永遠の夏休みが終わるとき

春木みすず

第一章 イケブクロ

 やってしまった。

 私──杉崎アヤカはひどく後悔していた。家出なんてものは、自分とは絶対、無縁だと思ってたのに。

 いや、厳密にいえば家出とはちょっと違うかもしれない。そう、私はきっと自分から家出することはできなかっただろう。


 話は今日の放課後、帰宅部の私が早々に家に帰った時にさかのぼる。家に着いた私は、母の顔を見て、すぐに状況を把握した。

 うわ……、バレた。

「アヤカちゃん。これ、なにかな?」

 お母さんが指さした先には、私がなけなしのおこづかいで買った、最近流行りの漫画の最新巻があった。

「……!!」

 私は、この感じはウソをついても無駄だろうなと思った。

「アヤカちゃんのよね? 掃除してて、見つけたんだけど」

 頑張って隠してたのに……どうして見つけられるんだ。私の部屋どんだけ調べてるの?

「うん……」

 お母さんは、小さな子に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「アヤカちゃんは勉強が一番、大事よね? そうよね?」

「うん……でも、」

「よかった! じゃあ、馬鹿になっちゃうのは嫌だよね?」

「うん……」

「コレは馬鹿の読むものなの。だから、捨てていいよね?」

「……お母さん」

「嫌じゃないよね? アヤカちゃんは馬鹿じゃないもんね?」

「……」

 やめて、と言いたい。

 でも、私はいつも、その一言を口に出せない。

「うん」

「よかった。コレより小説とかの方がアヤカちゃんはずっと好きだもんね! 今度、また一緒に本買いに行こうね」

「……ごめん、お母さん。ちょっと、散歩に行ってくる」

「すぐそこの公園までよね? わかってるとは思うけど、夕飯までには戻るのよ。戻ったら、」

 次にお母さんが発する言葉がわかる。一番言ってほしくない言葉。


「一緒に、コレを捨てようね」


 ドアが閉まった瞬間、私は公園へ駆け出した。

 もういやだ。もう沢山だ。

 なんで私はこんなにダメなんだろ。豆腐メンタルの私の目には涙がにじんで視界が悪かった。

 私はお母さんに色んなものを管理されている。漫画とゲームは禁止。テレビもバラエティはNG。SNSのやり取りは見られるし、時間も制限されてる。他にもいろいろ。それが当たり前だと思ってた頃はまだ、良かった。高校一年になった今、友人の話についていけないことは死活問題だ。

 嫌だと思ってるけど、お母さんにそれを伝えるのが怖い。お母さんは否定されるとすごく不安定になって、私が折れない限りは機嫌が直ることはない。私のせいで家族の空気がギスギスするのが嫌で、結局は言うことを聞いてしまう。

「こんなんじゃダメだよね…」

 わかってるんだけど、なんとかできない自分が本当、嫌い。

 ため息をつきながら、夕飯の時間ギリギリまで粘ろうと公園のブランコに座っていた私は、変わった人を見かけた。

 浅黒い肌をした、すっごく美形な男の人だった。キョロキョロしてたので、道に迷ったのかな? と思った。執事みたいな燕尾服を着込んでいる。

 その男の人は、私を見ると、まっすぐこちらに向かってきた。

「杉崎アヤカさんですね?」

 道を聞かれるつもりでいた私は、急に名前を呼ばれて驚いた。

「ど、どちら様ですか」

「申し遅れました、私はスズキと申します。貴女をご招待しに来ました」

「へ?」

「公園のブランコで人知れず泣く、そんなベタな悲劇のシチュエーションに陥っている貴女。貴女のような、どこか遠くに行ってしまいたいと思っている人を、私の街に案内するのが私の役目です」

「いえ、間に合ってます」

 ヤバい人だと悟った私はブランコから立ち上がった。

「まあまあちょっと待って下さい。貴女は家出って、したことあります?」

「ないです」

「絶対にバレない家出があったら、してみたいですか?」

 バレない?

「家出したことがバレないってことですか?」

「そうです。親にも、友達にもバレない。誰も、貴女が遠くに行ってしまったことに気づかない」

 随分めちゃくちゃなことを言い出した。そんな家出、不可能に決まってる。

「できるわけないじゃないですか。できるもんならやりたいですけど」

 それを聞いたスズキは、嬉しそうに笑った。イケメンの笑顔は眩しい。

「良かった。それじゃあ早速ですが、貴女をご案内致します。」

「『イケブクロ』へ」

 スズキがそう言ったそのとたん、ぐわんと視界が揺れ、重力が逆転するような感覚に襲われた。

 吐き気を感じて頭を抑え、視界が定まったときには、私は見慣れないバスの中にいた。

「えっ!?」

 私は一瞬前まで、夕暮れの公園にいたはずだった。それが現実だった。でも今の私の感覚器官は、バスの揺れ、独特の匂い、白い蛍光灯の情報をありありと私に伝えている。

 私は突然の出来事に卒倒しそうになりながらも、とりあえず運転席に向かって揺れるバスの中を移動した。そこにはさっきの男性がいた。

「ちょっと!」

「はい」

 彼はこちらを見ずに、落ち着いて答えた。

「ここはどこですか?」

「停滞と混沌の街、『イケブクロ』へ向かうバスの中です。」

 池袋?

「さっきの、本当だったの?」

「もちろん」

 私はひどくうろたえた。冗談だとばかり思っていたからだ。

「か、帰して! 家に帰してよ」

 すると、彼はゆっくりと振り返って言った。

「いいですよ。杉崎アヤカさん。別に、戻してあげても。でも、あなたはあそこに帰りたいですか?」

「え」

「戻ったらあなたは、捨てるんでしょう、漫画を」

 長い睫毛の間から、全てを見透かしたような褐色の瞳で見つめられて、私はうろたえた。

 帰りたくは……ない。

 でも、さっき公園にいたときは、本当に帰らないつもりはなかった。私は結局、お母さんのルールを守るつもりでいた。

 でも、今なら……この謎の人物のせいと言い訳して、それを破れる?

 池袋なら、うちからそんな遠くもないし。帰ろうと思えばすぐ、帰れるし……

「大丈夫ですよ。言ったでしょう。絶対に、誰も気づかないですから。それでも、戻りますか?」

 私は無意識に、首を横に振っていた。


 あーなんであの時「戻る」って言わなかったんだろ。私は放課後から今までを振り返ってまた後悔しだした。そもそも、今の状況がめちゃくちゃ意味不明だ。

 私はバスの窓を見つめた。薄暗くなった街に、いつの間にか降りだした雨が打ち付けていた。

 小さな舌打ちが聞こえたので、私は驚いて振り向いた。他にも、乗客がいたんだ。

 そこにいたのは男の子だった。やせ細っていて、小学生高学年くらいに見える。恐らく、中学生ではないだろう。

 私は少し迷ったけれど、その子に話しかけることにした。だいぶ話しかけられたくなさそうな雰囲気を醸し出していたけど、あんな小さな子、放っておくのも良くないよね。他に乗客もいないし。ああ、この期に及んで人目を気にしてる自分がイヤだ。

 私は運転手の近くの席から、その子の隣に席を移動した。

「こ、こんばんは。名前は何て言うの? 私は、杉崎アヤカ」

 男の子は私を忌々しげに見た。

「教えるかよ」

 私は少し傷ついたが、フォローするように言った。

「! ……そうだよね、見ず知らずの人に、教えたくないよね、名前」

「……」

「うん……いや、君はどうやってここに来たのかなって思って」

 もう喋ってくれないかな?

「俺は」

 お、喋った。

「俺は親を捨ててやったんだ」

「親を、捨てた?」

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