第3話 朝が来て、君がいて

 目を覚ましたのは、いつもより遅い午前7時だった。スマートフォンのアラームはかけ忘れたようだったが、キッチンから聞こえるかすかな物音で目が覚めた。


 一人暮らしをして3年。本来であれば自分以外誰もいないはずの部屋に、誰かがいる気配がする。昨夜、何をしてたっけか。寝ぼけた頭で、寝る前のことを思い出す。雨の中の少女。階段での出会い。そして僕の部屋へ。


「あれは……っ!?」


 ベッド起きあがるつもりで腕をつこうとしたが、あると思い込んでいた場所にベッドがなく、床に落ちて息をつまらせてしまう。ベッドで寝ていると思っていたが、実際はソファ。自分の体を見ると、ワイシャツとスラックス。


「……まさか、夢じゃ?」


 恐る恐るキッチンや水回りにつながるドアを開ける。すると、味噌汁の良い香りが漂ってきた。


「あ、おはようございます」


 キッチンに立ち、鍋を書きませていた女性がこちらを見る。夢だと思い込んでいたが、昨夜と同じ黒のパーカー姿で、髪はきちんと整えられていた。


「え、あ、お……おはようございます。えっと、こ、小鷹狩こだかりさん」


「あ、覚えててくれたんですね。よかった。改めまして、小鷹狩 美羽です」


 ペコリと擬音が見えそうなくらいのお辞儀をする彼女。顔を上げると、急に申し訳なさそうな表情になる。


「すみません。勝手に朝ご飯、作らせていただきました。冷蔵庫に卵と野菜があったので……」


「え、あ、はい……」


 返事がぎこちない。朝一番からほぼ初対面の女性が朝食を作っているという現実に、頭が追いついていない。


「あの、迷惑でしたか?」


「いえいえ! そんなことないです。そんなことあるわけないです。ただ、ちょっと驚き過ぎちゃってて、すみません」


 僕の言葉を聞いた彼女は、パァッと書いてもおかしくないくらい明るい笑顔になった。


 そして、あれよあれよと言うまにテーブルには、白飯、味噌汁、卵焼きが並んだ。和食の朝食だ。


「お米もあったので、つい。勝手に炊いちゃってごめんなさい」


「いやいやいや!こっちこそごめんなさい。家に泊まるように強制してしまって」


 ソファに座ったまま、深く頭を下げる。気持ち的には土下座をしたかった。だが、キッチンと LDK を何度も往復して朝食を準備してくれる彼女の邪魔になりそうな位置しか空いていないため、ソファに座らされたまま、頭を下げる。


「そんな!泊めてくださって、本当にありがとうございました。お風呂も使わせてくださったおかげで、風邪を引かずに済んだんです。ですので、そのお礼だと思ってください」


 小鷹狩さんは真剣な表情で僕を見つめた。


「昨夜は本当に助かりました。ありがとうございました。それに、岳仲たけなかさんの言葉で……少し、考えることができました」


「僕の言葉?」


「はい。『誰かの価値を決めるのは、その人自身』って」


 記憶が蘇ってきた。疲れていた僕が、思わず口にした言葉。


「あ、それは……」


「その通りだと、思います」


 小鷹狩さんは静かに微笑んだ。昨夜の不安げな表情は、少し和らいでいるように見えた。


「さ、召し上がってください。冷めちゃいますから」


「あっと、そうですね。ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」


 ソファに座り直すと、小鷹狩さんは僕と並んで座った。寝れるようにと3人掛けのソファを買っておいて本当によかったと心の底から思う。こんなキラキラした可愛い女性が2人掛けソファで隣に座ったら、絶対に勘違いしてしまうだろう。そんなことを考えながら手を合わせると、「いただきます」の声が重なる。


 最初の一口で、僕は思わず声を上げそうになった。卵焼きが、とても美味しかった。今まで食べたことがないと言ってもいいくらい美味しい卵焼き。


「小鷹狩さん、めちゃくちゃ料理お上手ですね!卵焼き、すっごい美味しいです!!」


 語彙力が足りない。どう表現したら、この感動を彼女に伝えられるだろうか。そんなことを悩んでいる僕の耳に、思いもよらない言葉が飛び込んできた。


「ありがとうございます。一人暮らしの父のために、よく作ってたので」


 僕は箸を止めた。父親との関係。昨夜の彼女の涙。そして、うろ覚えではあるが、着信音が鳴っていたはずだ。。


「あの、昨夜、電話が……」


 小鷹狩さんの表情が曇る。


「父からでした。何度もかかってきて……」


「出なかったんですか?」


「はい。怖くて……」


 味噌汁を口に運ぶ手が、かすかに震えている。


「小鷹狩さん」


「私、帰らなきゃいけないのは分かってます。でも、まだ……」


「今日は、もう少しここにいてもいいですよ」


 言葉が、自然と口をついた。


「え?」


「あ、いや、その……今日も僕は仕事なので、家を空けます。でも、小鷹狩さんには、もう少し時間が必要そうだなって。なので、スペアの家の鍵をお渡しします。帰るときには鍵をかけて、ドアポストにでも入れておいていただければ大丈夫。そもそも、この家に盗んでも金になるようなものはないんですけどね」


 僕の自虐ネタに、小鷹狩さんは固まってしまったようだ。横から僕の顔に視線が刺さっているのを感じる。


「急に帰るって決めなくてもいいんですよ。今日は仕事をお休みされて、少し考える時間を……」


「でも、これ以上岳仲さんにご迷惑をおかけするわけには」


「どうせ家を空けちゃうので、好きに使ってください。あんまり残ってないと思いますけど、家の中の食材は好きに使っていただいて構いませんから」


 小鷹狩さんは驚いた表情を見せたが、すぐに不安そうな目で僕を見た。


「……本当に、いいんですか?」


「ええ。こんなに美味しい朝食をいただいたんです。そのお礼だと思ってもらえたら」


 その言葉に、小鷹狩さんは小さく笑った。


「はい。ありがとうございます」


 朝食を終え、僕は急いで支度を始めた。昨日、終電までかかったが、トラブルの原因については目処が立っている。あとは修正してテストをするだけなので、今日こそは定時で帰れるはずだ。トイレに行くついでにスーツに着替え、ネクタイを締める。


 仕舞い込んでいたこの家の2つ目の鍵をテーブルの上に置いて、小鷹狩さんに伝える。彼女は何度も頭を下げてくれた。


「それじゃ、行ってきます。」


 玄関で声をかけると、背後から小さな返事が返ってきた。


「行ってらっしゃい」


 振り返ると、小鷹狩さんが照れたように微笑んでいた。


 なんだか、不思議な朝だな。そう思いながら、エレベーターに乗る。こんな状況、誰にも話せないが、彼女を取り巻く環境が好転してくれることを願うばかりだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る