雪山脱出6


 白刃を手にした絵師イストバンはいつものように感情を出さない。

 まるで人形のような彼に向かって問いかけてみた。


楽師マールクはどうしたの?」

「この血を見て分からないか? そこまで愚鈍であったとはな」


 いつもと違って饒舌。けれども絵師イストバンの意志を感じる声。

一瞬過ぎった”操られている”という考えはどこかに吹き飛んだ。

 つまりこれは彼の本心の行動ということ。


「何故?」

「何故だと?」


 寄って来る絵師イストバンから一歩飛び退き、壁に張り付く。同じように一歩詰められる。


「何故こっちに?」

「何故? 逃げるから」

「何故短剣を私に向ける」

「逃げるからだ」

「だからそれは何故と――」

「ああ、何も分かっていないのか。いや忘れてしまったのか。俺がお前に付いてきた理由を。俺自身の決断で付いてきたというのに。俺の決意も忘れたというのか」

「付いてきた理由?」

「――戦いだ」

「あぁ――」

「そうだ。思い出したか? 俺はお前について来れば戦えると思った。もっと大きな戦闘を、もっと多くの命のやりとりを、もっともっと凄惨な戦を――なのに!」

「ならばついてくればいい。もっとやりたいのだろう? 何も諦める必要はない」

「だから納めろと?」


 短剣をくいくいと上げる。


「下らん逃げ口上にしか聞こえないな。まあ今の物言いは良かった。かつてのお前の尊大さがあった」

「私は何も変わっていない」

「いや違うね。かつてのお前は戦いを選ばず逃げ回ったりしない。あまつさえ自分の物を害されて見逃すことなどありはしない。欲しいものは絶対に手に入れる。そんな女だったろう。伯爵という位をかさに着てなお足りぬ驕りと、聖女というのも納得の魔力の昂ぶり。力を持つもの故の他人の都合を考えぬ、強引さを伴う冷淡さ。そんな女だからついて来たというのに。今のお前は怯えて逃げ惑うただの子猫」

「私が怯え――怯えているだと?」

「それ以外何がある? 目前に迫った敵から逃げ、強そうだからと鳥を避け、大したことのない蝙蝠如きに全力をだし、トカゲからは犠牲を出しても逃げ惑うなど。怯え以外のなんだというのだ。要らないんだよ。その程度の女」


 冷たい目。血の通わない無機質な宝石の如き輝き。

 私と目をあわすというよりももうこの後のことを考えている。

 私の向こうを見ている。

 射貫くような視線。

 昔も、昔のイストバンもそうだった。


 初めて会ったのは学院の広場。

 学院には幾つか広場がある。

 自らが頑張っている姿を出来得る限り王族の目に泊まりやすいようにと、王宮側の広場に子供たちは集まることが多かった。

 貴方はいつももっとも王宮から離れた広場にいた。

 閑散とした広場の端でカンバスを広げて一人。

 いつも人から離れて、一人。

 けれどもいつも人が集まる。垂らした前髪に隠した端正な顔立ちはミステリアスに映ったのだろう。

 更には描いている絵の美しさに惹かれ、そこに自分が入りたいと思わせた。


「何をしているのかしら?」

「あら、美しい絵ですわね」

「もっと良いモデルをお探しではなくて」


 寄って来る相手もあの目を前にして退散させる。

 男も女だ。

 いつしかそれは学院の名物となった。

 どこの子息が、あの目にやられただの

 どこの子女が、あの目に射抜かれてしまっただの

 噂が噂を呼び、連日のイストバン詣。

 そしてその噂はいつしかフェレンツさえも動かすほどになった。

 当然私もだ。

 初めて見たイストバンは実に気だるげという印象だった。

 のんべんだらりと筆を動かし、それでいながら無言で”来るな”という圧を出す。まあ普通の人嫌いの男だった。

 フェレンツはともかく私には特に見るところのない男。

 けれども目を引く者があった。

 絵だ。

 その時書いていたのは、学院の建物。色とりどりのタイルと青い屋根。

 一見すれば美しい風景の絵。

――けれどもそれは違った。


「面白い絵を描くわね」

「ええ、美しい絵ですね。複雑な学院の壁面をこう表現するとは」

「いえ、違うわ。フェレンツ。美しいのは建物のお陰」

「――帰れ」

「そうそれよ。その目。やはり面白いわ貴方」

「確かに面白いです。そんなことを言われるだなんて、思いもよりませんでしたよ。イライザにも私にもね」


 ああ、この人には分からない。これではイストバンの強硬な態度も納得だ。

 落ち着いた筆遣いに隠された雄々しき筆致。猛々しい厚い塗りに覆われた瞋恚しんい

 孤独は選ぶために絵を描いているだなんて。

 周りから浮くためにそれでも学院に居るためにしていること。

 それでも人が寄って来る。その怒りをカンバスに塗り込んでいるだなんて。


 調べによればイストバンの家格は低い。

 例えば私やフェレンツがこんな目で嫌がって見せれば二度と人は集らないだろう。そうではないそれをさせてしまう家格の低さ。それも怒りの源泉。

 それでいて授業は真面目。しかも来た当初よりも体力剣術などの向上著しい。

 つまり学院には居る理由がある。

 合わせて考えれば大体のことは分かる。


 だからフェレンツに聞こえないようにそっち顔を寄せて答えを言った。


「貴方の望み私なら叶えてあげるわ」


 恐らく学院で初めて彼の琴線に触れることが出来たのだろう。

 怒りに燃える瞳は目標を定めて、野望を、願望を映すようになったのだから。


 そう今の絵師イストバンのように――


「ははっ! 素敵な目よ絵師! 獲物を狙うような、射すくめるようなその目。この私をして素敵と言わざるを得ないわ。今の貴方にもそんな目が出来るだなんて誤算だった。そんな男だったとはね!」

「ふっ見立て違いか?」

「いいえまさか? 褒めているのよ。そんな素敵な目が出来るのであれば。貴方にはもっと違う役を割り振ったというのに」

「なら、お前の指輪でも頂いて兵を動かしてみよう。先は将軍というのも悪くない。存分に戦い続けられる。都を襲撃してもいいな」

「あぁ駄目駄目。それじゃまるで駄目ね」

「親に迷惑をかけられないか? それとも俺には兵を使えないとでも?」

「違うわ。お前に先はない――」


 壁に当てた手。魔力を集めていた手。小屋の壁にぶち当てた。


「そんな穴を開けてどうするというのだ」

「穴は結果よ。私が何の魔法を扱うのか忘れたのかしら?」

「――冷気か」


 冷気に壁は凍った。外吹く風に耐えられず穴を開けるほどに脆く。穴はヒビを呼びヒビは壁を割り、壁が割れれば天井も耐えられるはずもない。

 ずれるようにして私の背後へと天井は落ち、残った壁も柱を残した崩れる。残った柱とて壁というつっかえが無ければ時間の問題。

 更地になるまでに対して時間は掛からなかった。


「これがどうし――」

「ふふふっ、寒いでしょう。そうよね。お前には堪えるでしょう。今まで暖かい場所に居て防寒着も無い。お前の身体は普段通りに応えてくれるかしら?」

「それはお前とて同じ――いや、そうか”氷の”ということか」

「そう。このイライザにはこの程度の寒さはそよ風程度でしかない。夏の湖畔に吹く爽やかな風と言ったところかしら。お前はどうだ? 身体は凍えてて動かせないか?手はかじかんで硬くなっていないか? 肌は突っ張って痛みはしないか? その状態で私を撃てると思うか?」

「な――めるなああぁぁぁぁ!」


 叫び、声を上げて奮い立たせる判断。

 身体が冷え切る前に短期決戦を挑む決断。


「見事だ。絵師イストバン!」

「殺すっ」


 飛び掛かってくる絵師イストバンの短剣も今なら回避が出来る。

 けれども、反撃の私の魔法は手ごと払われ明後日へと。


「何故戦う。何故今。ここまで無様を晒しておいて何故だ」

「生きたい。以外に理由はいるのかしら?」

「そんなタマじゃないだろう」

「あら、見立て違いね。誰だって生きたい。何を排しても生きたい。どんな無様でも生き抜きたいもの。それがないからお前は上に立てないのよ!」

「お前はここで死ぬというにか。この程度で止められると思うなっ」


 確かに私は非力で動きも遅い。

 鍛え上げられた絵師イストバンを前にしてはここまで有利な状況でも五分というところだ。

 切り札は魔法――だが手を跳ねのけられて明後日の方向へ飛んでいく。


「無理だよ。あの屋敷で一番肉体が弱いお前だ。幾ら俺に弱体が入ったとしても!」


 短剣の一刺し――とはいえこれは遅い。私でも避けることは出来る。


「これくらいの弱体でも当てられないのに?」


 再び短剣の一撃。

 私も短剣を取り出し打ち合う。

 力では少し押し負ける。

 

 全力で振り絞る。食事も満足に取れず、ろくに休まず、凍える寒さの中で、全力で戦いを続ける。

 絵師は笑っていた。

 多分私の口角も上がっていた。


「ははっ、必死だな!」

「ふふふっ、お前こそ。ドブに落ちた犬のような形相よ」


 楽しかった。

 何もかもを考えず、生きることすら考えず。ただ命のやりとりをする。やり直しが始まって以来もっとも楽しかった。


 けれどもそれは長続きはしない。

 もとより不十分な状態での戦闘。互いの体力も私の魔力も底を付く。

 もつれる足は雪に取られ、息も凍り付く冷気に手が動くことを拒否する。


「くっ」

「こけるとは――無様な」

「人のことがいえる? 雪塗れじゃない」


 再び立ち上がる。けれども足が言うことを効いてくれない。

 それでも闘志はなえない。けれども足は一歩も前に出ない。

 打ち付ける凍てつく風の中、震える足では立っているのが精いっぱい。


 それでも絵師イストバンは動いた。

 雪に塗れて、月に照らされ、尚消えないエメラルドの中の怒り。

 どこまでも追って来る執念が、ゆっくりと私に向かってきて――短剣が届いた。


「見事よ」


 だがただではやられはしない。同時に私の短剣も腹に突き刺した。


「――それだ、お前はそれで――こ――そ」


 既に身体は冷たく、胸は鼓動を刻んではいない。


「分かったわ。貴方の言う通りよ。このイライザ・グラティアリスが闘争から逃げるなど、有り得ては――いけなかった」


 だから私は次のいつもの朝。

 目覚めるなりに貴公子フェレンツの顔を歪ませた。

 きっと凄まじい形相だったのだろう。

 でも構わない。そのままの表情で私は「戦争よ」と告げた。



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