第16話 剣の紋章

 やがて野営地に一行が揃った。ディーパから事情を聞いたドゥルクは、少女をしばらくかくまうことに同意した。

 少女は故郷から誘拐され、ほぼずっと目隠しをされてここまで運ばれたせいで、どちらの方角へ行けば帰れるのか分からないらしい。幼さゆえか、あるいは教育を受けていないせいか、地名の認識も曖昧であるようだった。


「心配するな。俺たちと巡業しているうちに見つかるだろう」


 ドゥルクが少女の頭を軽く撫でる。彼女はくすぐったげに首を縮めた。


「売られたのでなく誘拐されたのなら、待つ人もいるはずだ。いなけりゃ俺たちの仲間になりな」

「ただし雑用からだぞ、頑張りな」


 若者の一人がおどけて声を上げる。アナンターがくすくすと笑い、少女も小さく笑みをこぼした。

 少女の姿を眺めて、ジャニはふと気づいた。細い手首に生傷があるのだ。蚯蚓みみず腫れにできたかさぶたを何度も剥がしたように見える。

 おそらくは縛られていたのだろう。縄が擦れてできた傷が治りかけるたびに弄っていたに違いない。精神に負荷がかかると、人はそういうことをしてしまうものだ。胸が痛んだ。

 ジャニは少女の前に膝をついた。


「……よかったら、手当をさせてください」


 そっと言い、手首の傷を指さす。少女はしばらく黙っていたが、小さく頷いた。


 天幕に置いた荷物から、立ち寄った街で買い直した鉢とすりこぎを取ってきた。空き地の周囲で何種類か植物を摘んで鉢に入れ、手早く膏薬こうやくを作る。少女を呼び寄せ、手首の傷に丁寧に塗り込んだ。

 少女はべたつく手首を見て、少し嫌そうな顔をした。


「どうしました?」

「ちょっと気持ち悪い」

「そうですか……」


 触らないように包帯をした方がよいのかもしれない。ちょうど清潔な布が荷物の中にあるはずだった。

 ジャニが立ち上がろうとすると、興味深げに一部始終を見ていたアナンターが声を上げた。


「お姉さん、僕も手伝う」

「そうですか? じゃあ、私の荷物に包帯が入っているので、取ってきてください。白い布です」

「はぁい」


 小鹿のように駆けてゆくアナンターを、ジャニは小さく微笑んで見送った。周囲の警戒を終えて戻ってきたダルシャンと目が合う。彼もまた穏やかに目を細めた。


 ――ずり、と何かが地を擦る音がした。


「お姉さん……お兄さん」


 アナンターの声。帯びているのは――緊張の響き。


 ジャニとダルシャンは振り返った。

 天幕から出てきたアナンターが、長いものを引きずっている。

 傾きかけた陽を受けて黄金に光るのは、まばゆい鞘に収められた長剣。

 その柄に輝くのは――炎の紋章。


「これ、何? 布の中から出てきた」


 ジャニは凍りついた。

 白い布、と言った。――確かにダルシャンの剣は、白い布に巻いて隠していた。


「――アナンター」


 ダルシャンの声に焦りがにじむ。空き地にいる全員の目が、幼子の握る剣の柄へと向いている。

 がしゃん、と陶器の割れる音がする。水を汲んできたディーパが壺を落としたまま立ち尽くしていた。


「……それは」


 ディーパの睫毛が震える。切れ長の目が破れんばかりに見開かれる。


「プラカーシャの、炎」


 老女ムルガナーが低く声を発した。


「あんたたち、まさか――王家の」


 ふいの風に流された雲が太陽を覆う。ディーパがはじかれたように走り寄り、ジャニの肩を両手でつかんだ。


「ねえ、嘘だよね、ジャニ。嘘だと言っておくれ」


 強くゆすぶられる。何も言うことができない。ただ黙ってディーパを見返すことしかできない。

 彼女は周囲を見回し、震える声でダルシャンを呼んだ。


「――ねえ、シャンカラ! 嘘だろ?」


 ダルシャンのおもてが歪んだ。関節が白く浮くほどに拳が握り締められる。

 やがて、消え入りそうな声がその唇からこぼれた。


「申し訳ない、ディーパ殿。我が名はシャンカラではなく――ダルシャンだ」


 ディーパの手がジャニの肩から離れた。彼女は立ち上がり、ふらふらと後退る。


「……第三王子」

「母さん」


 アナンターが剣を放り出し、ディーパの元へ駆けていった。ディーパは我が子を抱きしめ、燃えるような目でジャニとダルシャンを睨んだ。


「騙していたんだね……あたしたちが皆、王家のせいでどんな目に遭ったか知っておきながら!」


 美しき踊り子のまなじりから涙が溢れる。眼前で爆ぜる激情に、ジャニはただ言葉を失う。


「――出ていきな」


 その一言に身がびくりと震えた。ディーパはますます強くアナンターを抱き、絶叫した。


「出ていきなって言ってるんだ! ここはあんたたちの居場所じゃないよ!!」


 ディーパの肩に大きな手が置かれた。ドゥルクだ。夫の無言の仲裁にディーパは顔を背ける。

 ドゥルクは沈痛な表情でジャニとダルシャンを見やった。


「あんたたちに情はあるが、これ以上、行動を共にすることはできない。分かってくれ」


 ――胸を突き刺されたように感じた。

 自分たちをただひたすらに温かく匿ってくれた人々とこのような形で別れるのは、あまりに虚しかった。

 涙がにじむ。こらえきれなかった一滴が頬を伝い、あおい炎となって消えてゆく。

 残りをぐっとまぶたの奥に閉じ込め、ジャニは頭を下げた。


「……お世話になりました」


 ダルシャンもまた無言で頭を下げた。彼は土埃の立つ地面から剣を拾い上げ、少ない荷物をまとめ始める。ジャニもそれに加わった。

 じきに二人は野営地を離れ、ヴァージャを連れて歩き始めた。今度こそ行く当てはなかった。

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