第19話 【悪魔】の小さな厄災

 遠くで低い鳥の鳴き声のする夜。


 いつものようにお風呂に入ってケアをしてネグリジェに着替えた私はバルコニーに出ていた。手に天使の羽毛と呼ばれている謎の生き物を乗せて。


 一応外に帰した方が良いのかもしれないと思ったのだ。手を伸ばして飛んでいかないか待ってみたのだが、ふわふわは私の手から離れなかった。感情を感じないので懐かれている気はしないのだが、離れないならそれはそれで良い。とりあえずふわふわを持ったまま手すりに腕を乗せて庭を見つめた。


 すると庭の真ん中あたりに誰かが立っているのが見えた。月明かりに照らされて、黒っぽい服装の人が浮かび上がっている。遠くても分かるくらい顔が青白い。


 もしかしてツェペシュさんだろうか。目を凝らしてみるけれど、彼だという確証は得られない。


 いずれにせよ、ここから見える範囲の庭に人がいるのは初めてだった。たぶん簡単に入ってこれないようになっていて、また、この庭がそもそも何かしらの用事がなければ寄りつかないような造りになっているのだろう。埋まっている植物が造花なら手入れにやってくる必要もない。


 それではあの人はあんなところで何をしているのだろうか。分からない。分からないけれど、何だかぞわぞわした。


 その人がじっとこちらを見たまま動かないから。


 何故か緊張して心臓が呻いた。


 目が逸らせない。あの人の行動が気になって仕方ない。万が一こちらに来たらどうしよう。あぁ嫌だ。ライカンさんが人を食べるやつもいると言ったことを思い出してしまった。夜行性だと言っていたから、本当に、もしかしたら今庭に佇んでいる人は私を食べに来たのかもしれない。


 どうしよう。叫んで扉の前にいる兵士さんのところへ駆けて行こうか。


 そんなことを考えていたら、庭に立っていた人が踵を返して去っていった。姿が見えなくなるまで目で追ってから急いで部屋に戻り、鍵をかけてカーテンを閉じた。


 確証はないが監視されていいたような気がする。ただの被害妄想なら良いのだが。


 恐怖でおののく心臓を抑えながらベッドにばたりと倒れた。


 いくらかして眠りについた私は、この日、とても嫌な悪夢を見た。


 きっと起きたら何も覚えていないのだろうと思いながら、誰もいなくなったベッドの傍らでむせび泣く母の背中を見つめていた。



***



 私がここへ来てから一週間が経った。この日の朝、シャルロさんがライカンさんに頼まれて作っていた私の服が完成したという連絡を受けた。三時頃にライカンさんがやって来ることになり、お披露目式を行うらしい。


 食堂でシャルロさんと昼御飯を食べた後、部屋に戻った私は時間までバルコニーで過ごすことにした。特にやることがないので適当に時間を潰しているのだが、バルコニーは明るいし風が心地よいので太陽が出ている間はバルコニーで過ごすのが日課になっていた。今日も天気はすこぶる良い。日差しが暑いくらいだ。


 手すりに腕を乗せ、体重を預けてここ二日のことを振り返る。特に昨日バンシークさんの真っ直ぐな赤い瞳に言われたことを反芻した。あれだけの言葉を言わせてしまったのだから、私はそれだけの言葉を返さなければならないだろう。


 しかし、どうしたものか。断ろうにも断りづらくなってしまった。一ヵ月滞在すると決めた時点である程度覚悟はしていたが、これ程まで決断が難しくなるとは思わなかった。


「バンシークさんの期待に応えられる気がしない。私には本当に彼があそこまで言ってくれるだけの力があるのかな。君は本当に王族の力を示す生き物で、幸せの象徴なの?」


 バルコニーの手すりに乗っている白いふわふわをつついてみる。昨日と同じ個体なのかは分からないが、あれからずっとどこかに白いふわふわがいるようになった。ほとんど意思を感じない生き物だけれど、ずっと傍にいると愛着が湧いてくる。


 幸せの象徴、か。父と母がいたときはたくさんいたとバンシークさんが言っていた。シャルロさんが言っていたのは王族の証明、大地を浄化する祝福の力が使われた証拠、だっけ。


 祝福といえば、父がよく母に言っていた言葉があったな。それから母にもその言葉に返すお決まりの文句があった。父と母はいつもどこか悲しそうに、どこか愛おしそうに、その台詞を言っていた。私はその言葉を言う父と母が儚げに見えて、あまり、好きではなかったのだけれど。


「君に祝福を。貴方の厄災を私に。だっけ」


 それぞれ父と母の言葉だ。いつもどうしてそんな文句なのだと思っていたが、癒しの力を持つ父と厄災を招く力を持つ母ならそうなるのも頷ける気がした。


「素敵な文句だな」

「わっ!?」


 突然声が降ってきて驚いた。ここに来てから驚かされてばかりな気がしてならない。


 跳ね上がった心臓を抑えながら見上げると、白い布を纏った人が浮いていた。


「メアさん」


 一瞬天使かと思った。室内では真っ黒に見えた髪は紫黒だったらしく、光に透けた部分が鮮やかな紫色になっている。


「やっほー。なかなか会えないから会いに来た。ベージュのチェックのワンピース、似合ってるな。今日も可愛いよおれのお姫様」


 にこりと微笑まれ、一気に距離を詰められた。数十センチ先くらいにメアさんの顔がある。


「あ、ありがとうございます」


 慌てて距離を取ろうと後退するが、メアさんも同じようについてくるため全く距離が開かない。


 ついに下がれるところまで下がってしまい、背中が掃き出し窓にくっついた。開けておいたはずなのにいつの間にか窓が閉まっていたようだ。


 しまったと思ったときにはもう遅かった。メアさんの腕が私の顔の横にあって逃げられなくなっていたのである。これが『時すでに遅し』か。いわゆる『壁ドン』なるものを体験することになろうとは。


「そんなに警戒しなくてもいいのに。おれはマリアが嫌なら何もしないから」

「じゃぁあまり近づかないでください。離れてください」

「いいよ」


 嫌だと言われるかと思ったが、メアさんはあっさり離れてくれた。


「どのくらい離れようか。これくらいか?」


 バルコニーの手すりに腰かけ、にこりと笑う。


 私は部屋の外壁に背をつけていて、メアさんは手すりに座っている。つまりバルコニーの端と端だ。話をするには距離がありすぎるように思えた。


「そんなに離れなくても良いです。もう少し近付いても大丈夫ですよ」

「じゃ、これくらい?」


 メアさんが手すりから降りた。まだ距離がある。


「もう少し良いですよ」

「これくらいか?」


 今度は二歩だったけれど、それでもまだ距離がある。ここでもう少しと言ったら、また二、三歩近付いてくるだけでずっと言い続けなくてはならないかもしれなかった。


「もっと近付いてください」

「いいよ」

「!」


 瞬く間に距離を詰められた! また数センチ先にメアさんの顔がある。口を開いたら息を吹きかけてしまう距離だ。


「近すぎです!」


 顔の前に手を出してメアさんに息をかけてしまうのを防ぎながら顔を背けた。


 もっと近付いてとは言ったが、これ程近付いて欲しいとは思っていない。


「マリアが近付いてって言ったのにな」

「いくら何でも近すぎですよ! 限度があります! 人一人分くらい開けてくれればいいです!」

「ふふ。可愛いなぁ。それじゃ、これくらいで」


 メアさんが一歩後ろに離れてくれてようやく適切な距離になった。


 ほっと息を吐く。長い前髪を被っていても分かるくらい綺麗な顔が間近にあると緊張する。どうなることかと思った。どうしてあんなにも距離が近いのか。


 そういえば。ライカンさんがメアさんは人間を食べるというようなことを言っていた。もしかして今、私は食べられそうになっていたのだろうか。


「あの、聞きたいことがあるのですが、聞いても良いですか?」

「聞きたいこと? へぇ、おれのことが気になるの?」


 にっと口角が上がる。メアさん相手だと誤解を生みかねない気がするので言葉選びは慎重に行うことにしよう。


「メアさんは人間のを食べるとライカンさんから聞いたのですが、本当ですか?」

「本当だよ。おれの主食は人間の『あるもの』だ」


 どくっと嫌な鼓動が聞こえた。


「あるものって何ですか?」


 ものによってはだいぶ警戒しなくてはならない。まぁ何を食べられても困るのだが。


「知りたい?」

「まっ」


 またメアさんが近付いてきた! 顔を寄せられ、耳に柔らかいものが一瞬触れた気がした。


「教えてやろうか……ベッドの上で」

「!?」


 艶めかしい声で囁かれた! ドッと心臓が胸から飛び出そうなくらい大きく跳ねる。


 逃げなければならない。


 身の危険を感じた私は、早急に後ろ手で掃き出し窓を開けようとした。しかしいくら押しても開かない。


「!? !?」


 どうして開かないのだ!? 半分パニックになりながらガタガタ窓を揺らしていると、メアさんが身体をずらして確認してくれた。


「開かない。鍵がかかってるみたいだ」

「どうして!? さっきまで開いていたのに!」


 そもそも窓は開けっ放しにしておいたし、風やらで閉まったとしても鍵までかかることなんてないはずだ。


「閉まった衝撃で鍵まで下りたのかもな。いずれにせよ、出入り口が塞がれたってことだ」

「そんな……」


 窓から見える部屋を覗き込んで誰かいないか確認してみたが、誰もいない。扉の前には兵士さんがいるので変な侵入者はいないはずだから、誰かが閉めたわけではなさそうだ。さまざまな偶然と不幸が重なって何故か掃き出し窓の鍵がかかってしまい、私たちは閉め出されてしまったということか。なんたる不運。なんたる厄災。【悪魔】の呪いに違いない。そういえば母もよくアパートのベランダに閉じ込められていた。


 しかし、この状況、どうしたものか。


 ここから叫んでも部屋の扉の前にいる兵士さんたちまで届かないだろう。外に向かって叫んでも誰にも聞いてもらえないかもしれない。ここ最近ずっとバルコニーに出ているが、外に人がいるところを見たのはある日の夜の一度きり。きっとこの辺りはあまり人が寄りつかないところなのだ。そしてここは二階。それも普通の家より随分高い。飛び降りることも無理そうだ。


 もしかして、打つ手がない? さあっと頭から血の気が引いていった。


「!」


 軽く絶望していると頭をぽんぽん撫でられた。


「そんなに心配しなくても、おれが外から回っていけばいいだけだから。一人で待ってるのは心細いかもしれないけど、待てる?」


 先程までの挑戦的な表情や声とは違い、随分優しい声だった。ゆっくり頷くと、メアさんは長い前髪から覗く目を細めて微笑んだ。


「じゃ行ってくるから、一人の間、おれのことでも考えて待ってて」


 メアさんの手が伸びてきて顎の下を撫で、頬の輪郭をなぞって離れた、その瞬間。


ピシャーンッ


 背景が光ったと思うと突然辺りが真っ暗になり、凄まじい勢いで雨が降り始めた。


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