【二次創作】本編アフター ヨシ⇒ハル【ご都合主義】

「――っ」


 目を開けようとして開けられなかった。照明が眩しかったからだ。どうやら目いっぱい瞳を開けたらしい。目蓋を閉じても緑色の何かが見える。だから手で緑色の何かを拭い取ろうと――違和感に気づいて、動かし始めた腕を止めた。


 軽く持ち上げた腕を見れば、チューブ管……それにリード線が固定されていた。そのリード線の先には、バイタルメーターが視界に入った。


 目線を変えてチューブ管をたどれば、吊るされた液体パックに辿りついて。まるで僕が入院患者の真似事をさせられてているような――ここまで思考して、大元の出来事が思い出された。


 そう――ナイフで自殺しようとした美玖を、ナイフと美玖の間に体を無理にねじ込んで止めた。かろうじて美玖に当たらなかったものの、軌道を変えたナイフが僕の首筋を襲い……


 ここまで振り返って僕は一人だと気づいた。室内の雰囲気は美玖の入院先と変わらない。美玖は……まだ生きていれば、きっとこの療養所にいることだろう。とにかく美玖の今を知らなければならない。誰も見ていないのなら――


「――いっっつうぅ」


 チューブ管を引き抜こうとして、痛みに怯んだ。どうやらカテーテルを刺されたあたりは、神経に触りやすかったらしい。下手な看護師の仕業かと憤懣やるかたない思いが呻きに混じる。それさえも堪えて、チューブの固定された辺りを反対の手で擦ってみる。そんなふうに時間を浪費していると――ドアの開いた音がした。


 引き抜こうとした時、点滴パックを吊るしたポールがガチャガチャと音を立てていた。だから不審に感じた看護師でも入ってきたか、と思ったんだ。だから薄目にして息を殺して、入室してきた足音に意識を集中した。


 ただ人物はなかなか姿を現さなかい。入り口側の軽く引かれたカーテンに隠れる位置で足を止め、逆にこちらを伺っている気配がした。膠着した状況に判断ミスを乗ろうが、タヌキ寝入り作戦と決めたこちらが悪い。だから仕方なく相手の出方を待つこと数分以上――


 やっと相手が動き出し、カーテンを開けた。カーテンに隠れていた顔が、ようやく現れ――


「――美玖っ」

「――えっ? ヨシ君、起きてた?」


 かすれ声が出ていた。現れたのは女性。しかも――洗髪を拒んだようなぼさぼさの髪、洗顔もしないくすんだ肌――かつての愛らしい容姿がまったく見られない、少し老け込んだ女性だった。それでも僕は――美玖だと直感したんだ。


 僕がここを訪れる時は、必ずと言っていいほど身なりを整え化粧をしていた。事前に知らせないで訪れた時は入室を待たされたほどだった。それで最近の素顔が分からなかった。ただ美玖が見せたくなかっただけなら、それでいい。けれど誰かが隠そうとしていたなら――


「……ごめん……なさい……ごめんなさい!」


 と、考えこんでいられなかった。ここで二人きりのチャンスを、逃していられないのだから――


「待って――いつううぅ!」


 体を起こしかけて、首筋に激しい痛みを感じた。患部の首筋で、再びパックリ裂けてしまったような感触もあった。ただ、これが功を奏した形になって。美玖が足を止めていた。こちらを振りかえったまま、立ち尽くしたから。


「だっ、大丈夫?」


 恐る恐る声を掛けてくる美玖を、出来るだけ引き止められるよう言葉を選ぶ。


「大丈夫じゃあ、ない」

「……看護師さん、呼ぶ?」

「看護師は、呼ばなくていい。こっちに来て……首を見てくれ」

「えっ? でも……」

「頼む。医者みたいな診断をしてほしいんじゃない。血が滲んでないか――そのぐらいの確認さ」

「…………わ、わかった」


 すぐに立ち去ろうという気配をさせる美玖の、足止めを何とか成功させた。それどころか、美玖と接近できるお膳立てもスムーズにできた。


「……えっと……」


 僕に近づいて、首筋に自分の顔を寄せる美玖。僕はベッドの中央で寝ているのだから、必然美玖はかなり屈みこんだ。


「……よく、見えないよ……」

「もっと寄ってみて」


 美玖はベッドに手をついてさらに顔を近づける。僕は患部を見せるように、美玖から目線を離した。それは同時に目的を隠す芝居にもなった。そっとチューブの繋がっていない腕から力を抜いて――


「……ううぅ、にじみは、見えないような……」

「ちょっと触ってみて。湿っていれば、滲んでいるか判るから」


 僕の誘導に美玖は空いた手を、こちらに伸ばしてきた。出来るだけ美玖の腕を注目しないように、視界の片隅で捉えるようにした。そのかいあってチャンスが到来したと――力を抜いていた手を素早く動かして、美玖の衣服――寝巻の襟足をつかんだんだ。


「――あっ」


 突然のことに驚いた美玖は、つかんでる僕の手を凝視した。この意味がすぐには飲み込めないといった雰囲気で。


 僕は僕で即興のアイデアが上手くいきすぎて、つい余計なことを言ってしまった。


「捕まえた」


 途端、美玖が激しく抵抗を始めた。頭を首を体全体でくねる様に動かして、僕の手を外しにかかる。対して懸命に放さないよう手に力を込めた。それでも限界は近いと感じたから――チューブにつながれた方の腕を強引に動かして、美玖の首筋に回したんだ。


 もちろん腕からは悲鳴のような痛みが走る。カテーテル挿入が下手な看護師へ恨み言が脳内を埋めつくしそうに――何とか頭の片隅に追いやりながら、堪えて美玖の頭を抱き寄せた。


「美玖。落ちついて」

「――いや、イヤ、イヤァ」


 言葉は届かないようだった。だからと落ちつくのを待てるほど、押さえていることもできない。大ケガを負って臥してる僕の筋力には限りがあるし、誰かが入室してくる可能性もあった。だから一か八かの思いで――力を出し切る勢いで美玖の頭を抱き寄せ、口付けた。


 それまでは力の限りに閉じていた目が、大きく見開いていた――想像すらしてないような表情を美玖はした。そして急激に力が抜けて、ついにはベッド脇へと美玖の腰は落ちた。


 僕らはしばらく、五分かそこら口付けのままでいた。久しぶりなものだから、だんだん興が乗って美玖の唇を舌で割ろうとした。ただそれは、美玖のチョップで阻止された。手段を見るに、どうやら落ちついてくれたらしい。唇を放して――


「……どうして、逃がしてくれないの?」

「逃がしたくないから」

「……どうして、美玖を選ぶの?」

「視界一杯に美玖しか見えないから」

「……どうして、どうして、どうして……」


 落ちついた雰囲気はすぐに美玖のつぶやきで塗りつぶされた。その嘆きの際中、美玖は僕を見ていない。俯いたまま、どこか遠くの光景に語りかけるような瞳をしていた。それならばここに帰って来てもらおうと言葉をかける。


「どうしても何も、美玖から僕の中に潜り込んできたじゃないか。それからの僕にしてみれば、美玖はもう他人――違う個体の人間じゃなかった。二人でも一つだって、ずっと感じていたんだ」


 効果はあったようで、美玖のつぶやきは止まった。そして――


「……いいの? 汚れた、壊れた、もう出来そこないな美玖でも……いいの?」

「いいんだ。言ったろ、僕らは一つになってたって。それすなわち、汚れて壊れた出来損ない――それは僕も同じってことさ」

「……うっうう、ううっ、うああぁぁぁんん……」


 美玖との間にできていた壁は崩れた。両腕を僕の背中に回して、僕の胸に顔をうずめて美玖は泣き出した。傍から見れば、迷子が連れを見つけて安心したように見えたかもしれない。


 泣き始めは大きな声で――それもすぐに小さくなり、しばらくの間しくしくと美玖は泣いていた。緊張の糸が途切れたのだと思う、終いにはそのまま意識を飛ばしていた。


 その間、僕はと言えば……長い眠りから目覚めたばかりにこの無茶な姿勢でいるものだから、結構な負担が掛かっていた。それで判明したことが一つ――チューブ管を取り付けた方の手先が動かなかった。どうやら医師の目をすり抜けていたらしい。それほどに大ケガを負っていたらしい。


「どうやらウソ偽りなく、僕も壊れたらしいな。まあ、でも――それでいい」


 寝入る美玖につぶやきは届かなかった。これから先、手先が回復するしないは医師の診断を待つより他にないし――何よりになるだろうから。


 ただそれら以上に、になれたことが純粋に嬉しかった。他ならぬ美玖の手で。


 そうして美玖をもう一度見やれば――少しだけ三十路より幼い表情に見えた。見続けていれば、次第に愛らしさが増して来る。そして僕も……十数年ぶりに眉間の縦しわが和らいだように感じた――



   ◆◇◆◇◆



「――ちっ!」


 ヨシの病室へ美玖ちゃん姉さんを送り込んでしばらく――姉さんの騒ぎ声が時どき聞こえた後、姉さんの泣き声がした。それから静かになっても、姉さんは出てこなかった。ぼくのささやかな願いはどうやら叶わない――そんな思いが舌打ちをさせた。


 姉さんは頻りにヨシの安否を気にしていた。自殺を止められた上に、自分の手で大けがをヨシに与えてしまったから。話に聞いただけのぼくが思うより、姉さんの心理には大ダメージだったらしい。


 ぼくの与えていた化粧道具も可愛らしいパジャマも、それ以来止めていた。この数日間はすっぴんで、この療養所本来の簡素な寝間着姿で過ごすほどだった。


 そうまで態度に出されてはと仕方なく、ガス抜き――上手に運べればヨシとの完全決裂へ導けると連れてきた――そのはずなのに。裏目に出たことを悔やんでしまう。


 …………思い返せば、ぼくが美玖ちゃんをコントロールできたことがあったか?


 ……………………できた試しはなかったと、過去のぼくたちが語った気がした。今度のように――ターニングポイントであればあるほどに。


 聞き耳を立ていた姿勢から、背中で凭れる姿勢に変えて、ついつい昔を思い出していた。


 ぼくと美玖ちゃんとヨシの間で起きた決定的な出来事は、中学の時、美玖ちゃんをぼくが誘惑してヨシにばれたことだ。それで美玖ちゃんとは会わなくなって、味気ない毎日を過ごしただけ。


 そんな状態を中等部の終わりまで引きずって、楽勝といわれるぐらいの高等部編入試験日に登校できなかった。それで父さんに連絡が行き、お前には失望したと言われたんだっけ。


 ぼくへの愛情なんてものは、あの父さんだから当の昔に消えていだろう。その上でかけら程度の興味さえも失ったと、駒のように羽田野充彦が取り仕切る私立校へ強制入学された。


 受験なんてしてないんだから、裏口だったと思う。それでさえ、当時のぼくにはどうでもよかった。何せ美玖ちゃんとのつながりを失ったことに、未だ囚われていたのだから。だから隣の公立校に入学したと知ったとき、つい父さんに感謝したくらだ。


 ところが、まさか充彦があんな怪物とは思いも寄らなかった。せいぜいがお金持ちのお坊ちゃん。顔も良く、勉強も失望されない程度に出来て、運動の神経はかなり良い。女子たちの見る目がピンク色に染まるのだろうと予測できるほどには、人気者という第一印象だったから。


 この頃父さんが銀行を辞めて、羽田野グループで働きはじめた。そのために多額の上納をしたと伝え聞いていた。ぼくも貢物の一つでしかなかったんだろう。このことは後に、本性をぼくにさらけ出した充彦から言われたんだけどね。


 後悔先に立たずというけれど、早い段階で充彦にうっかり美玖ちゃんたちのことをしゃべってしまった。それが美玖ちゃんを苦しめて……あの充彦のことだから、視界に入ってしまえば一緒だったかもしれない。何も隣の公立校へ入学しなければと、何度思ったことか。


 その充彦も予想外だったのは死亡者を――殺人犯を出してしまったことか。父さんからそれとなく伝え聞かされただけだから詳細までは知らないけど――本家にいる父親に相当絞られたらしい。それが充彦の最後の遊戯へと繋がって……操り人形の一つになっていたぼくでは、非難もできないな。


 女子たちだけじゃない――男子たちも、充彦には玩具でしかなかった。女子たちとは違った方法で充彦にコントロールされていたわけだから。大概が女子の分配を目当にしていたわけだから、男子たちの非は充彦に劣らない。そこれこそ文芸部部長は充彦の口車にあっさり乗って、最期を迎えたわけだから。


 彼の末路はともかく、他の取り巻きたちは本性の押さえが利かなくなっていた。充彦不在になった後、もう一度美味しい思いをしようと思う者たちが非行集団を作っていった。まさか充彦もそんな彼らに足元を掬われるとは思いも寄らなかっただろう。大学生になった非行集団が、薬物を使用した裏稼業に手を出すとは。


 充彦の進学から徐々に疎遠となったから詳しくは知らない。噂を聞いた限りでは、充彦の義理の兄が係っていたらしい。義理の兄弟の間柄を想像たくましく思考実験するなら、仲の悪さは容易に想像がつく。まあ事件化した際、容疑のかかった義兄は遠方に逃げてしまったらしい。充彦に擦り付けたままで。


 その義兄は仙台で見つかった。その地の名士一族に迷惑をかけていて、東北の地に羽田野家が手出ししないことになった。いや、バカの義理の弟のせいだったか?

 いずれにしろ北の名士一族との抗争も止めた。そのおかげで羽田野の家中では、手打ちを取りまとめた充彦の実弟に期待が集まるようになったとか。


 方や失点続きの充彦は、焦る気持ちを持つにようなったんじゃないか。その証拠に職を得た後、とある女性にのめり込んで……やはり北の地で馬鹿をやった。その陰で父さんが一枚も二枚も噛んでいたらしい。


 充彦は頭がいい。欲望を満たすための話ならば。だから一族の秘術を持ちだしておいて、あちこちに穴のある計画を実行した。しかし門外秘の情報が、明るみに出かねない結果をもたらした。


 同時に充彦を通じて羽田野の家中で足場を確立したかった父さんが、苦境に立たされたのは自明だった。充彦のブレーンとも言えそうなポジションに押し込められたことで、一挙に汚名を晴らそうと考えたんだろうけど……責任を取らされてしまった。


 充彦に謹慎が言い渡された裏で、父さんとの連絡は途絶えた。美玖ちゃんの父親も手にかけさせたんだ――さんざん手を汚してきた、父さんの終わりはこんなものだろう。


 そんな父さんでも世迷言をぼくに話したことがあった。たしか北の地へ向かう直前のことと記憶いしてる。美玖ちゃんの母親の朱美さんを死に至らせたことは、勿体なかったと。


 朱美は巻き添えだった――悔し気に語る父さんを、ぼくは心底軽蔑して見ていた。ヨシの父親の敬二さんだけを亡き者にしたかった――羽田野家の恥部を暴きたてたい金をせしめようとする彼だけを。ただ朱美さんが独自に動いていた結果、羽田野家の暗部とかち合ってしまったのだと。


 何を今さらというのが、ぼくの本音だった。ぼくの実母ママはずっと泣いていたというのに。家庭を顧みず、あちこちに女を作っておいて、何を悔いているのかと。どの女も妻でさえ、出世のための道具にしておいて。それこそ美玖ちゃんも。


…………羽田野家には感謝している。父さんと一蓮托生にされなかった恩はあると。まだ学生でしかなかったぼくへ、援助を申し出てくれた羽田野家の縁戚には。充彦と疎遠になる――そんな思惑を持っていたけれど。ただ……充彦の実弟を推すこの縁戚の後ろ盾がなければ、美玖ちゃんを――イヤ、姉さんをここまで回復させることはできなかった。


 廃人同様になった姉さんを簡単に、充彦はぼくに引き取らせた。それも充彦アイツにはただの愉悦の種だったんだろうけど。一人では背負いきれないぼくを、笑いものにでもするために。


 確かに簡単にはいかないものを感じたんだ。だからりヨシに連絡を取り、ヨシの覚悟を見た。共に背負うために。けど、それは姉さんが回復するまでの話。そして今度こそヨシに引導を渡し、姉さんはぼくの下で……


 そのために充彦から盗み出していた秘術を姉さんに施して――徐々に回復していく姉さんに、ヨシを誤認させた。ヨシをハルと、ハルはハルと……

 もちろん他の治療も行えるよう、羽田野家の縁戚を頼って姉さんを療養所へと入れた。その代償として――いや、ぼくの希望で医術を志した。


 猛勉強のかいあって精神医療の道へと進むことができた。しかし姉さんと触れ合う機会は、ヨシにかなり譲ることになってしまった。それでも姉さんに植え付けた誤認が役立ってくれていた。だというのに……天命はヨシを選んでしまった。


 自分を取り戻し切った姉さんから聞き出した中に、一枚の写真が切っ掛けになった話があった。その写真を送って寄こしたのが、充彦の北の敵だった――そう聞いて唇を嚙むしかなかった。ぼくは今でも充彦の側なのかと。


 そんなことない、嬉しい――姉さんは言ってくれたが……結果はこの通り。これからもヨシに勝てないのかと思うだけ、自分に腹立たしくなった。


 それで慰みにとヨシのことを振りかえる。ヨシは常に姉さんを傍に置きながら……ヨシは姉さんを見ていない素振をする時があった。蔑ろにしてるとは言わないが、態度は冷たいものだった。同じことを感じた同級生からこっそり相談を受けたことは、両手で足りない。


 ところが小学校の上級学年になると、姉さんがヨシに付きまとっているというチクリに変わったんだった。ぼくのところには代わるがわる女子がやってきて姉さんを悪し様に罵っていた。彼女たちの中に、昨日まで姉さんの親友だったはず女子まで居たんだ。だから女子というものが怖ろしく見え出した。


 そんな女子たちの一部が……ぼくに姉さんをヨシから奪え……そんなことを言ってきたんだった。怖ろしさに負けて、初めは唖然として聞いていたのだけど……いつの間にか、ぼくは美玖ちゃんへの気持ちを意識させられてしまった。気持ちを膨らませていくぼくはチョロく……………………彼女たちには見えたはずだ。


 ははは……深く思い返せば思い返すだけ……自分の愚かさに情けなくなる。ヨシはともかく、姉さんには――


「あっ、ハルノブ! ここにいた!」

「――あっ、ああ、待ってたよ、梨月りつ

「もう! 医局行ったら、誰も行先知らないって。とっても探したんだから!」

「ごめん、ごめん。ちょっとトイレのつもりが、姉さんに付き合わされてさ」


 廊下の突き当たりから顔を覗かせた女性は、日比谷ひびや六華りっか――ぼくの婚約者。ただ彼女も充彦の被害者だった。


「今日こそ、お義姉さんに会わせてくれる――約束よね?」

「約束したよ。ただ姉さんは、自分の悩みが大きくて――」

「もう、そればっかり!」


 プンプンという表情でこちらに梨月が近づいてくる。逆ハの字に合わないおしゃれな服装に身を包んだ梨月だけれど、その右手首にはデザイン的に不自然なリストバンドが着けられている。それは梨月があまたのきずを隠している証左だった。


 姉さんより少し早く、充彦が壊した女子いた。それが公立校の一つ上の学年にいた日比谷六華だった。六華はテニス界で期待の新人と世間に噂が流れたほどで、そして充彦の慰み者にされた。六華という真名さえ封じてしまうほどの、大クラッシュな壊れ方だった。


 充彦は当然のように面白みを失したおもちゃを簡単に捨ててしまう。六華も同じように廃棄した。だから練習台にと、ぼくがこっそり拾ったんだ。


 初めは見様見真似だった羽田野家の秘術が、みるみる上達した。しばらくして、一時的な記憶喪失になった過去を持つ別人格梨月として回復した。その後は幼子のように身近にいたぼくを慕い、いつしかぼくから離れなくなった。


「だっ、大丈夫だ。今しがた、その悩みは解決したらしい」

「らしい? それ、本当なの? だいたい、お姉さんはどこなの?」


 六華であった頃の彼女にも恋人はいたらしい。恋人にはとても横柄だったらしいのだが。けれど充彦の誘導を受け、その恋人を手酷く振ったと六華が懺悔したことがある。今の梨月は若干その頃の空気を出しているように感じる。ただ甘える時は謙虚を通り越して……


「この病室の中」

「ここ? 佐久間、義彦……どう見ても男性に割り当たった部屋よ? どういうことかしら?」

「それは――」


 梨月にはあまり姉さんの男性関係は教えていない。それは六華を苛んだ記憶にも触れてしまうからだ。そんな結果をまた、招きたくはない。姉さんに最後のショックを与えたのは――他ならないぼくだと、今は理解しているから。


「姉さんには好きな人ができていた。その相手がこの中の病人だ」

「本当なの?!」

「あっ、ああ。だから、声、大きい」

「あ、ごめん……こほん、じゃあ、お邪魔しちゃ悪いわね」

「そうだな。ここを離れようか」

「そうしましょ。でも、次こそは、お義姉さんにあいさつさせてよね?」

「解ってる」

「ほんとかしら……」


 簡単に信用してくれない梨月に気づかないフリをして、ぼくは梨月の肩を押してヨシの病室を離れた。心の中で呪文を唱えながら。


――――ぼくは、梨月と生きるよ。だから――――


――――バイバイ、美玖ちゃん――――

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僕らのカイソウ記 亖緒@4Owasabi @4Owasabi

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