湖沼脱出1


 そしていつもの朝を迎えた。


「おはようイライザ」

「ええ、おはよう」


 奴を、あの狂信者を倒すためにも軍は必要だ。

 どうしたって逆立ちしても私では倒せないだろう。

 森を抜けて王都でグラティアリス家の軍が欲しかった。


「アンナ、イライザが起きましたよ。湯あみの準備――」

「ああ、貴公子フェレンツ。今日は湯あみはいいのよ」

「湯あみを?! ええ! 熱でも――ないですね。いつも通りの暖かさ。何かあったのですか? 嫌な夢を見たとか?」

「大げさね。確かに夢見は良くなかったけれども」


 森は抜けられなかった。

 幾ら試しても、どう足掻いても、魔物の群れが立ちふさがる。

 馬車を降りて森を歩いて魔物を避けても、いずれ襲われ元の木阿弥。

 魔物の餌になったことも、何度かある。

 貴公子フェレンツの綺麗な顔も頭から齧られたことも。


「では一体」

「ただ――」


 分かったのは魔物はアンデッドの群れを中心に放射状に逃げていることだけ。森の全体の魔物が大移動をするのだから蟻一匹も這い出る隙間もない。

 ならば答えは一つ――


「違うことをしようと思って」

「違うこと――とは?」


 貴公子の言葉には答えず、私は身体を起こした。シーツを身に纏いベッドを降り、扉の外の従僕アンナへ「馬車を用意させなさい」と声を掛けた。


 残す選択肢は二つだ。

 雪山から隣国へ抜けるルートか、湖沼から国境沿いに出るルート。

 どちらも等しく危険が高い。

 雪山は踏破そのものが鬼門。森ほどでないにしろ、魔物の数も多く。森よりも魔物

の強さは高い。

 湖沼も通り抜けるのは困難。ただ雪山と違い馬車を使わないなら、徒歩であるなら抜けることは容易い。


「さてお姫さん。今朝はどこに向かいますかね?」


 何食わぬ顔をしている騎士ラスロが玄関にて待っていた。

 あれ以来、騎士ラスロは何度か同じように素っ気なく逃げることがあった。けれども対処は容易だった。

 私の貴公子プリンスの最後の一人にしなければいい。

 一人になると様子がおかしくなる。凶暴になり、自棄になり、素っ気なくなり――そして生き残ることだけを考える。

 まさか騎士ラスロにとって仲間がそこまで大切だとは思わなかった。


「――そうね。沼か山かしら」

「冗談でしょ? 今からかい? 君の我がままはいつものこととはいえ流石に――」

「そうだぜ。この糞寒ぃのにやめてくれよぉ」

「――そんなにか?」

「黙れ、イライザ様の決定である。しかし、何故にか教えて頂けると――山となれば準備も要りますので」


 いつもの黒い馬車の前に、まだ準備中の貴公子フェレンツと料理の片付け中の料理人タマシュを除いて全員が揃っている。

 一様に驚く。当たり前だ――私だってこうなってなければ湯あみがいいもの。


「神の尖兵を迎え撃つためです」

「―ーへ?」


 やはり楽師マールクですら間の抜けた表情を晒すだけになる。


「まあいいわ。現実的には沼越えでしょうね」


 湖沼地帯は古い時代に戦場になった――それはつまり湖沼を挟んでこっちとあっちで争うべき領地があるということ。

 こちらはここアーテル・レギア。あちらは現在は公国の所領。とはいえそこは国境沿い。ただ砦があるだけ。とはいえ砦には国境の軍がいる。

 少数であるが国境を守る精鋭。あの狂信者に対抗しうることは想像に難くない。


「沼越えって、何しに行くんだよぉ」

「国境軍を動かす」

「国境軍でございますか?」

「んー難しいかなぁ。その、相手がなんであっても確かに国境軍なら対抗しうるとは思うけど。確か今の将軍は――グラティアリス家の息は掛かってないよね?」

「ええ、残念ながら」

「となると『アーテル・レギア伯の命である』とやって動くかどうか。難しいんじゃないかなぁ? 爵位は君が上かもしれないけど命令系統が違いすぎるでしょ」

「そうよね。ただ恐らく――」


 アンデッドの軍団に追われるのだから。

 流石に私がグラティアリス家の者だとしても。

 私のお陰で成り上がり、私のせいで白い目で見られることになった家。

 幾ら伯爵といえども聖女からは格下。恐らく死ぬ間際のおじい様が大分吹いたのも効いていたのだろう。

 爵位や領地こそ今は取り上げられなかったが。次代は私、恐らく領地もこの僻地を残して私の手には入らないだろうことは明白。

 明るき事の代名詞にもなったグラティアリスは、いまや暗き事を意味する。

 命令系統と学者はぼかしたが、ただの嫌われ一族。

 けれども、幾ら私がグラティアリス家の者だとしても。

 アンデッドの大群から逃げているのであれば――


「問題なく動くでしょう」

「相変わらずすげー自信だなぁ」

「そこがイライザ様の素晴らしいところだ」

「まあいっそ清々しいわな。てか別に沼越えなくてよくねぇ? ぐるっと街道回れば平坦な道だろ? わざわざ氷がいつ割れるか分からない場所とか通るか?」

「――ぬかるんではまるかも」

「だろー?」

「まあ確かに、貴方たちの言うことも一理ある。けどね――」


 勿論そう。湖沼地帯ということは湖も沼もある。

 氷の張った湖はいつ割れるか知れない。

 ぬかるんだ沼にいつはまるか知れない。

 けれども、私には何度もやり直す力がある。

 幾ら割れた湖に突っ込もうが。

 幾らぬかるみにはまって動けなくなろうが。

 何も問題はない。

 それになによりも――


「――早い」


 と一言。

 私はさっさと馬車に乗り込み、出立の号令を掛けた。

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