第9話 試験勉強

佐々木の案内で無事に家に着いた和也は、彼を2階の自室に招いた。部屋には机と本棚があり、その一角に教科書や問題集が積まれている。


 「狭いけど、適当に座ってくれ」

 机を指さすと、佐々木は「ああ」と言って腰を下ろした。その仕草はどこか慣れていて、和也は不思議な安心感を覚えた。

 勉強を始めると、和也は数学の問題集を開き、赤ペンで印をつけた箇所を佐々木に見せた。

 「これ、途中までは合ってると思うんだけど、この先でどうしても詰まるんだよな」

 佐々木は問題集を手元に引き寄せると、問題文を一瞥する。

 「……極限の問題か」

 しばらく問題集を眺めていた佐々木が、和也の解答を指差した。

 「ここの式変形が間違ってる」

 「え、これじゃダメなのか?」

 「分母のところ……この絶対値、外す前に場合分けが必要だろ」

 佐々木はさらさらと紙の隅に補足説明を書き足していく。佐々木の書くメモは余計な情報が削ぎ落とされており、簡潔に整理されていた。

 「で、こうやってε-N論法を使って証明終わり」

 書き終えると、佐々木は何事もなかったかのように和也の方へノートを押し戻した。

 すごい。こいつ、本当に頭がいいんだな。

 「俺がやった方法でも、計算ミスしなければ解けてはいたよな?」

 「間違ってないけど余計な計算が増えてる」

 「そっか……なるほど、整理の仕方が全然違うんだな」



 次の問題に移った。今度は空間ベクトルの応用問題だった。

 「これ、三角錐の体積を求めるやつなんだけどさ、どうやっても途中で計算がぐちゃぐちゃになるんだよな」

 自分で解いたノートを見せると、佐々木は怪訝そうな顔をした。

 「……これ、いちいち辺の長さとか出す必要ないだろ」

 「だって、普通そこからやるんじゃないの?」

 「外積使った方が早い。これ三次元だし」

 佐々木は無造作に和也のノートを開き、空間ベクトルの公式をさらさらと書き始めた。

 「これが底辺のベクトル、これが高さ。外積で平行四辺形の面積出して半分にして……体積はこれで終わり」

 「……待って、そんな簡単に終わるの?」

 「簡単だろ」

 「いや、俺のやり方だと10行くらいかかったのに……」

 佐々木の書いたノートを食い入るように見つめながら、和也は心底感心していた。


 「ていうか、お前教えるの上手すぎだろ」

 「そうか?」

 「いやマジで。学校の先生より全然分かりやすい。俺、他人の解説がこんなにスッと入ってきたの初めてだわ」

 佐々木は少し眉をひそめて黙り込んだが、顔をそむけるようにしてペンを置いた。

 「別に普通だろ」

 「いやいや、こんなの普通じゃないって。職業にできるレベルだよ。塾の講師とかマジで向いてると思う。こう、難関大向けのさ」

 「……大袈裟すぎ」


 その後も、さまざまな数学の難関問題を佐々木は淡々と解説していった。

 「……でもさ、このレベルの問題をそんなに簡単に解けるやつ、なかなかいないよな」

 「お前も結構解けてるだろ」

 「いや、俺は考え方が散らかるタイプだし、時間もかかる。佐々木みたいにぱぱっと筋道立てては解けないよ。本当にすごい」

 褒め続けられて佐々木はむず痒そうに顔をしかめていたが、和也は知る由もない。


 気がつけば時計の針は午後7時を指していた。ペンを置いて大きく伸びをする。

 「ありがとう、佐々木。ほんと助かったわ」

 「別に」

 佐々木はそっけなく答えると、和也の問題集を軽く押し戻した。


 「ていうか、結局俺の勉強に付き合わせちゃったな。ヤバそうなの世界史と古文と現代文だっけ? でも佐々木なら前日に教科書に目通すだけでいけそうだな」

 「じゃあ前日に教科書貸してくれ」

 「いいよ。ていうか、リビングにコピー機あるから印刷する?」

 「……助かる」

 和也が立ち上がり、階下に向かおうとしたその時、玄関の鍵が開く音がした。続いて、母親の「ただいま」という声が聞こえてくる。


 和也が佐々木と一緒にリビングに下りると、ちょうど優子が買い物袋を片手にキッチンへ向かおうとしていた。和之もスーツ姿のまま後ろから続いてきた。


 「おかえり」

 和也が言うと、優子が足を止めて振り返った。そして佐々木を見た瞬間、彼女の表情が一瞬固まった。


 「あら、和也のお友達?」

 その声はいつもと変わらない明るさだったが、その奥には微かに緊張が隠されているようだった。

 「佐々木です」

 佐々木が簡潔に名乗ると、優子は一瞬言葉を失ったが、次の瞬間には普段通りに戻っていた。

 「佐々木くんね。いらっしゃい!和也が友達を連れてくるなんて珍しい」

 「もうすぐテストだから一緒に勉強してた。最近転校してきたんだけど、家がめちゃくちゃ近所だったんだ」

 「そうなのね。お腹空いてない?今夜はカレーだから、よかったら食べていって」

 優子はにこやかに言いながら、買い物袋を持ち上げてキッチンへ消えていった。

 「部屋で勉強してたのか。疲れただろうから、リビングで少しゆっくりしなね」

 和之も佐々木に気さくに声をかけてから、シャワーを浴びに行く。

 一方で和也は違和感を覚えていた。うまく説明できないが、両親と佐々木の間に漂う空気がどことなくぎこちないような気がしたのだ。

 「お前の親、元気だな」

 「まあ、そうだな。お前も腹空いてるだろ?うちのカレー、結構うまいぞ」

 「いや、今日はもう帰るよ」

 「そうか?じゃあ俺、送っていく」

 「ばか。お前が来たら俺がまた送り返すハメになるだろ」

 「あ、そっか」

 ――ガシャン。

 キッチンで、お皿が落ちる音がした。

 「え、母さん?大丈夫」

 「ごめん。ちょっとびっくりして。佐々木くんに話したんだね。病気のこと」

 驚いたような声で優子が言う。和也は家族以外に病気を知られることを極端に嫌がっていため、無理はない。

 「あー、今日バレた。そうだ、暇な日は帰りも一緒に帰ってくれないか?工事終わるまで」

 「……いいけど、工事ってなんだ?」

 「駅前、工事してるだろ。そのせいで今まで通学の目印にしてた看板がなくなったんだよ。それまでは俺だってちゃんと1人で学校に行けてたんだ」

 「なるほどな。それであの日、道端にしゃがんでたのか」

 「う……あれはもう忘れてくれ」

 そんなやりとりをする和也たちを、優子は優しい眼差しで見つめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る