1-10 うみねこ逝く
「もー、ほんとっ、この子たち。お爺ちゃん子なんだから〜〜」
「スズメちゃん、いいよ。僕がトイレに連れて行くから。それよりもお義父さんに何か言いかけていたよね?」
すっかり話が逸れてしまった。娘は小僧どもとやんやと騒ぎ出し、しばし小言に熱中していたが、
「‥‥ちゃんと言いたい事、伝えなきゃいけないよ。スズメちゃん」
そそくさと孫たちを便所へと引率してゆくジロー君の、去り際のその言葉を受けて、ふと思い出したかのように娘はこちらを向く。実に真剣な顔つきでだ。
そして一言だけ呟く。
「‥‥‥‥言いたいこと、か」
ん、なんだ? その何かを決めかねているような顔は?
何を迷う必要がある?
サッサっと先ほどの続きをいたせ。
「言いたいこと‥‥‥。ん〜〜〜。(首をひねり)ん〜〜〜〜?」
何をお前がふんばっておる。
さては、孫たちのウンコの件で大事なことをちょっと忘れちゃったか。
よいぞよいぞ、私の愚かで愛しい娘よ。
お前は本当に頭が悪いからな。お前に難しいことなど何も望むまい。
娘よ。父が一つ、人生の知恵を教えてやろう。
本当に伝えたい事がある時は、格式ばった言葉なんていらないんだよ。
必要なのは誠意だけさ。
だからお前が私の為に示すべき態度はとてもシンプルなものだ。
たった一つのことだよ。
そう。この父を思い。思っ切り泣けばいい。
「あっ」
お、泣くのか。
ついに泣く孝行をする気になったか。
いよいよ始まるのだな。この私の人生のフィナーレを飾る最終イベントが。
「あ〜‥‥、そうだ。あったあった。お父さんに最後に言っておかなければいけないこと」
よし思い出したか。
では思う存分、この父への感謝を思って泣き叫ぶがよい。
––––フフ、さんざん苦労をさせおってこのバカ娘め。
私はこれから始まる娘とのメロドラマを期待して、ワクワクしてしてしまう。
人生の大半をずっと、自分の子供に泣かされ続けて苦労したが、この時のこの瞬間の為に、私の今までの忍耐はあったのかも知れない。
––––嗚呼、諦めていたが、私はこの人生で報われるのか。
あとは娘の泣き待ちだ。
スタンバイして、その時を今か今かと待ち望む。
⚪︎
などと考えていた私は愚かだった。
この次に娘が放つ言葉を聞くまでは、私は喜びと期待に満ち溢れ、心の中で娘を抱き締めて、全ての親不孝を許す心の準備もできかかっていたのだ。しかし娘は再びその親の思いを裏切り、衝撃的な事を口にする。
我が邪悪なる娘は、邪悪であったのだ。
⚪︎
「お父さんさー。悪いんだけど、死んじゃったら、この部屋と廊下と、あと玄関に飾ってある魚拓、ぜんぶ処分しちゃっていいよね」
なんだと!
「てゆうかしちゃうね。ごめんね。ほんとに邪魔だから。だったら、あ、釣り道具もいっか。もう死んじゃうんだし、いいよね?」
おい娘。貴様に忠告しておく、男の趣味を軽んじて、所有物を勝手に処分したら、本当に絶縁案件だぞ。
分かったな。警告したぞ。分かったなら、絶対に手を出すな。
「うんこもれる!」
「うんこうんこ!」
と、バタバタと乱入してくる者たちがいる。孫たちだ。
さっきジロー君に連れられて、便所まで行ったはずなのに、わざわざ駆けて戻ってきて、このジジイにウンコを催促してくる。
「コラ、駆けるな。お爺ちゃんの布団に乗っかるな。こっち来てウンチしなさい」
便所から聞こえてくるジロー君の声を無視して、小僧どもが私の布団に勢いよく乗っかり抱きついてくる。
分かっとらんな、ジロー君は。小僧らにウンコをさせるコツは‥‥。
でえええい!
今はそれどころではない。こやつを、こやつを。私が世に放ってしまった負の遺産を今は止めねば。
クソッ、口が開かん!
「あ、よく考えたら、そしたらさ、部屋も一つあくじゃん。ラッキー」
うおおお! チキショウ!
目も霞んできたぁぁぁ!
怒鳴りつけたいのに睨むこともできん。
「うんこうんこ!」
「ジジイ、うんこさせろ!」
たった今、血の繋がった肉親に、絶縁に至るほどの修羅場が始まったというのに、状況を理解しない孫たちは喚きながら抱きついてくる。
コラ、3人も乗っかるな。寿命がなくなる。
「ジジイ、はようんこ!」
「起きろ。うんこジジイ!」
孫たちは3人とも私の腹の上にへばりついたまま喚き続ける。
トイレからは「おい、戻って来なさい」というジローくんの声が聞こえる。
「やだ。うんこ、うんこ!」
「ジジイのうんこがいい!」
終わった。
先ほどまで夢見ていた私のプランが。
理想の終活が。
美しき人生のフィナーレが。
糞まみれに変わってゆく。
「起きろ。起きろ!」
「ジジイうんこ、うんこジジイ!」
「うんこジジイ、はよジジイさせろ!」
これほど尽くし、これほど愛を捧げてきた者にこの仕打ち。
私の愛は裏切られる形となって踏み躙られた。
私の死は家族によって汚されたのだ。
「ジジイ、はよ死んで、うんこ連れてけ」
⚪︎
ぐぬぬ。
だが妥協してやる。
泣けばよし。泣けばすべて許す。泣くのがお前の孝行だ。
「やった、リフォームしちゃお。あの玄関の釣竿だって物干し竿にするし、ぜんぶ、ぜんぶ、処分しちゃうんだから」
その邪悪な言葉を聞いて、抱いていた期待や希望が打ち砕かれた為か。急激に体から力が失われてきた。死がもうすぐそこまで迫ってきているのを感じる。
もう時間がない。だから私は心の中で怒りを爆発させるのをグッと我慢した。まだ性懲りも無く、この期に及んでの娘の改心を信じたかったからだ。
娘よ、最後のチャンスをくれてやる。
父としての最後の慈悲だ。
泣け!
泣き喚け!
そうすればお前の親不孝をすべてチャラにしてやる。
「あとさ、お父さん、おなら臭い。すっごい臭い! もー、サイテー」
それはいま関係なかろう。
ほれ泣け。
もう時間がないぞ。
泣き急げ!
「それにさ、無精だし、いっつも同じ服を着ているしさ。ハゲだし。デブだし。恥ずかしいよ。いっつも、––––だしさ。だから、–––––グスッ。お父‥‥‥––––––」
‥‥‥もはや耳まで遠のいてよく聞こえなくなってゆく。
だが、悪口だけは聞こえたぞ!
ものすごい聞こえたぞ!
うおおおおおお
おのれおのれおのれおのれ!
お〜の〜れ〜〜!
「–––––うんこうんこ!」
死がより間近まで迫ってきている。聴力はどんどんと失われてゆくようだった。娘の声はもうほとんど聞こえない。それでも孫たちの声はよく通り、聞こてくる。
「–––––起きろ。うんこうんこ!」
「–––––うんこさせろ。うんこジジイ!」
こうして人生の終わりにうんこに塗れた私は、残された最後の時に家族に祝福を贈ろうと思っていたことも忘れて、憎しみに囚われていった。
「ヤダ。‥ダよ。–––––お父さ‥、–––––––バカ!」
聞こえたぞ!
バカだと!
おのれ、お前は最後まで親不孝を言うか!
おのれおのれおのれおのれ!
この怨み。この憎しみ。けして忘れんぞ。
おのれ、貴様らを末代まで祟ってくれるわ!
「「「––––ジジイ、うんこ!」」」
その声が私の現世で聞く、最後の言葉になった。
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