第10話 謎の女性

キーンコーンカーンコーン――

 「やめ。筆記用具を置いて、解答用紙を前に送ってください」

 試験管の先生の言葉で、張り詰めていた空気が一気に溶けた。

 「よっしゃー終わったー!」

 「やべえこれ赤点かも」

 「疲れたー」

 1週間続いたテストの最終科目である数学IIが終わったのだ。和也も大きく息を吐いた。

 今回は相当手応えがいい。佐々木との勉強のおかげだ。

 「あー、早川すごい自信満々な顔してる。最後の問題解けた?」

 横から吉川が話しかけてきた。

 「解けた。ちょうど昨日やった問題だった」

 「すごい。僕全然分からなかった」

 「最後どころか半分くらい分からなかったんだが。赤点かも……」

 吉川の前に座る山本が嘆く。テスト中は席が出席番号順になるため、人物の特定がとても楽だ。

 「どうせゲームばっかりやってたんだろ。ま、補習がんばれよ」

 「うるせー!元はと言えばお前が佐々木と勉強するとか言って俺のこと放置プレイしたせいだぞ!」

 「気持ちの悪い表現をするな。そして他力本願すぎるだろ。自業自得だ馬鹿」

 「正論すぎる……まあいいや。終わったことを気にしても仕方ないもんな。と言うことで、明日朝から遊ぼうぜ!ラウンド1行きたい」

 「あ、いいね!僕も行きたい」

 「あー悪い。俺明日は予定ある」

 「えー!」

 和也の返答に山本が声を上げた。

 「どうせまた佐々木だな?この浮気者!」

 「だから気持ち悪い表現やめろって。今日なら暇だ。まだ15時前だし、十分時間あるだろ」

 「ちっ、仕方ねーな。じゃあカラオケ行こうぜ」


 和也はスマホに電源を入れて、佐々木にLINEを送った。一緒に学校へ行くことになった時に、念のためにと交換したが、実際にメッセージを送るのは初めてだ。

 『今日は山本たちと遊ぶことになったから帰りは別々で』

 病気を告白してから、佐々木は本当に登下校を共にしてくれている。

 『了解』

 すぐに返信が来た。びっくりして佐々木が座っている方に視線を向ける。佐々木は転校生のため、廊下側の一番後ろの席に座っている。

 じーっと眺めていると、またスマホが振動した。

 『見すぎ』

 それをみて、自分の顔にカッと熱が集まるのを感じた。佐々木もこちらを見ているとは思っていなかった。

 『おかげさまで、数学の最後の問題解けました』

 『おめでとう』

 意外だ。佐々木って、基本既読無視なタイプだと思ってた。



 山本と吉川と、みっちり6時間カラオケで歌ったせいで、家の最寄り駅に着く頃には22時を過ぎていた。

 兄・優也も、バイトが終わり、今電車に乗ったところらしいため、改札を出たところで待つことにする。


 しばらくぼーっと突っ立っていると、ふと隣に気配を感じた。いつの間にやってきたのだろうか。いきなり振り向いて凝視するのは気が引けたため、そっと足元に視線を向けた。女性ものの、軽いヒールのついた靴を履いている。そっと視線を上げると、深緑色のロングスカートを履いていることが分かった。その上は白のシンプルなブラウスだ。

 改札前の広い空間に、自分とその女性しかいないにも関わらず、異様に近くに立たれている気がして、さりげなく距離を取ることにした。十分離れたところで、そっと後ろを振り返る。

 「うわぁ!」

 その瞬間、和也は叫び声をあげて尻餅をついた。

 その女性が真後ろにいたのだ。しかし驚いたのはそれだけが理由ではない。

 「か、か……!」

 口をパクパクさせて後退りながら、女性を指差す。

 「ごめんね、驚かせちゃって。大丈夫?立てる?」

 手を差し伸べてくる女性の表情から、彼女に悪気がないことが、和也にも「見て」とれた。

 どういうことだ!?もしかして障害が治った?

 「あ……えっと、すみません。立てます」

 混乱しきったまま、和也はなんとか立ち上がった。そして、意を決してもう一度女性の顔をしっかりと見た瞬間、息を飲む。

 少し透き通るような白い肌に、大きな瞳が柔らかな光を湛え、控えめに弧を描く唇がその顔立ちに上品な優しさを添えている。長い黒髪は自然な艶をまとい、その清楚な魅力をいっそう引き立てていた。年齢は20代半ばくらいだろうか。穏やかでどこか懐かしい雰囲気が、和也の心に奇妙な安らぎを与えた。

 息を呑む和也を見つめる女性の瞳は、優しい光を帯びていた。

 「久しぶりね、和也くん」

 その言葉を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。彼女の声は穏やかで、まるで昔から知っている相手に話しかけるかのようだった。しかし、和也にはまったく身に覚えがない。

 和也が女性を見つめたまま言葉を探していると、電車の到着を知らせる音が駅構内に響いた。ハッとして改札に目を向けると、優也がちょうど出てきたところだった。小さな鞄を肩にかけ、バイト終わりの疲れた顔でこちらに向かってくる。

 

 「よっ、待たせたな。……どうした?変な顔して」

 優也の声で我にかえった和也が、後ろを振り返ると、そこにはもう誰の姿もなかった。

 「あれ……」

 周囲を見回したが、先ほどまで目の前にいた女性はどこにも見当たらない。

 「どうしたんだよ?」

 優也が怪訝そうに顔を覗き込んでくる。

 「いや……ここにさ、女性がいたんだけど……」

 和也は優也に向き直り、改めてその顔を見る。だが――兄の顔は見えなかった。いつもの通り、輪郭もぼんやりとしたままだ。瞬間、和也は悟った。

 ――やっぱり、治ってなんかないんだ。

 失望と混乱が胸に重くのしかかる。優也が眉をひそめた。

 「女性? いや、お前以外誰もいなかったけど?」

 「でも、いたんだよ。すぐそこに……白いブラウスに深緑のスカートを履いた女性が。ヒールのついた靴でさ……それに顔だって、ちゃんと見えたんだ。すごく目が綺麗で、色白で、黒髪が似合ってて……」

 和也の言葉を聞いた優也は、少し間を置いてから顔をしかめた。

 「お前、疲れて幻覚でも見たんじゃねえの? カラオケ6時間ぶっ通しだったんだろ?」

 「いや、本当に見えたんだよ!」

 力を込めて訴えるが、優也は呆れたように肩をすくめた。

 「へえ……で、惚れたのか?」

 「え?」

 突然の言葉に、虚を突かれる。

 「だってお前、めちゃくちゃ褒めるじゃん。その人の容姿」


 「なっ……!違うよ!大人の人だったし――」

 「ほー。和也くんは熟女好きだったんだ〜」

 「だからそーじゃなくてっ」

 そこまで言って、自分が優也の挑発に乗っていることに気づく。

 「……もういい。帰ろう」

 「おっと、怒るなって。いいじゃん。俺も好きよ、年上のおねーさん」

 優也がニヤニヤと笑いながら先に歩き出す。その後ろを和也はモヤモヤとした気持ちでついて行った。


 確かに、幻だったのかもしれない。でも、あの女性の穏やかな声と懐かしい雰囲気だけは、どうしても頭から離れなかった。

 

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