第24話 黒煙の先
火は露台の南側から広がっていた。離宮の裏手から馬のいななきが聞こえて、ジャニは思わず声を上げた。
「ヴァージャ……!」
建物の裏へ回り込むと、ヴァージャは地面に打たれた杭に繋がれたまま、迫り来る炎から逃れようともがいていた。
夢中で駆け寄って、杭に結ばれた手綱をつかむ。焦りで手が震えてうまく動かない。だが、かろうじて結び目をほどくことができた。解き放たれたヴァージャは高くいななき、森の中へと身をひるがえした。怯えてしまったのだろう。
心配だったが、後を追うわけにはいかなかった。痛む足を引きずりながら、もう一度建物の表に回り、出てきたときに開けたままだった扉に飛び込んだ。南側の露台を呑み込んだ炎は、木材を使って組み上げられた建物の壁に穴を開けている。そこから室内に張られた古い紗幕にも火が回っていた。布という燃えやすいものをつかんだ
「ダルシャン様――ダルシャン様! いらっしゃいますか、ダルシャン様!」
薄黒い煙が視界を遮っている。ドーラー〔注:ブランコ〕を押しのけ、手探りで階段へと向かい、手すりをつかんで何度も声を張り上げる。やがて上の階から
「――ジャヤシュリー! ここだ!」
よかった、生きている。息を止め、硬い手すりの感覚だけを頼りにして、階段を一気に駆け上がった。
上り切ったところでしかし、肺が限界を訴える。膝をついて体を折り、激しく咳き込んだ。やはり無理があった。頭がくらくらする。
煙がひどくて何も見えない。床を這いずるように部屋へと進む。その肩に突然、手がかかった。
「何事だ……ジャヤシュリー」
ダルシャンだ。安堵が一瞬、胸に満ちる。けれどそれはすぐに儚く霧消した。
「ルドラが、あとをつけてきて……」
「――あいつか」
ダルシャンが吐き捨てるように言う。そして
ジャニは顔をゆがめた。このままではどう考えても共倒れだった。
「とにかく、外へ出ないと――」
そうジャニが言うと、支えるようにダルシャンの腕が回る。姿勢を低く保ちながら、再び階段へ向かった。
だが、ジャニが最初の一段に体重をかけた瞬間。
――焼き焦がされた板を、足がまっすぐ踏み抜いた。
「……っ!!」
とっさに引き抜いたジャニの足首にいくつもの切り傷がつく。鋭い痛みに思わず歯を噛みしめた。
板を柱や手すりで支えているだけの簡素な階段を、燃え盛る火が下から舐めていたのだ。そのせいで板がひどく
階段はもう使えなかった。だが、他に下へ降りるすべはない。
苦しい。気を抜けば今にも倒れてしまいそうだ。煙と熱だけでなく、先ほどの戦いの疲労が重くのしかかっている。
どうすればいい――どうすれば。
息苦しさのせいか、じわり、と涙がにじむ。頬を伝って小さな蒼い
――それを見てふと、ルドラとの戦いのことを思い出した。
自分の炎は、彼の炎を押し返せるのではなかったか。
「……ジャヤシュリー?」
二階の廊下の向こう、窓があるはずの方へと右の手を掲げたジャニに、ダルシャンが疑わしげな声を上げる。
それには答えず、目を堅く閉じて念じた。
(――ひらけ)
この煙を払って。
迫り来る死を
私の炎よ、道を
どう、と熱風が吹いた。立ち昇ったジャニの炎が廊下をまっすぐに駆け抜ける。
厚い闇のように立ち込める黒煙を裂き、上階さえも呑み込み始めたルドラの炎を押しのけて、大きく二つに分かつ。
澄んだ空気が流れ込む。その先に窓が見えた。焼け焦げて形を失いかけている。けれども確かに、そこには出口があった。
「――よくやった、ジャヤシュリー!」
ダルシャンが喜びの声を上げる。けれど、返事ができなかった。
力を失って落ちそうになる右の腕を、左の手でつかんで必死に支える。何度まぶたをしばたたいても、目はひたすらにかすんでいく。
息が苦しい。肺がつぶれる。
――もうきっと、ここから動くことはできない。そう、頭の奥で悟った。
「……ごめんなさい、ダルシャン様。あなたの〈
かろうじて囁く。ダルシャンの顔に懸念の影がよぎった。
「ジャヤシュリー?」
「私が動いたら……たぶん、出口は閉じます」
「そんなことか。ならば俺が抱えてやる」
言って抱き上げようとするダルシャンに、ジャニは懸命にかぶりを振った。
「だめです……私の集中が切れた瞬間に、全部、崩れます」
今も、この体勢を保つことでかろうじて集中を維持しているのだ。ジャニが姿勢を変えるか、あるいは精魂尽きて倒れたその瞬間、おそらく終わってしまう。ルドラの炎が一気にすべてを押し戻し、燃やし尽くしてしまう。
こうして言葉を絞り出すことさえ、本当はひどく難しいのだ。
ああ――でも、最後に言っておかなければならないことがある。
「ダルシャン様。あなたは、生きてください。王になってください。お兄様とお母様に誓われたように」
まばゆい月の光の中、願いを語ったダルシャンを思う。生きる理由を、その意志を、力強く
「そのために――こうして、死ぬのなら」
粘る汗が額を伝ってゆく。全身が今にも崩れ落ちそうに痛む。
乾ききった口から、かろうじて声を押し出した。
「……私は、それでも構いません」
ダルシャンが一瞬、絶句した。それに続いたのは怒声だった。
「――何を言う!」
ジャニはぼんやりとダルシャンの顔を見返す。黒く濡れた美しい瞳が、激情に揺れている。
「母と、兄と……二人だけでもう十分だ。これ以上、失ってたまるか」
大きな手が、力なく下がり始めたジャニの右腕をつかんだ。支えるように、強く、強く。
「真価を見せろ、俺の
――もう一度、涙が頬を伝った。
「っ、う……」
集中が乱れた。自分の炎が押し戻される。黒い煙が再び廊下を覆い始める。
許さない。許されない。それだけは、それだけは――絶対に。
「ぁあ、あああ――――……ッ!」
蒼い炎が激流のようにほとばしる。煙と炎が割れ、再び出口への道が
ダルシャンの腕が体に回った。そのまま力強く抱き上げられる。彼は三歩で廊下を駆け抜け、焦がされ崩れた窓からためらいなく地面へ飛び降りた。
――その背後で、ルドラの炎が今度こそ道を閉ざす。
(……間に合った)
蒼く燃え盛る建物を見つめ、ぼんやりと思った。
飛び降りた場所は、ちょうどヴァージャの繋がれていたところだった。愛馬の姿がないのを見てとり、ダルシャンは高く指笛を吹いた。すれば、すぐに闇の向こうから蹄の音が響いてきた。
ややあって、白い姿が木立の間に現れた。一度は怯えて逃げたものの、忠実なるヴァージャである。あやまつことなく主の元へと戻ってきたのだ。
ダルシャンは鞍を地面から拾い上げ、歩み寄ってきたヴァージャの背に手早く装着する。そしてジャニを抱き上げて乗せ、自身も後ろにまたがった。ダルシャンが合図をするや、ヴァージャはすぐさまその場を離れ始めた。
安堵感に全身の力が抜け、意識さえ薄れかけた。だが、突然の高い音によって現実に引き戻された。鳥や獣の声ではないその音に、ひどい胸騒ぎがして振り返った。
崖の下、ジャニがルドラを防ぐために作り出した炎の壁は、いつしかほとんど消えかけていた。
馬だった。灰色の毛並みをした馬だ。その背には誰あろう、ルドラがまたがっていた。考えてみれば、ここまで
「ダルシャン様……!」
振り返ったダルシャンが舌打ちをし、手綱を強く振るった。ヴァージャはすぐさま全速力で走り出した。
深い夜の森の中、ダルシャンとジャニは逃げた。
だがルドラはどこまでも追ってきた。葉で馬身をかすり、時に距離を開けられながらも、手負いの獲物を狩る狼のような執念で、ただひたすらにすがってくる。
ルドラの右手が振り上げられる。蒼い炎が塊となって飛んできた。ジャニは唇を強く噛みしめ、ヴァージャの背後に炎の盾を発した。攻撃は盾の端に当たり、跳ね返って消えた。
ややあって次の火の弾が襲ってくる。それもまた盾ではじき返した。足場の悪い中で馬を駆りながらでは狙いを定めづらいのか。それとも彼自身、ジャニと同様に消耗しているのか。いずれにせよ、先ほどのような威力ではないのが不幸中の幸いだった。
だとしてもやはり、危険なことには変わりがない。ジャニは残る力を振り絞り、蒼い炎の盾を維持し続けた。乾いた口の中に血の味がにじむのを感じながら、ルドラの攻撃が襲い来るたび、懸命にさばき続けた。
何度目かの迎撃で、ルドラが顔をゆがめるのが見えた。憎悪に満ちたその目を見返し、ジャニも表情を硬くした。
突然、進行方向が晴れたように感じた。怪訝に思ってちらと見やれば、急に木がまばらになっている。
なぜだろう。そう思った瞬間、行く手に横たわる深い亀裂が視界に入った。谷だ。谷があるのだ。
「……え」
ヴァージャの脚は止まらない。ダルシャンも手綱を引かない。声が――出ない。
(……落ちる)
ジャニは戦慄し、両の目をぎゅっと閉じた。
「――ヴァージャ、行け!」
ダルシャンが叫んだ。
体がふわりと浮く感覚がする。薄くまぶたを開けると、ヴァージャが高く跳んでいた。
二馬身はあろうという幅の谷を、白馬は翼でもあるかのように飛び越す。危なげなく対岸に着地し、そのまま走り続けた。
ルドラの馬が崖の手前で足踏みする。刻々と後ろへ遠ざかっていく。
ジャニはそれをじっと見つめた。黒い影はどこまでも小さくなり、やがて木々の向こうへ消えた。
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