箸と魚のディスコード

千早さくら

そ の 1

 低血圧で普段は寝起きの悪い人間でも、月に一度や二度は速やかに目覚める朝もある。


 常盤恭子が恐る恐る起こしたときの千鳥かなめは、その非常に珍しい朝に当たっていたようで、すぐにのそのそとベッド上で半身を起こし、ほんの数十秒ぼうっとしただけという彼女にしては驚異的な反応の良さで「おはよ」と呟いた。


「お早う、カナちゃん。起きられる?」

「あ~、うん、らいじょぶ」


 多少呂律が回っていないくらいで、不機嫌な様子はない。きれいな顔立ちに反した虚ろな表情を浮かべ、大きめで切れ長の目を半眼にし、だらしなく大口を開けて欠伸をしているのは朝のデフォルトだ。だがいつもと違って、「朝」に対する呪詛の言葉がない。


 しかも、ん~、と大きく伸びをしてから、即座に立ち上がってさっさと着替え始めた。いつもなら這い出るようにしてどうにかこうにかベッドを抜け出し、のろのろとパジャマを脱ぎ始めるというのに。


「すぐに朝ご飯つくるからね。ちょっと待ってて」


 すでに口調がはっきりとしていて、しかも笑顔まで浮かべてみせたため、少なからず恭子を驚かせた。トレードマークのとんぼメガネがずり落ちたほどである。


「こういう日もあるんだねえ」

「ん? なに?」

「ううん、なんでもない」


 ここで機嫌を損ねては元も子もない。恭子は慌てて首を横に振る。動きに従って、お下げ髪に結んだ大きなリボンがぴょこぴょこと跳ねた。


「コーヒー淹れてるから早くおいでね」

「うん。すぐ行く」


 恭子が部屋の扉を閉める寸前、すでにかなめはキャミソールを身につけ終えていた。


 洗面所経由で彼女がリビングに入ってきたのは、それから十分と経っていなかった。先ほどはくしゃくしゃだった腰まで届く長い黒髪もきちんと整えられて、先っぽの方には赤いリボンが揺れている。


「うわ~、朝なのにカナメがまともだわ」


 いつものゾンビ姿を予想していた稲葉瑞樹が、あらかじめ避難していたリビングのソファから大声を上げた。梳かしていたところだったのか、セミロングの髪の途中でブラシが引っかかったまま、呆気にとられたように手の動きを止めている。


 恭子も瑞樹も、前夜からかなめ宅に泊まりがけで遊びに来ていた。すでに何度も泊まったことのある二人は、家主の寝起きがすこぶる悪いことをよくよく承知しているのだ。


「間違いなく今日は嵐になるわね」


 瑞樹が、背後の窓の向こうに広がる青空を右手のブラシで指し示しながら断言する。つられて恭子まで頷いてしまった。


「失礼なヤツは朝食抜き」

「カナちゃんったらあ」


 いつでも仲裁役の恭子からマグカップを手渡され、かなめはおとなしくキッチン・テーブルに着いた。淹れたてのコーヒーから立ち上る芳香は、気分を良くしてくれるものだ。ちびちびと啜りながら、恭子が自分と瑞樹の分を氷入りのグラスに注いでアイス・コーヒーにする作業をほけ~っと眺めていた。


「このクソ暑い中、よくホットでなんて飲むわね」


 向かいの席に陣取ってグラスを片手にした瑞樹がからかうものの、さすがにエンジン全開とまでなっていないかなめは「単なる習慣」という簡素な反論を呟いただけだった。琥珀色の液体に浮かんだ氷が時折チリンと鳴る音は確かに涼しげだが、たとえ真夏であっても起き抜けの一杯は熱めのブラックでないとどうにも目が覚めないのだ。


 今日これから出かける予定のバーゲンについて瑞樹と恭子があれこれ話しているのを聞きながら、時間をかけてカップの中身を飲んでいるうちに、脳を覆っていた眠気という名の薄膜が徐々に剥がれていく。飲み干した頃には、かなめはかなり活動モードに切り替わってきていた。そこそこに威勢良く立ち上がる。


「さ~て、朝食作りに取り掛かるとしますか」


 いつもの手際の良さで、かなめは味噌汁と出汁巻き卵と焼き魚の調理を同時進行していく。傍らでは恭子が、任されたホウレンソウのお浸し作りに専念し、瑞樹は食器をテーブルに並べてから、味付け海苔と納豆を容器から小皿と小鉢にそれぞれ移し替える。見る間に朝食のテーブルは整えられていった。


 魚の焼き具合を確かめるために、かなめがグリルから少しだけ焼き皿を取り出す。ちょうどそれを見ていた瑞樹から、


「あれ? アジの開きじゃないの!? 昨日ちゃんと買ったじゃない」


 と苦情が上がった。


 その朝のメニューは、瑞樹のリクエストによるものだった。「先週遊びに行った海で泊まった民宿の朝食の再現」というのが要望だ。瑞樹の言質に依ると、「いつも家族旅行で宿泊するホテルや旅館と違って、庶民的で質素な和朝食っていうのもたまにはいい」のだそうだ。


「そこはアレンジってことにしといてよ。開きは日持ちするでしょ。アユは新鮮なうちに食べちゃわないと」


 グリルの中でジュージューといい音を立てているアユは、三人のクラスメイトであり、かなめにとっては隣人でもある相良宗介が、前日の夕刻に土産として持参してきたものだった。


 少女たちが吉祥寺で雑貨店を覗いたりコーヒーショップでケーキセットを食べたりして過ごした土曜の午後を、宗介は友人の小野寺孝太郎や風間信二と共に多摩川上流で釣りをして過ごしたとのことだ。河原で焼いて食べてもまだ充分に残り、それぞれ自宅に持ち帰ったほど大漁だったらしい。


 十五センチほどもある大振りのアユに、もちろんかなめは大喜びだった。だが生憎と魚が届いたときにはすでに夕食の下ごしらえは済んでいたので、翌朝のおかずに持ち越されたというわけである。


「すごく美味おいしそうだよ、ミズキちゃん」

「確かにね。アユの塩焼きなんて久しぶりだし、まあ良しとしてあげる」

「へーへー、それはどうも。あ、キョーコ、ソースケに電話してくれる? あと二、三分でできるからって」

「うん」


 PHSを操作している恭子の傍らで、かなめが大根と卸し金を取り出した。


「大根おろし作るの?」

「そっ」


 瑞樹への返事と同時に、かなめは大根を卸し始める。


「アユに添えるの?」

「ううん、納豆に混ぜるのよ」

「納豆に? 大根おろしを? へえ、そんな食べ方あるんだ」

「結構いけるよ。ミズキも試してみる?」

「うん」

「相良くん、すぐに来るって。大根おろし、あたしのにも入れて! どんなのか食べてみたい」


 話し終えてPHSをポケットにしまった恭子も、物珍しそうにしていた。


「……あれ、でもなんで大根おろしなの? カナちゃん、前にネギだけが好きだって言ってたよね」


 かなめが肩をすくめる。


「ソースケがどうも納豆は苦手みたいなのよ。食べないことはないんだけどね。それで卵やら野沢菜やら入れていろいろ試してみたら、これが一番食いつきが良かったの」

「食いつきって、犬じゃないんだから……。でもカナちゃんってば、そこまでやってあげてるんだ」

「だって納豆は身体にいいから」

「うん、相良くんのためだもんね」


 恭子がにっこりと天使の微笑みを浮かべた。他意がないようでいて大ありなのは、もちろんかなめにもはっきりわかる。


「あのねえ、キョーコ──」


 そんなんじゃない、と言いかけたところに、にやにや顔の瑞樹が口を挟んだ。


「あたしは納豆ってとこにツッコミたい」

「へ?」

「納豆はたいてい朝食べるでしょ? しょっちゅう朝ご飯を作ってあげてるってことよねえ。すっごく意味深じゃん」

「ななななに言ってんの。たまに作り過ぎちゃた時に呼ぶだけよ」


 恭子のにっこりと瑞樹のにやにやは止まらない。


「カナちゃん、素直じゃないんだから」

「へ~、朝っぱらから作り過ぎねえ」


 ぐっと詰まったかなめが否定のセリフを考えている間に、玄関の呼び鈴が鳴った。


「ほ~らカナメ、旦那様がいらしたわよお」

「あのね、ミズキ──」

「まあまあカナちゃん。あたし開けて来るから、早く盛りつけちゃいなよ」


 二人は反撃が来る前に逃げてしまえといわんばかりに、さっさとリビングを出て行ってしまった。

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