3.白昼夢
混乱する頭を抱えたまま上半身を起こし見回すと、そこはいつもの見慣れた寝室で。
こくりと喉を鳴らし、前脚を揃えて俺を見上げる小さな生き物を再び見遣る。すると、それが円な瞳を爛とさせ俺の胸に飛び込んできた。俺の胸に縋るように前脚を掛け立ち上がると、綿毛のようなふさふさの尻尾を懸命に横に振る。
その姿はどう見ても、
「わんっ」
ポメラニアンで。
額に片手を付けて考えを巡らすけれど、こんな不可思議な現象に答えなんて見つかるわけもなく、早々に考えを放棄した。とりあえず目の前のそれをどうにかしようと両手で抱えた。するとそれがまた「わんっ」と甲高い声で鳴き――
「タケさん。俺だよ、ユヅルだよ」
同時に、頭の中でユヅルの声が響いた。
静止し、両手で抱えたそれを恐る恐る凝視する。すると、それは円な瞳を潤ませて「くうん」と切な気に鳴いた。
「タケさんは、やっぱりポメラニアンじゃなくてゴールデンレトリバーが好きなのかな。だから、俺のことが分からないの?」
「えっ……?」
「ねえ、もしも俺がゴールデンレトリバーになったら、タケさんは俺に気づいてくれる?」
「……えっ?」
犬が喋った? いや、それより今の声は……。
当惑していると、それが首を傾げる。ふわふわと揺れる薄茶色の毛と無垢なその瞳に、ユヅルの面影が重なった。
いやいや、あり得ないだろ。
心の中でかぶりを振る。幾度も否定をして、でもその度に跳ね返される。俺を見て悲し気に耳を寝かせたその姿に、胸の奥がひどくざわついた。
本当に、あり得ないのか――?
わずかに空いた唇の合間から、空気が入り込む。そして、喉元から言葉を絞り出そうとし――突然、視界が白煙に覆われた。
なんだ!?
当惑していると、両手がふっと軽くなる。目を凝らし手元を見ると、そこにいた筈のポメラニアンの姿はなくて。
「――ユヅルっ」
咄嗟に口を突いて出た名前に、自分で驚いた。
何を焦っているんだよ。人間が犬になるなんてあり得ないだろ。
頭の奥で否定的な言葉が湧いてくる。でも、心がそれを許さなかった。
「ユヅルっ……」
焦燥感に圧されながら寝台から足を下ろし、そして立ち上がる。すると突然、刺すような光が差し込み、目が眩んだ。咄嗟に片腕を持ち上げ、目元を庇う。白々とした光が薄まったのを見計らい、瞼をそっと持ち上げ――
「ばうっ」
視界に、薄茶色の毛に覆われた大きな生き物が飛び込んできた。
俺を見下ろすその顔は、目も鼻もパーツのひとつひとつがさっきのポメラニアンよりも大きくて。
「ばうっ」
少し低調気味で、でも溌剌とした大きな声に細まっていた記憶の糸が輪郭を強めていった。
寝台に両肘を付きながら上半身を起こす。
「……ポップ?」
喉の奥から言葉を絞り出すと、「ばうっ!」とポップが俺の頬に艶やかな鼻を摩りつけてきて、その乾いたようなざらついた感触に記憶が一気に引き戻された。
「ポップ……? おまえ……、ポップか?」
ポップは、俺が実家で飼っていたゴールデンレトリバーだ。
小学生の時にクラスメイトから譲り受け、社会人になる頃、年の暮れに突然の心筋症で亡くなった。
ばうばうとテンポよく鳴きながら飛び跳ねるように身体に乗ってくるから、『ポップ』と名付けたのは三つ上の姉だった。
普段はやんちゃ坊主なポップは、皆が悲しんでいると黙って寄り添ってくれて――。
優しい子で。
皆、ポップが大好きだった。
――大切な、家族だった。
「なんで……」
呆然と呟くと、ポップが「くうん」と小首を傾げ寂し気に鳴く。その声にひどく胸がざわついて、ポップの頭に手を伸ばそうと腕を上げる。でも次の瞬間、勢いよく扉の開く音がし、続いて耳に届いた声に反射的に手を引っ込めた。
「
慌てて、扉の方を見る。するとそこには仁王立ちをした女性がいて、睨め付けるように俺を見ていた。
目が合うと、腰丈ほどの艶やかな黒髪を揺らしながら、細身の身体に似つかわしくない怪獣のような音を鳴らし近づいてくる。そして俺の眼前まで来ると、膝に掛かっていた布団を両手で剥ぎ取った。
「もう! 元旦だからって、怠けすぎよ! 今日は皆で初詣に行くって言ったでしょ!?」
波打ちながら布団が床に落下する。するとそれを追いかけるように、ポップが寝台から飛び降りた。床にとん、と着地し、地面を掘るように前脚を動かし布団の下に鼻先を潜り込ませる。まるで何かを必死に探しているような、そんな仕草だ。
「ちょっと武雄! 聞いてるの⁉︎」
再び部屋の空気が震え、慌てて顔を上げた。
白磁の肌。薄桃色の唇。くるんと滑らかにそり返った睫毛に、くっきりとした二重。意志の強そうな目が、苛立つように細まっている。
一見美人然りとした相貌が、半分以上化粧マジックだと俺はよく知っている。
「
「誰が呼び捨てにして良いって言ったのよ。絢子お、ね、え、さ、ま。でしょ?」
「……絢子お姉さま」
「うわっ素直なあんた気持ち悪いんだけど」
そう言って絢子は胸の前で両手を交差させ、腕を摩る。理不尽で横柄な物言いは紛うことなき俺の姉で、俺はこの姉の下で学生時代を過ごした。でも今は結婚して一児の母となっている筈で、少しは穏やかになっていた筈だ。そもそも、お互いに実家を出ている身で――。
「……なあ、ユヅルは?」
呆然としながら俺が訊くと、絢子が眉を顰める。
「何言ってんのよ。ユヅルなら、あんたの足元で布団と戯れあってるじゃない」
「……えっ?」
「何よ、寝ぼけて記憶まで夢の中に置いてきちゃったの? あんたが七夕の日に公園で拾ってきたんでしょうが。雨に降られながらベンチで丸くなってたって言って」
――確かに、俺とユヅルが出逢ったのは七夕の雨の日だ。たまたま通りがかった公園のベンチでユヅルは眠りこけていて。目が覚めて、帰る家がないというユヅルを連れて帰った。
へにゃりと笑うくせに、瞳の奥が不安気に揺れていたから。だから――。
ユヅル。
一緒にうどんを啜って、一緒に夜空を見上げた。神さまの歌に耳を傾けながら、明日も明後日もこんな穏やかな日々が続けばいいと願った。
――タケさん
記憶の中で、ユヅルが柔かに笑う。
ユヅル。
きみがいるだけで、いつだって俺の心は暖かくなるんだ。
ああ、今はただ――きみに逢いたい。
「……て、くれ」
「はっ? 何?」
絢子が、惑うように首を傾げる。そして、犬の『ユヅル』が「ばうっ」と大きな声で力強く鳴き、俺の膝に前脚をかけて俺を見上げた。
ポメラニアンよりも、目も鼻も大きくて。
でも、真っ直ぐなその瞳は――。
――タケさん
俺は、咄嗟に天井を仰ぎ見た。そしてその先で眺めているであろう意地悪な神さまに向かって、声を張り上げる。
「神さま! 俺とユヅルを返してくれ!」
お願いだ。
ユヅルと一緒に、『今』を歩いていきたいんだ。
だから――。
肩で大きく息をする。すると突然空気が震え、遠くから鈍い鐘の音がした。それが耳に届くや否や瞼が落ち、静寂が訪れた。そして――声がした。
一緒に帰ろう、タケさん。
春風のように優しくて柔かなきみの声が。
ユヅルの声が、聞こえたんだ。
――ああ。帰ろう、ユヅル。
ふたりで、一緒に。
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