第4話 悪霊
寒々しい風の音が止んでいる。
辺りを覆いつくす大きなカエデの葉が、歩くたびにガサガサと妙にうるさく不快なものに感じる。
先程まではふわふわと心地良く感じていた落ち葉の絨毯が、なぜか今は得体の知れない生き物を踏みつけているような、妙に生々しい感触に思えて気持ち悪い。
道にさえ出てしまえば、少しは安心できるのだが――。
「やっぱ――なんかついてきてるな。気配が……わざとだろ、おい! 俺をからかってるのか?」
相変わらず姿は見えない。
にもかかわらずその存在を知らしめるかのように、背後から強烈な視線を感じる。
しかし何度振り向いてみても、ただ暗い森が静かに広がっているだけだ。
「う~ん……あ~、そういえば……これ、この話は知ってるぞ。なんだっけな……ええっと……ウェンディゴ!」
誰に聞いたかはもう思い出せないが、森の悪霊――ウェンディゴとか呼ばれてる奴だ。
旅人が森を徘徊していると、いつのまにか取りつき、気配は感じるが姿が見えない。
心身ともに時間をかけて追い詰められていき、発狂するか絶望したところで、心臓を食われるって話だったか。
なるほど、愉快な話じゃないか――上等だ。
今の俺は心臓を食われた程度じゃ死なんぞ……たぶん。
「いいよいいよ、ついて来いよ! 引きずり出して俺がお前を食ってやるよ!」
遠く暗闇に向かい大声を張り上げる。
当然反応は無い。
なんだか馬鹿みたいだな……。
悪霊の話も俺の悪魔が作り出した妄想かもしれない。
いろいろ嫌になってきた。
もういっそ落ち葉の中に体を埋めて寝ちまおうかな。
いや、実際悪くないかもしれない。
深く積もった落ち葉は意外に暖かそうだ……。
そのまま後ろへと倒れ込む。
悪くないじゃないか……。
陸へ打ち上げられた魚のように体を揺らし、厚く積もった落ち葉の中へ身を沈めていく。
肌触りは最悪だが、かなり暖かい。
そうだ、これなら背後を取られることも無いだろう。
俺って天才かもしれない。
「あっ! いてっ、いててててっ、いてぇーよ!」
体のいたるところがチクチクと痛痒い。
特に股間の辺りがひどい。
慌てて立ちあがり、落ち葉を払いのける。
「血吸い虫か、くっそ! こいつらクッソ! いってぇいてぇっ」
慌てて払い落としたせいで、食いついた血吸い虫の小さな歯が残っていて痛みが引かない。
俺の中の悪魔も痒みには混乱しているようだ。
何を食えばいいのか、その輪郭を掴みかねている。
傷とも言えないものだ、どっから何処までどう食えばいいのか悩ましい。
「やべぇ、腫れてきた。くっそ! ――――ん?」
腹立ちまぎれに足元の落ち葉を蹴り散らかしていると、妙なことに気が付く。
舞い上がる落ち葉や小枝の動きが不自然だ。
何もないはずの中空で、見えない壁にぶつかり落ちていく。
これは……何かいるな。
息を殺し虚空を睨みつける。
焦点が迷い、景色が滲む。
「……その辺か?」
一瞬、不自然に景色がゆらいだ場所を見つける。
そこからは簡単だった。
突如何も無かったその場所に一気にピントが合いはじめる。
「なっ……、で、でっけぇ……、お前が、ウェンディゴか? なんで頭からヘラジカの角生えてんの?」
いまだ風景と混ざり合い、全貌は良く見えない。
だがその輪郭だけは、はっきりと確認できる。
人とヘラジカを混ぜ合わせたような化け物だ。
背丈は俺の二倍はあるいだろうか。
手足の筋肉は異様に発達しているが、胴体はゴツゴツとしたあばらが浮き出ており、異様にやせ細っている。
頭はヘラジカの頭骨。
巨大な角もしっかりと生えている。
こいつは……食べ応えがありそうだ。
「ところでお前、なかなか良いおっ――――」
ウェンディゴへと話しかけた瞬間、視界が赤く弾ける。
背中に強烈な痛み、落ち葉が舞い散る。
どうやら吹き飛ばされ、背中を木にぶつけたようだ。
下半身の感覚は無いが、一応足は繋がっているようだ。
顔を拭うと手がぬるぬるする。
どうやら顔も切ったようだ。
急ぎ傷を治しつつ、ウェンディゴを探す。
「くっそ、どこいったよ! いってぇなぁ……。でかい癖にまた隠れやがって――うぁぁああっ」
目の前にウェンディゴの巨大な手がぬるりと現れる。
あまりに唐突で避けられない。
危うく首ごと持っていかれそうになる。
「いってぇなぁ……。お前どんな馬鹿力してんだよ。腕ぐちゃぐちゃになっちゃったぞ!」
慌てて両腕で顔を守ったが、両腕とも折れ、鼻も潰れた。
首もなんだかおかしい。
すぐ治せるとはいえ、状況はかなり厳しい。
さすがにこの体でも、頭を握り潰されたりすると終わる気がする。
せめて斧か盾でもあれば、やりようもありそうだが……。
何も攻撃手段がない。
掴みかかりたいが、それすら許してもらえなさそうだ。
どうしてか、こいつはうまく背景に姿を溶け込ませることができるらしい。
景色に紛れて身を隠し、唐突に現れては一方的に殴られる。
何とか致命傷を避けるだけで精一杯だ。
「うぇっ……。で、でかい図体してこざかしいな、おまえ……」
俺の悪態も全く意に介した様子もなく、ウェンディゴはまた姿をくらませる。
それにしても、敵は恐ろしく強いが……、俺も馬鹿みたいに頑丈だな。
我ながら人間やめてるわ。
体だけでなく精神も妙に落ち着いている。
普通なら一撃で気絶してる。
とはいえ、さすがにこのままだと遠からず死にそうだ。
「って……こりゃさすがに――」
そんな風に、弱気になったのが良くなかったのだろうか。
俺の胸が赤く弾ける。
まずい――、体が支えられない。
引っ張られるようにして数歩前へ進み、そのままウェンディゴの足へ縋りつくようにして、ギリギリ身体を支える。
倒れたら終わりだ。
だが……さすがにもう厳しいかもしれない。
ウェンディゴのでかい手が俺の胸に穴をあけ、骨を砕き――、心臓をえぐりだした。
全身から力が抜けていく。
それなのに、自分の心臓からは目が離せない。
これまで無造作な攻撃が嘘のように、心臓を持つ手つきは柔らかく繊細だ。
大きな手で、俺の心臓を傷つけないよう、五本の指の腹で、やさしく掲げるように持っている。
自分の心臓を見たやつなんてそういないだろう。
まるで外に出られて喜んでいるかのように、元気に動いている。
胸は焼けるように熱く、体は石のように重く冷たい。
おびただしい血。
俺の命そのものがこぼれ落ちていくようだ。
意識が泡のように弾け、白く消えていく。
これが俺の死だろうか。
ウェンディゴはまるで俺に見せつけるかのように、その心臓をゆっくりと骨の口へと運ぶ。
こいつ……いい趣味してるな…‥。
だが、これで――。
「――――――――!」
ウェンディゴは動きを止め、声にならない絶叫を上げる。
音は無く、ただ森の空気が震えているように感じる。
うまく……、食いつけた。
俺の心臓、血肉から、悪魔は侵食を開始する。
ウェンディゴの中から全身へ、黒い影は根を張り巡らせていく。
だが、小鬼のようにはいかない。
なかなか食い進められない。
しがみついているウェンディゴの足からも食いついていく。
やはり食い進むのに、強い抵抗を感じる。
だがまぁ、それも時間の問題だ。
「――っ、ざ、ざまぁ……みろ! あ、あぁ……あっぶねぇ……し、しぬ、死ぬかと思った。ふぅ~……。うあぁ……、痛っ……」
なんとかウェンディゴを食らいつつ、自分の心臓も作り直していく。
地獄のように痛む。
傷を受けたときより、治すほうが遥かに痛い。
声は裏返り、涙も止まらない。
それにしても、心臓を食われても本当に死なんとは……。
これじゃあどっちが化物かわからんな。
「ああ――、やっぱり。紅葉が綺麗じゃないか」
やっと空が明るくなってきた。
相変わらずの曇り空だが、灰色だった景色に色が戻る。
朝が来た。
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