2.祝福の歌
少し早めの年越しそばを食べ、俺はユヅルと一緒にバルコニーに立ち並んでいた。
藍色の夜空には白星が連なるように輝き、窓明かりは夜空の光を照り返すように賑やかだ。
あっという間の一年だったな。
遠く離れた場所から、鈍い鐘の音が響く。夜空を包み込みながら空気を震わすそれは、この街に灯る全ての命に祝福を捧げているかのようだった。
「なんか、神さまが空で歌ってるみたいだね」
俺の隣で、ユヅルが無邪気に笑う。ひとつ星みたいなその笑顔が眩しくて、俺は目を細めて口元を緩めた。
「随分ハスキーボイスの神さまだな」
俺が戯けたように言うと、ユヅルが「レコード大賞とっちゃうかもしれないね」と冗談で返す。そしてふたり顔を見合わせて、笑った。
――このまま、時が止まればいいのに。
ユヅルといれば未来だって怖くない。明日だって、きっと歩いていける。でも、今この瞬間はここにしかない。だから、少しだけ。
あと少しだけこのままで。
切にそう、思った。
でも、新しい年へと移り変わる準備を始めた空気はとても澄んでいて、少しすると、ユヅルの口から「くちゅっ」と小さなくしゃみが飛び出した。
半纏を纏っていても暖を取ることのできない外は寒い。師走の夜となれば尚更だ。
「そろそろ戻るか……」
俺が促すように言うと、ユヅルが「えっ」と小さく声を上げる。
「俺、まだこうしていたいな……」
瞳を儚く揺らすその姿に、もう少しだけこうしていても良いんじゃないかと心が囁く。でも、些細な風ですら突き刺さすような寒さを伴うから、俺は心を鬼にして「だめだ」と告げた。
「なんで?」
「これ以上ここにいたら、風邪引くだろ」
「でも……くちゅっ」
ユヅルのくしゃみを、ユヅルの言葉が追い越していく。それに「ほら」と俺が言うと、ユヅルは口を噤み視線を彷徨わせると、少しして小さく顎を引いた。
「うん……。戻ろう、タケさん……」
言葉とは裏腹にしょんぼりと肩を落とすその姿に少しばかり心が揺らいだけれど、三度ユヅルの口からくしゃみが飛び出したから、揺らいだ心をすぐに立て直した。
ふたり揃って鼻頭を赤らめながら部屋に戻る。でも、ユヅルの足取りはやっぱり少し重くて。垂れ下がった耳と尻尾が透けて見えるようだ。
仕方ない、ユヅルの好きな物でも何か作るか。
窓を閉めながら決意する。そして振り返り、ユヅルに向かって口を開こうとすると――突然、ユヅルが「あっ!」と声を上げてぱたぱたと軽やかな足音を立て近づいてきた。ユヅルは俺の前まで来ると、頬を上気させてリビングの白壁を指差す。
「タケさん、見て見て!」
明るい声を放つその顔には、一秒前の哀愁漂う姿はもうどこにもない。胸を撫で下ろしつつ言われるがままにユヅルの人差し指を辿っていくと、その先には壁掛けカレンダーがあった。
カレンダーの上半分には動物の写真が印刷されていて、一枚捲るごとに種類が変わる。
十二月は、サンタの帽子を被った黒い子猫が暖炉を背景に前足を揃えて座る姿が収められていて、フライングして捲った一月には、ふわふわとした毛並みのポメラニアンが白雪の中を駆け回る姿が収められている。
たまたま街の本屋で見つけたカレンダーのその写真は眺めていると心が暖かくなって、俺もユヅルもとても気に入っている。
「ねえタケさん! 俺今気づいたんだけど、明日は犬の日なんだね!」
ユヅルが眩いばかりに瞳を輝せ、言う。
「なんだそれ」
俺が訊くと、
「だって、一が二つ並ぶでしょ? だから、一月一日はワンワン――、つまりは犬の日なんだよ」
ユヅルが胸を張って言う。
それを言うなら、十一月一日、ワンワンワンが犬の日なんじゃないか? なんて思ったけれど、「ねっすごい発見でしょ?」とユヅルがぶんぶんと尻尾を振るように頻りに言ってくるから、俺は笑みを溢しながら「そうだな」と言って、顎を引いた。
「ねえ、タケさんって昔わんちゃん飼ってたんだよね」
「ああ、ゴールデンレトリバーな」
「……どんな子だったか、訊いても良い?」
ユヅルがいつもの晴れやかな声を少しだけ潜めながら、小首を傾げる。
――どんな子、か。
「そうだな……」
俺は遠い記憶の糸を手繰り寄せるように目を細めた。でも、細まった糸をちゃんと掴むことはできなくて。それに気付いた瞬間、針で刺されたように胸の奥がほんの少しだけちくっとした。
「……やんちゃで、可愛らしいやつだったよ」
絞り出した記憶を言葉にすると、ユヅルが何かを感じ取ったように目元を和らげてそっと口を開く。
「……俺、もし犬になるならタケさんの家の子がいいな」
「何言ってんだ」
唐突なそれに俺が微苦笑を浮かべると、ユヅルは顔いっぱいに笑みを浮かべた。
「だって、タケさんは絶対大切にしてくれるでしょ? だから俺、もし犬になって飼い主を選べるならタケさんがいい。タケさんが一緒にいてくれるなら、俺、犬になってもきっと怖くないんだ」
そう言って笑うユヅルの言葉に迷いは一切見えなくて。そのまっすぐな優しさが傷口を覆い、癒していく。
ああ。なんて事のない些細な会話が、どうしてこんなにも胸に響くんだろう。
「……馬鹿だな」
口から突いてた声は、とても小さく細かった。でも、ユヅルはかっこ悪い俺のことを拾いあげるように柔かに笑ってくれた。
「……ユヅルは、どんな犬が好きなんだ?」
喉元に停滞する甘塩っぱい熱を誤魔化すように訊くと、ユヅルが「んー」と考え込むように腕を組む。そして、ややしてからカレンダーをちらりと見遣った。
「ポメラニアン……、とか? んー、……でも、あの子も可愛いしなあ……。でもなあ。ねえねえ、タケさんは何のわんちゃんが好きなの? やっぱりゴールデンレトリバー?」
「さあ……、ポメラニアンかもな」
真剣に悩むユヅルがおかしくて笑いを堪えながら言うと、「それ絶対嘘だよね」とユヅルが頬を膨らませる。
「嘘じゃない嘘じゃない」
「本当?」
「ほんとほんと」
「あー! 二回繰り返した! やっぱり嘘なんだ!」
ユヅルが「もう!」と少し怒ったように言う。
まずい、少し揶揄いすぎたか。
「悪かったよ、ユヅル」
謝罪を口にするけれど、
「……タケさんって、たまに俺で遊ぶよね」
ユヅルの臍は曲がったままで。そうこうしている内に、時計の針が天辺を過ぎてしまった。
年越しの瞬間を見逃したユヅルの臍がさらに曲がり、立て直すのにさらに時間を要したのは、ここだけの話。
しばらくして、ユヅルの好きなご飯をたくさん作るからと詫びながら約束して、機嫌の治ったユヅルと年始の挨拶を交わした。
そして、いつも通り隣り合ってユヅルと共に瞼を下ろす。
今年もまたなんて事のない日常が続きますようにと、そう願って――。
でも、神さまは時に意地悪だから、俺の願いを素直に聞き入れてくれることはなくて。
だからと言って、こんな悪戯はないと思うけど。
「……えっ?」
目が覚めると、俺の隣にいる筈のユヅルの姿が見えなくて。代わりに目に飛び込んできたのは――
「わんっ」
綿毛のようなふわふわとした薄茶の長毛を緩やかに揺らし、円な黒曜の瞳を輝かせた――、小さくてまあるい、愛らしい生き物だった。
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