところだったと思います」
「私だって気絶するよ、そんなに強いわけではないからね。まあ、弱ったから戻ってきた龍というのは、山奥の滝や湖に潜んでいるというから、見物に行くのは余程の物好きに限られる。あるいは、龍の恩恵にあやかりたい欲深くらいのものさ」
私とて好奇心が疼かないわけではないが、分かり切った危険に近寄るほど馬鹿ではない。天に昇らず水辺に居座り続けている、龍なんだか妖なんだか分からない友人もいるにはいるが、そいつも接する時には加減をしてくれているのだ。そういう加減の有無を忘れれば痛い目を見る。
「美しいが、やはり近寄ってはならないと分かるだろう。ま、きみは元より思慮深いし、野生の勘も失っていないから、何を今更と思うだろうけど」
「……いえ。ニシキさんは何かと、自分が危機感を失わないよう計らってくれていると感じています。そういった計らいを抜きにしても、美しい景色を見せたいと思ってくれていることも。それはとてもありがたいことだと思います」
「相変わらず、きみは良い子だなぁ。連れ回しがいがあるというものだ」
たまに私の扱いが雑なこともあるけれど、それはそれで、心を許してくれているのだろう。拾って連れてきた身としては嬉しい反応だ。
遠くから、鈍い轟きが聞こえてくる。寝ぼけた龍の鳴き声じみた、くぐもった春の音。龍の昇天など一匹見られれば充分だから、雨が酷くなる前に帰ろうという話になった。周囲に集まっていた見物客たちも、みんな帰路を辿っている。
春の雨は柔らかい音がして心地よいが、体がずいぶん冷えてしまった。我が家へ帰ったら、緑茶を飲もう。お茶請けは桜餅で決まりだ。その旨を梓くんにも伝えれば、「賛成です」と素直な声が返ってきた。その声も春の柔らかさを纏っている気がして、雨音のように明るい気分が弾け、心を潤してくれるかのようだった。
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