そ の 2

 恭子と瑞樹に伴われて、じきに宗介が現れた。


「お早う、千鳥」


 挨拶する宗介は、不機嫌であるかのようなむっつり顔にへの字口。つまりいつもどおりだ。どうやら冷やかしは彼には向けられなかったらしい。


「おはよ」


 ちらっと視線を合わせてから、かなめは気恥ずかしさを隠すために慌てて背を向け、茶碗にご飯をよそる。恭子が味噌汁を注ぎながらアユの話題を振ると、宗介がいつになく熱心に釣り談義を始め、話題が逸れたことにホッとした。


 四人とも席について食べ始める。最初こそまた大根おろし入り納豆に話が戻ってしまったが、かなめの大声ですぐにそれは中断した。といっても冷やかされてキレたのではない。宗介の取ろうとした行動が原因である。


「ソースケ! ストップ!!」


 ぴたっと宗介が動きを止めた。驚いた恭子と瑞樹が注視する。凍り付いたように身動きしない彼を、隣の席に座るかなめは睨みつけた。


「いったいなにをしようとしたのかな?」


 言葉こそ質問の形式を取っているものの、語調がはっきりと自分を責めているのだということは、さすがに宗介にすら感じ取れた。だが、なにが良くなかったのかはわからないので、するつもりだった内容をそのまま告げるしかない。自分の右手を見下ろして、答える。


「味噌汁を飯に掛けようとした」

「うん、そうだと思った」


 宗介の右手は汁椀を持ち上げており、その椀はほんの少し傾いている。あと五度も傾ければ、確実に中の味噌汁は、ほかほかと湯気を立てているつやつやの真っ白いご飯の上に流れ落ちていたことだろう。


「とにかく一旦お味噌汁を下ろしたら?」

「そうね」


 恭子の冷静且つ的確な提案にかなめが同意する。宗介は汁椀をテーブル上に戻して、かなめ、恭子、瑞樹の顔を順繰りに見やった。


「……いけないのか? 小野寺がこうすると美味うまいと言っていたのだが」


 瑞樹と恭子が困ったように顔を見合わせた。


「いけないってわけじゃないけど」

「う~ん、好みの問題もあるし、メニューとして出してるお店もあるっていうから、なんともいえないわね」


 少女たちの返答は今ひとつはっきりとしない。宗介はかなめの顔色を窺った。


 当のかなめはというと、箸を強く握りしめて怒りを露わにしている。


「オノDのヤツ、余計なこと教えて!! よりにもよって犬まんまだなんて」


 宗介は、自分に対する怒りではなかったことにとりあえず安堵した。


「犬まんま? つまり犬用のエサなのか? 俺はからかわれたのか?」


 かなめが首を横に振る。


「そうやって食べる人もいるわ。一応は人の食べ物よ、一応ね。なぜか犬まんまって呼ばれてるの。昔は犬に人の残り物を食べさせていたからって説も聞くけど、本当のとこはよく知らないし、別に知りたくもない」


 かなめと宗介のなぜか深刻気なやり取りをよそに、あとの二人は呑気な調子に戻っていた。


「オノDなら食べてそうね、犬まんま」

「う~ん、かもね」


 瑞樹が軽口を叩くと、恭子が苦笑いを浮かべた。


「ねえ知ってる? 西日本じゃ、これを猫まんまって言うんだってさ」

「え? 猫まんまって鰹節をご飯にのせるんでしょ? それじゃ犬まんまはどんなの?」


 瑞樹の雑学披露に、思わずかなめまでがノッてしまった。


「さあ知らない。でもほら、麺類のキツネとタヌキの違いなんかと同じようなもんじゃないの?」

「そーいえば、おでんの具のこと、西だとテンプラって呼ぶんだよね?」


 少女たちの話題がどんどん逸れていく。


「……犬まんまに猫まんま? 地方によって名称や具材が変わるのだな。……麺料理には食材としてキツネとタヌキを使用するのか? ……おでんと天麩羅は別物ではなかったのか?」


 真面目に聞き入っていた宗介はすっかり混乱した。慌ててかなめが遮る。


「覚えなくていいわよ。ってか今はまだ必要ない知識だからむしろ忘れなさい。それよりソースケ」


 かなめがぴっと人差し指を立てた。宗介がかしこまる。


「今後ご飯にお味噌汁をかけて食べるのは、絶対にやっちゃダメ。これは肝に銘じて決して忘れないこと」


 ねめつけるような強い視線に戻ったかなめが、きっぱりと宣告した。


「なぜだ? 君は先ほど人の食べ物だと言った」

「一応って付けたでしょ、一応って。行儀が悪い食べ方なのよ! 自分でならまあ許されるけど、よそ様の家でやったらすごく不作法なの。それにあたしが個人的に好きじゃない。いい、ソースケ、もしあたしの前でやったら、二度とご飯作ってあげないからね」

「了解した」


 宗介は即答した。かなめの食料支援がなくなるのは大きな痛手だ。


「よろしい」


 満足げにかなめは食事の続きに戻る。


 だがそれは数分と続かなかった。またも室内にはかなめの怒鳴り声が響く。


「だあああ、やめーーーい!」

「どうかしたのか?」

「ここが河原かキャンプ場だったらそれでもいい。でも食卓ではダメ。箸はきちんと使いなさい」


 少女たちの視線の先には、箸の突き刺さったアユの姿があった。


「そうしている……つもりだが……これもダメなのか?」


 かなめの冷たい眼差しに、宗介の語尾が弱々しくなっていく。


「ダメ。箸で魚の身をほぐすのよ」

「…………」


 フリーズしたまま、宗介はじっと手元を見つめる。その表情には、恭子や瑞樹ですら読みとれるほどの困惑が浮かんでいて、彼が困り切っていることがよくわかった。


「すまん、意味が理解できない」


 少女たちは、渋い顔になる、苦笑いする、面白げな表情になる、という三者三様の反応を示した。


「マジみたいね。さあ、どうする、カナメ?」


 瑞樹は状況を楽しんでいるらしく、くすくすと笑っている。


「相良くん、とにかくお魚をお皿に戻して」


 やんわりと諭すような恭子の言葉に従い、宗介は力無くアユを下ろした。


 かなめがすっと立ち上がった。宗介がびくりとするが、相手の顔に怒りの形相はないことを見て取り、おとなしく出方を窺う。


「ほら、こうするの」


 彼の右側に回ったかなめは、自分の箸を使って丁寧に手本を見せてやる。


「こうやって一口分ずつほぐしていくの」

「う、うむ」


 真似ようとしてみるが、元々箸使いが上手うまいとはお世辞にも言えない宗介である。なにしろ納豆をのせたご飯は箸では扱えないので、スプーンで食べているくらいだ。尾頭付きの焼き魚などという、高度な技術を要する箸使いは至難の業だった。柔らかい身がぼろぼろにくずれてしまう。


 かなめがハアッと大きく溜息をついた。


「……やってあげるから貸しなさい」


 諦めきった声音で宗介によるアユの解体作業を停止させ、皿ごと預かった。その所有者の目の前で、上側の身をすべて一口大にほぐし、骨を外して皿の外側に除け、下側の身を一口大にほぐす。すべてを手早く終えると、持ち主に返した。


「はい。これを一つずつ箸で摘んで口に運ぶこと」

「助かる」


 まったく手間がかかるんだから、とかなんとかぶつぶつ言いながら自分の席に戻って初めて、かなめは恭子と瑞樹がいわくありげな顔つきで自分と宗介を見つめていたことに気付いた。来る、と思った瞬間、やはり予想通りのセリフが矢継ぎ早に襲いかかる。


「なんだかんだ言っても、やっぱりカナちゃんって相良くんの面倒はみちゃうんだよね」

「なんていうか二人の世界?」

「うん、新婚さんみたいだったよ」

「まあ夫婦ってよりは、母と子って印象もなきにしもあらずだけど、そういうカップルもホントにいることだし」

「とっても仲睦まじい感じ」


 二人の語尾にハートマークが見えたような気がして、かなめは目眩すら感じた。両の拳をぐっと握りしめる。


「二人とも何言ってんのよ!! だって放っておいたら、マナーも何もあったもんじゃないでしょ!?」

「はいはい。ね、マナーって言えば、この頃は相良くん、ハンカチとティッシュも持ち歩くようになったよね」


 かなめの言い分など、恭子に簡単にいなされてしまった。


 唐突に自分の名前が出てきて、宗介が顔を上げる。朝食の続きに没頭していても、少女たちの会話内容はちゃんと耳に入っていたらしい。


「千鳥から厳命を受けたのでな」


 実際それは事実だった。以前の宗介は、手を洗っても簡単に水を払ってお終い、ポケットティッシュなど一度も持ち物として考慮したことなどなかった。だが今では、かなめの命令に従ってその両方を必ず制服のポケットに入れるようになっている。


「そういえばさっきも、来たらまず洗面所に行って手を洗ってうがいしていたわね」

「それも千鳥からの指示だ」

「なんていうか、カナちゃんの躾が行き届いているって感じだね」

「カナメ、トップブリーダーになれるよ」

「やだなあミズキちゃん。だから相良くんは犬じゃないってば」


 もはやかなめからは反論する意欲が消え失せていた。


 そんなこんなでムダに大騒ぎしていたせいで、バーゲンが行われるデパートの開店時間に合わせて早めに起き出したことなど、少女たちはすっかり忘れ去っていた。

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