後朝

千早さくら

後 朝

 ……洗濯しなきゃ……掃除も……布団も干したいし……買い物に行かないと冷蔵庫カラッポ……。


 まだ半分眠っている頭で、かなめはぼんやりとそんなことを考えた。


 休日の朝に目覚めてまず思い浮かんだ事柄が家事であるのは、自分でも微妙におばさん臭く感じられた。少なくとも高校生らしくはない。だが、優先的にやらなければならない事柄であるのは事実だ。


「う~~~」


 かなめはペンギン時計に片手を伸ばした。六時半を少し回っている。普段起きる時間よりもいくらか早く目が覚めたわけだ。せっかくの連休初日、無駄にしないためにも二度寝はできない。


 緩慢な動作で体を起こし、寝乱れてくしゃくしゃの髪に指を突っ込んで頭を掻く。


「ねみぃ~。かったりぃ~」


 一人暮らしで身に付いてしまった独り言は、ほとんど毎晩をいっしょに過ごす相手ができてもすぐに治るものではない。


「……あれ、パジャマ?」


 自分がなにも着ていないことに気付いて周辺を見回した。水色のパジャマの上下は、白のショーツと共に枕元に無造作に置かれていた。


「んー、と」


 まだ回転の鈍い頭で状況を考える。


 答は自分の裸体に見つかった。胸や内腿にところどころ残された赤い痕が、前夜の出来事を物語っている。


「……そっか、夕べはソースケと……」


 途端に様々な感触までも蘇ってきた。口を貪った彼の乾いた唇。乳房を揉んだ彼の大きな手。中を行き交った彼の……。


 かなめは両手を振り回して、思い浮かんだものを打ち消した。顔が熟れたトマトのように真っ赤になる。


 端から見たとしたら、さぞかし滑稽な様子だったろう。しかし幸か不幸か、かなめは部屋に一人きりだった。いつものことだが、やたらと早起きの恋人は、目覚めたときにはすでに姿がない。


 パジャマの上だけを取り上げて、軽く羽織った。


 着ていたものは居間で脱がされた記憶がある。確か宗介も、寝室に移動したときには下着だけだったはずだ。彼が起き出したときに、自分のものは身につけ、かなめのものをまとめておいてくれたのだろう。


「そーいえば、ソースケっていつもあたしより先に起きちゃってるから、寝起きの顔なんて見たことないよね」


 思い返すと、目覚めたときに宗介が隣にいたことは、これまでに一度もなかった。彼と自分とでは起きる時間が優に二時間は差があるので仕方ないとはいえ、なんとなし物足りないものを感じる。


「っていうか、そもそも寝顔を見たことないかも」


 寝起きは悪いが寝付きは良いかなめは、常に宗介よりも先に眠ってしまう。


「なんかちょっとずるくない?」


 かといって、かなめが眠ってしまわなければ宗介は決して寝ようとせず、かなめが宗介より早く起きるのは不可能に近い。


 なんとなく憤慨しながら、その勢いを借りてかなめは立ち上がった。


 一歩踏み出したところで、だがすぐに及び腰になる。内腿をなにかが伝い落ちる感触があったからだ。慌ててヘッドボードに据え付けのティッシュ・ボックスから一枚を取り上げて拭い、もう一枚取って脚の間に当てる。


「うう、キモチわるぅ」


 この感触にはどうにも慣れない。


「あー、もー、あのバカ、安全日だからってめいっぱい中に出すんだもん」


 立ったはずみで、宗介が中に残していったものが流れ出てきたのだった。


 昨夜は、休む間もなく立て続けに三回された。体力には自信のあるかなめだったが、指で、舌で、彼自身で何度も繰り返しいかされて、さすがに疲れ果ててしまった。まだ余裕を見せる宗介に拭いてもらうに任せて、気を失うようにそのまま寝入ってしまったことを思い出す。


 その場にいない相手に対してぶつぶつと文句を言いつつ、クローゼット内の棚の引き出しから使い捨てのビデを取り出した。シャワートイレのビデでは奥まで届かないのだ。


 廊下に出て、大きなあくびをしながら洗面所に向かった。洗面台の前に立つと、半眼の不機嫌そうな白い顔が鏡の向こう側から見返していた。


 髪をアップにしてから風呂場に入る。非常に朝に弱いかなめは、シャワーを浴びないことには、まともに一日が始まらない。熱めのお湯を全身に浴びて、眠気を追い払った。ぬるま湯にすると、心地は良いがまた瞼が下がってきてしまう危険があるので、少し肌が火照るくらいの温度にした。中の洗浄も済ませると、どうにかこうにか気分が上向いてくる。


 着替えてからキッチンに行った。コーヒーメーカーからポットを取り上げる。すでに淹れてあったコーヒーをマグカップに注ぎ、それを片手にリビングを横切ってバルコニーに出た。


 手すりから身を乗り出すようにして、都道の先を見晴るかす。一人二人、人が歩いているものの、目当ての姿は見当たらない。


 右手のカップを口に運んだ。一口含むと、ほろ苦い味が口中に広がった。


 コーヒーの用意は、毎朝宗介がする。かなめが飲むときには、淹れてから一時間以上経っているため、香りはほとんど飛んで少し煮詰まってしまっている。だが一向に気にならなかった。宗介が自分のためにやってくれる、それが嬉しい。


 カップ半分ほどを啜って、すっかり気分も良くなった頃だった。道のずっと先からこちらへと走ってくる黒っぽい人影が目に入った。遠くてもすぐに誰なのかわかった。


 トレーニングウエアに身を包んだ宗介は、徐々に、けれど確実に近付いて来る。その内に顔がはっきりわかるほど近くなった。やがて眼下まで辿り着くと足を止め、歩道でストレッチを始める。


 かなめは手すりにもたれたまま、声を掛けるでもなくただ見守っていた。


「元気よね~。あんなにいっぱいしたくせに」


 宗介は、基本的に朝はジョギングをかかさず、夜は腹筋や腕立て伏せなどの筋トレをこなす。体力が資本の傭兵だから当然なのかもしれない。なにしろあの一見享楽的なクルツでさえ、同様にしていると聞いた。


 ストレッチを終えた宗介が、ふとこちらを見あげてくる。かなめに気付いていたらしい。


 かなめが小さく片手を振ると、宗介は軽く手を挙げて応えてから、素っ気なく身を翻した。その姿は、すぐに向かいのマンションのエントランスへと消えていった。


 かなめは、宗介の部屋を見あげた。溜め息をひとつ漏らして、思い巡らす。


 あいつはシャワーを浴びて着替えてから、朝食を取りに戻ってくる。そしたら言ってみようか。……言えるだろうか? こんな甘ったるいこと、あたしには全然似合わない。……でも、はっきり言わなければ、あいつは絶対わかってくれやしないんだ。いつまで経っても、あたしは毎朝一人で目覚めることになってしまう。……そうよ、さらっと言ってしまうんだ。それこそ何気なく。……けど、なんて言えばいいだろう。


「ねえ、たまにはジョギング、さぼったっていいでしょ? 明日くらいは、あたしの目が覚めるまで隣にいてよ」


 宗介の部屋に向かって小声でそう呟いてから、かなめは一人で顔を赤くしていた。ひどく恥ずかしくなって居たたまれず、向かいの建物に背を向ける。最後の一口を喉に流し込んでマグカップを空にすると、そそくさと室内に戻った。


 そして十五分ほど後、ちょうど朝食の支度を終えようという頃、玄関の鍵を開ける小さな物音に気付いた。かなめはベーコン・エッグを皿に盛りつけながら、もう一度小声で科白を練習する。


「……明日の朝は、コーヒー、いっしょに飲もうよ……」


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後朝 千早さくら @chihaya_sakurai

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