第3話

 淵神友杜。一言で、かつあたしの語彙で説明するのなら、クラスの陰キャだ。

 他人と話しているところを見た事がない。常に教室の隅で本を読み耽っている女子生徒だ。ほとんど発言しないから声もあまり聞かないし、一番後ろの席であることも相まって下手したら存在を忘れてしまう。害にも益にもならないクラスメイト。

 ただ、悪ふざけがすぎてうるさくしていた男子にただ一言、「うるさい」と言って諌めていた事だけを覚えている。多少の苛立ちは含まれていたが静謐な声音で、特別大きな声ではなかったのに存在感があって、その一瞬だけ教室の空気がピンと張り詰めていた。

 それは一瞬のことで、教室はすぐにいつも通りの喧騒に埋まっていった。

 淵神もすぐに何事もなかったかのように本に視線を落としたし、注意された男子も少しバツが悪そうな顔をしてテンションを低くしていたけれど、次の休み時間にはすぐに戻っていた。

 彼女はただ、発声するのに五秒もいらない言葉を落としただけ。本当にそれくらいなのだ。

 彼女の声もまともに覚えていないし目も合わせた事もないのに、その苛烈な静かさだけがやけに印象付いている。藤ちゃんに名前を呼ばれるまで、あたしは淵神から目を離せなかった覚えがある。会話に戻ったら、そんなことすっかり忘れてしまったけど。


 そんな彼女は、このままでは一ヶ月後に死ぬ。自殺する。


 首吊りかオーバードーズか自傷か毒死かわからないけれど、とにかく死んでしまう。己で命を絶ってしまう。あの時、橋の下に身を投げようとしたあの人みたいに。

 警察を志すあたしは、目の前の自殺志願者予備軍を放ってはおけない。放っておいてはいけない。人命救助は最も重要な公務だから。


 淵神の存在感は本当に希薄なもので、苗字を思い出すのにも苦労した。

 強烈なエピソードを持っていて、それが容姿と繋がっていても、決して名前とは繋がっていない。

 下の名前はわからなくて、教卓に置かれた名簿を見てようやく「友杜」という名を認識する。

 それでも読み方がまだわからなかったが、丁度授業で登場した昔の詩人、杜甫という人と漢字が同じだと気がついて、「友杜」の読み方は「ゆと」なのだとわかった。

 彼女の名前を呼んでいる人は一人もいないから、わざわざ特定するという手間を重ねなきゃいけないのは面倒だったが、これも人一人の命を救うためだと考えれば少ない労力だ。


「ゆと、ちょっと来てくれる?」


 天瀬が淵神を呼ぶと、彼女は数瞬置いて反応した。緩慢な動きで本から顔を上げ、そして訝しげにあたしを見る。


「……何、私?」


 声、そんな感じだったっけ。その言葉をすんでのところで飲み込んで、あたしは頷いた。


「うん。それ以外に誰がいんの」

「ゆとって」

「名前でしょ。淵神友杜」


 自分の名前についての話題だというのに何故だか興味がなさそうに、淵神は頬杖をつく。その態度が、あたしは気に入らなかった。わざと素っ気なくして、自ら嫌われようとしているかのような。


「それで、何? 天瀬さん」

「ちょっと話したい事があるの。来て」


 警戒心を解くように、少し声音を柔らかくして言う。淵神はやれやれと溜息をつき、立ち上がった。


「こっち」


 天瀬が先導をして、体育館の裏に連れて行く。周囲に樹木が生い茂って日陰になっており、七月の暑さを少しだけ誤魔化してくれる。低木もいくつか生えていて、離れたところからは見えない穴場だ。


「……何、こんなとこに連れてきて。カツアゲ?」


 淵神は警戒心を露骨に出しながら訊く。噛みついてくるなら噛みつき返してやる、という手負いの獣のような警戒が、態度に滲み出ている。

 呼び出した場所も悪いのだろうが、そのつもりがないのに敵愾心を向けられるのはあまり好ましくない。あたしは少々大仰に肩を竦めて見せる。


「そんなワケないじゃん。あたしが友達になってって言った時、どうして断ったのか知りたいの」

「嫌だから嫌。それじゃ駄目?」

「ダメ。ちゃんと理由話して」


 言い逃れようとする淵神を追い詰めるように、一歩近付く。すると、淵神は一歩後ずさる。近付く度に離れていく、その距離がもどかしい。


「何で?」


 思わず、責めるような響きになってしまった。

 中々明瞭に答えようとしない彼女に、少しだけ苛立ちを覚える。淵神は少しまごついて、しかし自分の考えは一切曲げなかった。


「……関わるつもり、ないから」


 淵神はそう言って、自分の腕を掴む。続けて、口を開いた。


「私、他人に興味ないから、関わるつもりないの。友達とか、要らない」


 淵神はあたしを睨みつける。敵意に近しい拒絶が含まれた視線。それは、明確な拒絶だった。


「……なら、別に友達を作りたくないワケじゃないのね」


 あたしがそう言うと、は、と淵神は目を丸くする。あたしは名案とばかりに目を輝かせた。


「だから、友達は『要らない』んでしょ? 必要ないってそう言ってるんでしょ。それつまり、絶対に有るべきものではないけど有っても困らないって事じゃん」


 あたしがそう言うと、淵神は呆れたように溜息を吐く。揚げ足取りじゃん、という呟きには、聞こえていないふりをした。


「じゃ、あたし達、今ここで友達になった。それじゃいけない?」

「いけない。それはアンタの勝手な宣言だよ」


 友好の証として淵神の手を握ろうとすると、簡単に振り払われる。やめろ、と言う悪態が聞こえた。あからさまに眉を顰めて、不機嫌そうに。


「何でアンタはそんな『友達』って文言に拘るの」

「文言じゃなくて関係性にこだわってんの」


 淵神は辟易とした様子だった。顔色が悪いのは、果たして暑さのためだけだろうか。


「ね、ゆと、友達になろう」


 無理矢理手を握って、熱弁した。淵神は、顔を伏せる。


「……要らない」


 そのまるで、子供の駄々だと思った。何かを、恐れているようだと。


「ゆと」


 名前を呼んだ。彼女はぴくりと肩を震えさせる。

 淵神が口を開いた。何かを言おうと、息を吸う。

 しかし、その瞬間に予鈴が鳴り響いた。校舎の外に出ているせいか、随分と遠く聞こえる。


「……授業、始まる」


 あたしがそう呟くと、淵神は逃げるように走り去っていってしまった。

 無造作に伸ばされたセミロングの髪が靡いて舞う。ふわりと、柚子の香りがした。彼女は存外脚が早くて、あっという間に渡り廊下に飛び込んで見えなくなる。


「……なに、あいつ」


 傲慢だと我ながら思いながらも、苛立ちを止められなかった。折角、友達になろうと思ったのに。


 あたしの中で、友人とは尊いものだ。

 苦楽を共にし、何気ない会話で日常を共有し、時には一緒に遊んだりしてその時にしか作れない思い出を作る。両親も、高校での友人は長い付き合いになるから大事にしろ、と言っていた。


 もちろん、初めて会う人と会話をする事は怖い。勇気が必要だ。だから、その勇気を出していない淵神に、あたしは苛立ちを覚えていた。勝手に不公平だと思っている。

 今淵神に友人がいない状況にあたしは関与していない。彼女が一人なのは、他ならない彼女自身が友人を作る努力を怠っているからだ。

 だからこそ、今こうして友人を作る労をあたしに押し付け、しかし平然と友達になる事を受け入れようとしない淵神に、嫌悪感を持っていた。

 適材適所という言葉があって、あたしの適所は友達作りだった。その卓越したコミュニケーション能力だった。

 淵神の適所は、あたしと同じではないのだろう。それだけの事だ。ならば、彼女はどこに適所があるのだろうか。


「……あたしって、ゆとの事なんも知らないなぁ」


 当たり前だ。だって、下の名前だって今日知ったくらいなのだ。淵神が何を好んで何を嫌って、どんな経験をしてどんな事を思って生きてきたか、その一片すらあたしは知らない。


 無関心は、不理解であると思った。


 けれどその無関心は、淵神も同じだ。彼女もあたしの事を何も知らないだろう。

 なら、ゆっくりと互いの事を知っていけばいい。その過程で、彼女の自殺を止めれば良い。

 もう、友人になったのだから。淵神には拒否されたけれど、名前を知って、友人になりたいと申告すればその時点でもう友人だ。


「……一ヶ月、か」


 空を見上げる。本鈴が鳴り響く、蒼穹を。入道雲が立ち上がる、夏らしい青空を。あと数週間で訪れる夏休みに心を馳せながら、天瀬は独りごちていた。

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