第3話
第三章 欠けた星の下で
フィレンツェの夜は静かだった。
石畳が冷たく光を反射し、街のあちこちで灯るランプが星のようにきらめいていた。
修復室の中で、陽菜は一人、筆を握っていた。
目の前の絵画は、修復途中のまま佇んでいる。
「壊れたものは、それで完成している。」
ミヤモトの言葉が、また頭の中でこだました。
「でも…それでも。」
陽菜は筆先を見つめ、かすれた声で呟いた。
そのとき、修復室のドアがノックされる。
「まだ帰らないのか?」
ドアを開けて顔をのぞかせたのは、アレッサンドロ・ミヤモトだった。
「ええ、もう少しだけ。」
ミヤモトは修復室に足を踏み入れ、壁際に立つ。
薄暗い部屋の中で、彼の視線は陽菜が手掛けている古い絵画に向けられていた。
それは星空の下、静かに佇む女性を描いた作品。キャンバスの中央に深いひび割れが入っていた。
「面白い絵だな。」
「『欠けた星の伝説』が描かれているんです。」
陽菜はキャンバスを見つめながら続ける。
「夜空に輝く星の中には、生まれたときから欠けている星があるそうです。欠けた星は完全にはなれないけれど、他の星よりも強く光るって。」
「欠けているから、光が強い…か。」
ミヤモトは小さく頷き、絵に描かれた星を指でなぞる。
「この絵も、火災で部分的に焼けたものです。でも、中心に描かれた女性の顔だけは奇跡的に残ったんですよ。」
「それは偶然かもしれないし、必然かもしれないな。」
ミヤモトは指先でひび割れをなぞりながら、ふっと口角を上げる。
「こういうものは、直すべきか残すべきか…迷うだろう。」
「ええ。完璧に修復するべきか、傷を生かすべきか。」
「その答えを見つけるのは、時間がかかる。」
ミヤモトの声は静かだったが、どこか遠くを見つめるようだった。
「ミヤモトさんは、あの教会をどうしたいんですか?」
陽菜が問いかけると、彼は一瞬、沈黙する。
窓の外を見つめながら、遠い記憶を辿るように口を開いた。
「…あの教会は、俺が壊れたままにしてきたものだ。」
「壊れたままでいいと思っていた?」
「いや、怖かったんだ。」
ミヤモトは夜空に目をやる。フィレンツェの街を見下ろすように、教会の尖塔が影のように浮かび上がっていた。
「火災の日、俺は何もできなかった。ただ教会が燃えるのを見ていただけだ。」
陽菜は静かに耳を傾ける。
「それ以来、あの教会に足を踏み入れるたびに思うんだ。俺は、あの日の俺を見つめているだけなんじゃないかって。」
ミヤモトの声には、微かな震えがあった。
陽菜は彼の心の中に、まだ修復されていないひび割れがあることを感じる。
「でも…」
陽菜は絵を見つめながら口を開いた。
「欠けた星も強く輝くように、ミヤモトさんの中にも、きっとまだ光があります。」
ミヤモトは驚いたように陽菜を見つめる。
「壊れたままでも光が差し込むなら、その光が誰かを照らすこともあるはずです。」
ミヤモトは短く息を吐いた後、少しだけ笑った。
「お前は強いな。」
「強くなんてありません。ただ、ミヤモトさんの話を聞いて思ったんです。」
陽菜は筆を握り直しながら、小さく微笑んだ。
「私も昔、大切なものを失いました。そのとき、何もかもが壊れたように感じて、修復士になろうと決めたんです。」
ミヤモトは静かに頷き、窓の外に視線を戻す。
「なら、一緒にやるか。」
「え?」
「教会の修復だよ。お前も手伝うだろ?」
陽菜は驚きのあまり声を失った。
「…ノーOKカット!」
「なんだそれ?」
「なんとなく言ってみました。」
ミヤモトは目を細めて、わずかに笑う。
「悪くないな。そっちのほうが、少し気楽でいい。」
「ふふっ…」
星が瞬くフィレンツェの夜。
欠けた星の下で、二人の物語はまた少し前へ進んだ。
――欠けたままの星も、強く輝く。
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