第11話:御舟千紗都のカルテ

 移動式のベッドに乗せられた千紗都が医者と共に集中治療室から出てきたのは、夜の九時を過ぎた頃だった。


 千紗都からは幾本かのケーブルが伸びていて、痛々しく感じられる。しかしその顔は、眠っているように安らかな顔をしていた。

 三宅には、どこかに異常があるようには見えなかった。


 三十代前半ほどに見える若そうな医者は、胸元に付けた名前の書いたプレートを示すようにして、坂東寿人ばんどうひさとと名乗ってから、淡々と容態の説明をした。


「バイタルは非常に安定しています。しかし、ほとんど意識が認められません」

「それは……植物状態ということでしょうか?」


 千紗都の父、御舟吉秋みふねよしあきが顔を強張らせて言った。優香は短い悲鳴をあげ、口元を手で覆う。


 三宅は小学生の頃、学校の運動会や空手の大会で、御舟家と一緒に食事をしたり、時を共にしたことがあった。

 その場には吉秋も居て、他の子供の父親がほとんど居ないなかで、娘思いの父親だと思ったことがある。

 今は四十代にしては生え際が後退しているが、当時は三宅にも気さくに話しかけてくれた、気のいい父親だった。


 そんな吉秋が絶望に顔を歪ませている姿は、三宅の胸を締め付ける光景だった。


「いえ。いわゆる植物状態——遷延性意識障害ではありません。脳への外傷は見られませんでした。

 今は目を瞑っていますが、先ほど千紗都さんの視線追従や、聴覚および触覚に対する反応を検査しています。

 視線の追従、小規模ですが言語の表出も見られ、微弱ですが意識が認められます。原因不明の最小意識状態です」

「最小意識状態……」


 吉秋は医者の言葉をうわごとのように繰り返した。


「娘は治るんですか? 原因は、何なんですか?」


 優香が縋るような声を出した。

 それまで無表情だった医者の顔に、一瞬、さっと暗い陰が走ったのが分かった。


「経過を見ていきませんと、なんとも言えません。視覚や聴覚、嗅覚といった刺激を与えるリハビリで継続的にコミュニケーションを図り、できるだけ早期の意識回復を目指すのが、今後の方針になります」


 医者と看護師はベッドに寝る千紗都を連れ、病院内にある集中治療病棟というところへ向かっていった。

 千紗都の両親は、別の看護師から入院に関する手続きの話を聞くことになり、時間も遅いということで、三宅と美亜子は帰宅を促された。


「二人とも、千紗都のこと心配してくれて、ありがとうね。よかったら、また千紗都に会いに来てね。きっと、千紗都も喜ぶから」


 帰り際、憔悴した優香が、ねぎらいの言葉をかけてくれた。

 意識のない人間が、どうやって喜ぶことができるだろう。それでも、無理やりに笑みを浮かべて感謝を告げる優香に、三宅は「また来ます」と伝えるのが精いっぱいだった。

 病院に着いてすぐは若々しく見えた優香が、あっという間に老け込んでしまったようで、見ていて辛かった。


 病院からの帰り道、美亜子の家はそれほど遠くないというので、三宅は彼女を送っていくことにした。

 麻美へは電話で千紗都の状況を話し、自分はこれから帰宅すると伝えておいた。


 自転車を押しながら、三宅は肩を震わせる。興奮していたせいで気が付かなかったが、部屋着のまま出てきたために夜風の寒さが堪えた。


「夢の件、さっそく今日から頼むぞ」


 隣を歩く美亜子は白い息を吐いた。


「ええ。わかりました」

「それと、明日の放課後、千紗都のところへ行く」


 思わず返事に窮してしまう。そう間を置かずに何度も千紗都の元を訪れるのも、優香や吉秋の迷惑になるのではないかと思ったのだ。

 それだけではない。

 娘の悲劇に悲嘆する千紗都の両親と顔を会わせるのは、どのような慰めも空虚なものにしかならない以上、気が引けた。


「言っておくが、単なるお見舞いという訳じゃない」


 黙っていた三宅を尻目に、美亜子は続けた。


「……それは、どういう?」

「調査だよ。千紗都の前日の行動や、彼女のFREAMの履歴から何か分かるかもしれない。面会時間なら千紗都の母親も捕まえられるだろう。母親から話を聞いて、その足で、千紗都の家を調べたい」


 言われてみればその通りだった。美亜子は、自分の見た夢ですべてが解決するとは思っていないのだ。

 むしろ美亜子が語ったように、事件に型があるのなら、千紗都の行動や体験の調査こそ、事件の片鱗を掴むのに重要に思える。


「そういうことなら、僕が優香さん……千紗都のお母さんに掛け合いましょうか? それも、直接家に伺うと伝えた方が、まちがいなく優香さんと話ができると思います」


 三宅は鼓動が早まるのを感じた。

 美亜子は、腕を組んで黙った。彼女が深く考え込んでいるように見え、同意してくれないことに、やきもきとした気持ちになった。


 しばらくして、美亜子は口を開いた。


「いや、いい。面会に行って母親に会えなかったときの、後段の策としよう。病院で他にも、やりたいこともある」


 もやもやとしたものが依然として胸を覆っていたが、美亜子の判断を信じて三宅は同意した。

 続けて美亜子は「明日、学校にFREAMを持ってくるように」と言った。睡眠中にしか用をなさないので不思議に思ったが、三宅は承諾した。




 美亜子を家まで送り届け、自宅に着いたのは十一時近かった。

 麻美はまだ起きていて、三宅が現れるとすぐに、三宅の分の晩御飯の準備を始めた。

 由貴もリビングでテレビを見ていたが、三宅が帰ると、少しテレビのボリュームが下がったような気がした。


 三宅が食事をしている間、麻美は電話で話した以上のことを聞こうとはしなかった。千紗都の母親と麻美は今も交流があり、気になるはずだが、あれこれと詮索されないのはありがたかった。


 かなり遅い夕食もそこそこに、手早く入浴を済ませた三宅は、自室に戻った。

 早速、FREAMの準備に取り掛かかる。FREAMの磁気発信側にあたる、ぺらぺらのシート状の装置を枕のすぐ下に置く。


 昨晩セットしていた夢を確認しようと、タッチパネル液晶式のFREAMのリモコンデバイスを手にしたとき、ひやりとした悪寒が走った。

 そして、美亜子の提案を安請け合いしたことを後悔した。昨日見るはずだった夢の中身を失念していた自分を、酷く恥じた。


 セットされていた夢は、『どきどき♡学園ハーレム部(男性用)~純情学生はこんなにモテモテな青春ラブコメの夢を見るわけがない~』だった。


 古典作品名のパッチワークのようなふざけたタイトルだが、学生だけでなく、学校生活を懐古する若年世代から中年世代にわたって広く支持を得ている。

 ファンの間では通称『どき学』と呼ばれ、年齢問わず人気の高い名作というのが、ネットの評価だった。

 サードパーティ製の夢で、フリームテック社が展開する夢専用のオンラインストアで販売されているものだ。

 年齢制限はR15となっており、三宅がこの夢を購入したのは十五歳の誕生日だった。


 FREAMの画面に表示された『どき学』のロゴを見つめ、三宅は必至で頭を巡らせた。


 こっそり別の夢……例えば、美亜子が好みそうな『日本神秘録 忘れ得ぬ伝奇』などという夢ならば、もし暗闇の少女の夢を見なかったとしても、何ら後ろ暗いところはない。


 だがもし『どき学』を選び、暗闇の少女の夢を期待通りに見ることができない場合は、どうか。

『どき学』を美亜子と一緒に見るはめになり、美亜子の軽蔑は避けられないような気がする。


 もちろん、夢を見ている最中にタイトルが美亜子に知られることはないだろう。

 だが、自分の女性忌避性を把握している美亜子が、女子学生ばかり登場する夢を見てどんなことを考えるかは、想像に難くない。


 少し悩んだ末、三宅は昨晩の通り、『どき学』をセットすることに決めた。


 昨晩見た、暗闇の少女の夢を再現することが最優先だった。

 自分の恥など千紗都の回復に比べれば塵埃のような犠牲だと思ったし、美亜子ならば、自分が女性忌避の精神治療として『どき学』を見ていると解釈してくれるかもしれない。


 リモコンで『どき学』をセットしたところで、携帯電話に美亜子から連絡がきた。彼女の方でも準備は整ったらしい。

 シェアリングモードは、装置を起動させてリモコンでシェアリングモードを選択し、シェアしたいユーザーを招待するだけでいいという。


 美亜子のユーザーのIDを確認した三宅は、美亜子を招待した。アカウント名は「みゃーこ」となっていた。


 あとは、普段通りお互いが眠りにつく。ホストにあたる三宅は先に眠りにつく必要があるため、美亜子からは早く寝ろとせっつかれた。

 時刻はもう十二時だった。三宅はベッドに入って眼鏡を外すと、手元の照明用リモコンで電気を消した。


 真っ暗の部屋に、目が徐々に暗順応していく。うすぼんやりと照明の輪郭が浮かんでいる。

 疲労しているはずだが、興奮と不安が入り混じり、なかなか寝付けなかった。

 三宅は寝ようと目を閉じた。


 暗闇の瞼の向こうに、教室で見た、鮎川の覇気のない顔が浮かんできた。千紗都を助けることができれば、彼女の兄も、元に戻せるかもしれない。


 部室でみた千紗都の顔が浮かんできた。顔を明るくした彼女と、一方で、病院で見た眠り姫のような彼女の姿が、交互に浮かんで消える。その変貌に胸が痛んだ。


 三宅には、分かった気がした。

 自分がなんとなく病院を再訪したくないのは、変わり果てた千紗都という現実を受け入れたくないからなのだろう。


 千紗都の姿を強く思い浮かべる。その笑顔を、強く、強く。

 自分の名前を呼ぶ彼女の声が、耳の奥で聞こえた。

 気付かぬうちに、彼は深い眠りに落ちていた。


 彼が夢を見るレム睡眠までは、まだ長い時間があった。

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