文太の微笑み
佐々井 サイジ
第1話
丸川茂雄はブラックの缶コーヒーを手に取ってひと息に飲みほした。これを飲んでも眠気は覚めることがない。定年退職して、そのままシルバー雇用になって二年。業務量は定年を迎える前から変わらないのに、給料は半分程度になってしまった。すぐに辞めてしまいたいと思うものの、パートの妻とニートの息子を抱える家庭状況ではおいそれとゆっくり過ごすこともできない。
「ただいま」
朝の五時の帰宅。高齢者になっても夜勤を指せる会社はどうかと思うが、夜勤の方が給料がじゃっかん高くつくため、文句も言えない。自分の命をわずかな金のために削っていると思うと馬鹿らしくなったことも今は昔である。今はいっそ、早めに寿命を迎えて楽になりたいという気持ちが強い。
「あんた、ちょっと来て」
妻の幸子は囁くように言った。昼夜逆転して自室でゲームばかりしている息子に聞こえないようにしているようだった。
「何だよ」
茂雄は幸子の雑な手招きの方へ向かうと、思わず声が出た。
「うるさいっ。起きたらどうするのっ」
押し殺した声で幸子は叱責した。リビングにはタオルに巻かれた赤ん坊が寝息を立てて眠っていた。
「はるちゃんか……?」
茂雄は、東京で暮らしている娘の美紀が生んだ孫かと思った。
「はるちゃんじゃないよ。この子、家の前にいたんだ」
「いたって、捨てられたってことか……」
「かわいそうだったから家に入れたのよ。幸い、美紀が家に置き忘れてた粉ミルクがまだ消費期限迎えてなかったから、それをあげたらすぐに寝ちゃって」
起こっていた幸子の顔はいつの間にかほころんで、優しい笑みを浮かべている。息子の浩太が生まれたときに見せた笑顔を思い出した。最も、子ども部屋おじさんと化した浩太に、もうその笑顔が向けられることはない。
「もうちょっとしたらどこかに届けないとな……」
茂雄は独り言のように呟くと、幸子が振り向いた。
「この子、私が育てる」
「は?」
「愛情が湧いた。施設に預けることなんてできない。私が引き取る」
「冗談じゃない。俺らもう六十過ぎてんだぞ。子育てがどんな体力がいることかわかってんのか。金もいる。この家には育ち盛りの子供部屋おじさんもいるんだぞ」
「あれはもう息子なんかじゃない。この子こそ私の子」
いくら言っても幸子は茂雄の説得に応じる気配がない。むしろ、話せば話すほど意固地になって最終的に返事も何もしなくなった。
今は熱くなっているだけだ。茂雄は幸子から離れ、浴室へ向かった。しかし、浴槽には風呂が溜まっていなかった。
「これからは自分でしてよね。私、この子の世話でかかりきりになるから」
幸子の声が小さく響いてきた。茂雄は大きなため息が漏れた。
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