第20話 丼に映る美学
冬の冷たい風が窓を叩く午後、塩見は手に持った書類をテーブルに置き、静かにコーヒーを飲んでいた。そんなとき、デスクの上の電話が鳴り響いた。
「塩見です。」
受話器を取ると、聞き慣れた声が聞こえてきた。「熊五郎亭」の店主・高田熊夫だった。
「塩見さん!ついに完成しました!新しいラーメンです!」
その声は興奮と自信に満ちていた。
「ほう、それは良かったな。どんな仕上がりになったんだ?」
塩見の静かな問いかけに、熊夫は熱っぽく話し始めた。
「塩見さんが紹介してくださった三國シェフの教えをもとに、スープも麺もすべて見直しました!ついに納得のいくラーメンができたんです!」
塩見の口元に微かな笑みが浮かぶ。
「なるほど。それで、どんな味になったのか気になるな。」
「ぜひ塩見さんに、最初に味わってほしいんです。ここ北海道まで来ていただけませんか?」
「北海道か……それは遠いが、行く価値があるのならすぐに伺おう。」
塩見は短くそう言うと、電話を切り、すぐに茜を呼んだ。
「茜、出かけるぞ。目的地は北海道だ。」
塩見がそう言うと、茜は目を丸くした。
「北海道?急ですね……何があるんですか?」
「熊五郎亭から新しいラーメンが完成したという連絡が来た。三國シェフの教えを取り入れたと言う。その味を確かめに行く。」
茜は驚いたように目を輝かせた。
「それは楽しみですね!北海道のラーメンってだけでも美味しそうなのに、三國シェフの教えまで入ってるなんて……!」
「どうなるかは食べてみないと分からん。」
塩見が静かにコートを手に取ると、二人は空港へ向かった。
飛行機が雲の上を飛ぶ中、茜が興味津々の表情で塩見に尋ねた。
「塩見さん、『ジャポニゼ』って具体的にどういうことなんですか?」
塩見は窓の外を眺めながら答えた。
「フレンチの世界で使われる言葉だ。日本の食材や調理技術、美意識を取り入れることで、フランス料理に新しい価値を加える考え方だな。」
「ラーメンにも応用できるんですね。」
茜が首を傾げる。
「料理は全て同じだ。素材をどう活かすか、どう引き立てるか。それが本質だ。熊夫は、それをラーメンという形で実現しようとした。」
茜は感心したように頷いた。
「北海道のラーメンって、もともと完成度が高いイメージがありますけど、それがさらに進化するなんて……すごいですね。」
塩見は微かに笑い、言葉を続けた。
「熊夫は、長い間自分のラーメンに限界を感じていた。だが、三國の教えが彼を変えた。それを確かめるのが、今回の旅の目的だ。」
茜は外の景色を見ながら呟いた。
「北海道の雪景色の中で食べるラーメン、なんだか特別な気がしますね。」
飛行機から降り立ち、レンタカーで進む道中、北海道の広大な雪景色が二人を迎えてくれる。白銀の世界が広がる中、やがて一軒の小さなラーメン屋「熊五郎亭」が見えてきた。店の外観は木造で、雪に包まれながらもどこか温かみを感じさせる。
「ここが熊五郎亭……素朴でいい雰囲気ですね。」
茜が店を見上げながら言う。
「熊夫のラーメンには、この土地の風土も反映されている。味だけではなく、雰囲気も料理の一部だ。」
塩見が静かに答える。
店の暖簾をくぐると、熊夫が元気な声で出迎えた。
「塩見さん!茜さん!遠いところ、よく来てくださいました!」
店内はこぢんまりとしているが、清潔感があり、地元の常連客の姿も見られる。厨房からはスープの湯気が立ち昇り、ほのかに醤油の香りが漂ってくる。
塩見と茜が席に座ると、熊夫が厨房から姿を見せた。
「今日は、このために新しいスープを仕込んでおきました。三國シェフから教わった『素材を活かす』という考えをもとに、北海道の食材を最大限に引き出しました。」
「どんな仕上がりになったか、楽しみだな。」
塩見が短く答えると、熊夫が嬉しそうに微笑む。
「スープはフレンチの『フォン・ド・ヴォー』と日本の昆布だしを融合させ、麺はスープとの相性を考えた特注品です。そしてトッピングには、鴨のコンフィや焦がしネギのピューレを使いました。」
茜が驚きの表情で声を上げる。
「ラーメンで鴨のコンフィなんて、初めて聞きました!本当にフレンチの要素が入ってるんですね。」
熊夫が厨房に戻りながら力強く言った。
「北海道の自然を感じられるようなラーメンを作りました。ぜひ味わってください!」
店内に響く鍋を振る音、スープの煮立つ香り。それは、これから登場する一杯への期待をさらに高めるものだった。
熊夫が厨房に立ち、調理を始める。
「まずは、このスープを見てください。」
そう言って、寸胴鍋から湯気とともにスープをすくい上げる。透明感のある琥珀色の液体が、小さな器に注がれる。
「スープには、フレンチのフォン・ド・ヴォーと昆布だし、さらに北海道産の野菜をじっくり煮込んで旨味を引き出しています。」
熊夫の説明を聞きながら、塩見は静かにスープを一口含む。
「……深い。フレンチのコクと和の旨味が見事に融合している。雑味が一切ない。」
塩見が短く感想を述べると、熊夫は満足そうに頷き、さらに調理を続ける。
「次は麺です。この麺は、北海道産小麦を使い、スープに負けないように作りました。コシを強め、スープの絡みを最大限に活かしています。」
その間、鍋から立ち上る湯気が店内を包み込み、ラーメンが出来上がる瞬間を予感させる。
茜が興味津々の様子で尋ねる。
「熊夫さん、三國シェフとはどんなお話をされたんですか?」
熊夫は調理の手を止め、静かに語り始めた。
「三國シェフに会ったのは、塩見さんが紹介してくれたときでした。最初、僕は自分のラーメンに自信がなかったんです。北海道の素材を使っても、どこか限界を感じていて……。」
茜が少し驚いた表情で言う。
「熊夫さんでも、そんな風に思うことがあったんですね。」
熊夫は少し笑いながら続けた。
「三國シェフは、最初にこう言ったんです。『料理は素材を最大限に活かす鏡だ。日本には世界に誇れる食材がたくさんある。それをどう料理に取り込むかが、料理人の腕だ』と。」
塩見が頷きながら言う。
「三國らしい言葉だな。」
熊夫はさらに続ける。
「それから、シェフが僕にフレンチの基礎であるフォン・ド・ヴォーを教えてくれました。『このスープの深みを和の出汁と合わせれば、全く新しい味が生まれる』と言ってくれたんです。でも、そのときの僕は、正直ピンと来ませんでした。」
茜が少し首をかしげる。
「でも、どうしてそこからここまでのラーメンが作れたんですか?」
熊夫は少し照れくさそうに笑いながら言った。
「三國シェフが、最後にこう言ったんです。『ラーメンもフレンチも、根本は同じだ。美味しいものを作るのに、国境は関係ない。ただし、一つだけ条件がある。それは、料理人が素材と向き合い、そこに命を込めることだ』と。」
その言葉に、茜は感動した表情で頷く。
「それが熊夫さんを変えたんですね。」
「はい。それから僕は北海道の素材をもう一度見直し、スープ、麺、トッピングを一つずつ試行錯誤しました。その結果、やっと納得のいく一杯ができたんです。」
ついにラーメンが完成した。
スープの上には鴨のコンフィが美しく盛り付けられ、その横には焦がしネギのピューレとポーチドエッグが添えられている。トッピングの彩りが美しく、まるでフレンチの一皿のようだった。
茜が一口麺をすすると、目を見開き、声を上げる。
「すごい……麺がもちもちしてて、スープと完璧に合ってます!香りもすごく上品!」
塩見は一口スープを飲み、続けて麺とトッピングを味わう。しばらく黙った後、静かに口を開いた。
「……これがラーメンの新しい形だ。フレンチの技術がしっかりと支えになりながらも、ラーメンとしての個性が確立されている。見事だ。」
その言葉を聞いた熊夫は、安堵したように息をつき、微笑んだ。
「ありがとうございます……!三國シェフの教えがなければ、ここまではたどり着けませんでした。」
熊夫は感慨深げに鍋を見つめながら語る。
「三國シェフが教えてくれたのは、ただの技術ではありませんでした。素材の力を信じ、そこに自分の思いを込めること。それが料理人としての誇りなんだと。」
塩見は静かに頷きながら言う。
「その教えが、このラーメンにしっかりと反映されている。お前は自分の殻を破り、新しい一歩を踏み出したな。」
熊夫は力強く頷き、こう答えた。
「これからも挑戦を続けて、ラーメンの可能性を広げていきます。北海道の魅力をこの一杯で伝えたいと思います。」
店を出る準備をしながら、塩見が熊夫に向かって静かに言った。
「料理に終わりはない。お前が今完成だと思ったこの一杯も、いずれ進化が必要になる。それでも、一歩一歩を大事にしろ。料理は生き物だ。」
茜が笑顔で手を振りながら言う。
「熊夫さん、また絶対食べに来ますね!次の新作も楽しみにしてます!」
熊夫は深々と頭を下げた。
「ありがとうございました!またいつでもいらしてください!」
次回予告
塩見と茜が次に向かうのは、九州の山間部にある隠れた名店。名物の地鶏を使った料理には、店主が代々守り続けてきた秘伝の技術が隠されているという。塩見が見抜く「伝統の裏に潜む挑戦」とは――。
次回、「炭火に宿る味」――地鶏と炭火が織りなす、一皿の物語。
読者へのメッセージ
ラーメンという身近な料理が、フレンチの技術や精神を取り入れることでここまで進化する――その可能性に驚いていただけたでしょうか?今回の物語では、料理人としての挑戦や成長、そして素材への向き合い方を描きました。
次回も、人と料理が紡ぐ新しい物語をお届けします。どうぞお楽しみに!
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