第19話 記憶

       ◆


 クズリバ氏の館を出るとき、門衛が胡乱げな顔で僕とミズキを見ていた。

 二人でゆっくりと歩を進めて、道を下っていく。もうミズキは泣いてはいなかったが、悄然とした様子だった。

 僕が気にしているのはそんなミズキの態度より、自分が今、丸腰だということだった。

 あまり想像したくないが、クズリバの気が変われば、僕は簡単に消されてしまう。刀を手渡したことで僕が用済みになっていればいいのだが。

 すん、すん、とミズキが鼻をすすっている。

 それにしても、と僕は思考をまた別の方向へ向けた。

 クズリバ氏が刀にそこまで執着しているとは、想像もしていなかった。僕が興味本位で各地の名刀の噂をたどっているのとどこか似ているが、僕は強請って刀を手に入れたことはない。そんなことはしようと考えたこともなかった。

 権力を持つ人間のやることはなるほど、品がない。

 サザレはそんなクズリバをあまりよくは見ていないようだが、あれは剣術家としての意見だったのだろうか。僕以外にも、刀を取り上げられたものがいるのかもしれない。

 剣術家は刀にこだわるところがあるが、それは刀が悪ければ勝てるはずの相手に負けることがあるからで、美しさなどは極端なことを言えば必要ない。必要なものが何かと言われれば、それぞれの使い手によって違うだろう。頑丈さ、長さ、重さや軽さ、重心、色々とある。

 ただ、切れない刀だけはダメだと誰もが言うだろう。

 クズリバは切れ味などを求めているわけではないと思われる。

 先ほどの様子からして、クズリバには剣の良し悪しなどさほどわからないだろう。

 見た目の美しさ。

 そうでなければ、銘。

 美しさで相手が切れるものか。

 銘で相手が切れるものか。

 切れるわけがない。

 考え始めると無性に腹が立ち、情けなくなった。刀の価値が分かりそうもない相手に刀を差し出すとは、馬鹿げている。

 あの刀、蛇紋の一振りを僕に譲ったのは、高齢の男性だった。山の奥の道場で、数人の百姓に剣術を教えていた。その道場はほとんど廃屋同然で、人の手など入っていないような有様だった。

 僕がそこにたどり着いたのは偶然で、道を間違えたのがきっかけだった。街道からも間道からも逸れてしまい、宿を取ろうにも宿場などあるはずもない、そんな場所へ迷い込んで、結果、あの道場を見つけた。

 一晩だけ泊めてくれと頼んだ百姓の家にいた若者が、老人の弟子だったのである。僕はいつものさっぱりとした身なりだったが、刀を帯びていたせいだろう、若者は色々と質問してきて、話が盛り上がった。

 その中で若者が照れた様子で、自分も剣術を学んでいるのだ、と言ったのである。

 そして、明日、先生に紹介したいのだが、と言い出した。

 断る理由がなかったけれど、もし先に道場の様子を見ていれば断ったかもしれない。夜が明けて道場へ行った時は、あまりの荒れ果てた様子にさすがに呆れて言葉もなかった。

 ただ、入ってみて、老人を前にした時に不思議な思いが込み上げてきた。

 この老人は普通ではないな、と訳もなく思った。

 最初は、稽古を見せてもらいたいと願い出たけど、その日のうちに老人は僕に興味を持ったようで、僕に自分の門人の相手をさせ、最後に老人自身が僕に稽古をつけてくれた。

 老人は何歳だっただろうか。すでに顔はシワだらけで、着物から覗く腕や足は細い筋が浮いていて、かなり痩せていた。

 そんな老体が振るう竹刀が生き生きしていることは、驚きと同時に、感動を呼び起こすものがあった。

 僕はその日の稽古が終わるのが惜しいと思ったが、どうやらそれは老人も同様だったらしい。うちに泊まらないかね、何もないが、と言い出した。僕は一も二もなく、その申し出に乗った。

 老人の生活は質素そのもので、娯楽のようなものは何もない。煙管どころか、酒もなかった。米はあるようだが、それも門人に剣術を教える代わりにわずかな量を譲ってもらっているだけで、野菜は自分で畑を作って育てていた。

 僕がそこでやったことは、朝の稽古と、昼間の畑仕事、夜に老人に按摩の真似事をする、その繰り返しだった。

 そんな生活が半年近く続くとは、僕は想像もしていなかった。老人がどんな思いだったかは、僕には知ることはできない。

 季節は春から夏になり、夏を過ぎて秋になっていた。

 もう良かろうよ、とある朝の稽古の後、門人が全員去ってから老人が声をかけてきた。

 僕は老人から学べるものはおおよそ学んでいた。半年というもの、見たことも聞いたこともない剣術が目の前で展開され、幾度となく竹刀で打たれていた。

 故郷を出て、いくつもの道場で稽古をつけてもらっていたが、あの時では一番僕を打ちのめしたのが、あの老人だったのだ。

 ただ、もう良かろう、という言葉には反発を覚えなかった。まったく自然に、素直に従う気持ちになった。

 もう見るべきものは全て見た。学ぶことは全て学んだ。

 見たもの、学んだものがどう生きるかは、実際の場、実戦の場にならないとわからないと思えた。

 僕は老人に礼を言ったが、老人の方も礼を口にした。

 最後に良い使い手に会えた、と。

 そして、刀を譲る、と言い出したのだ。

 その時に譲られた刀が、蛇紋の一振りだった。

 老人は、手入れはされていないが良い刀だ、こんな辺鄙な土地で眠らせるのは惜しい、と笑っていた。笑うと顔のしわが深くなり、普段から稚気に富んだ人だったけれど、余計に人懐っこく見えた。

 僕はその刀を受け取った。道場を去る時、老人には何も言わずにある程度の銭を残しておいた。

 刀を買ったということではなく、半年ほどの滞在に対する謝礼である。

 刀は僕の手元の銭で購えるような品ではないと、研ぎ師に預けた時にわかった。研ぎ師が驚き、これを自分が研いでいいのか、と確認してくる有様だった。

 あれから何年も過ぎているが、蛇紋は僕に馴染んで、いくつもの危機を切り抜ける力になった。

 それが手元にないとは。

 ため息を吐くと隣から声がした。

「アイリ先生?」

 記憶の中に沈み込んでいた自分に気づき、意識が現在に戻った。隣では目元を腫らしたミズキが不思議そうにこちらを見ている。僕たちはいつの間にか山を降り、街に入ろうとしていた。

「なんでもない」

 そう答える自分に、内心、舌打ちしていた。刀を取られたくらいで、現実から逃避するようなことをするとは、愚かしい。

 街はすでに目覚めて、人が行動を始めていた。街から山へ向く人の数が多い。それに逆らうように、僕とミズキは進んだ。

 食堂はもうすぐそこだ。



(続く)

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