あれから一年……06
「オメガの地位向上の機会でもあるんです。人種差別がなくなるきっかけはいつも、なにかしらの事件が起きます。どうしてでしょうね、人間は事件がないと考えを改めるチャンスを得ることできない動物のようですね」
やはり安井は博識だ。同時にわかりやすく教えてくれる。まるで学校の先生のようで、だからこそ安心するのかもしれない。
安井が聞いてくれるから、心の声がコロリと落ちる。
樟は清涼飲料水から伝わってくる涼しさを掌に閉じ込めて、俯いた。
「でもそれで耀一郞さんが大変なことになってます。記者会見でも酷いことを言われてしまいました」
「大丈夫です、彼は強い人です。それにネットでは記者が酷いという意見で埋め尽くされています。親のことをどうして息子にここまで謝罪させるのかと」
「そ……なんですか?」
未だに上手くインターネットから欲しい情報を引き出せない樟は驚いた。マスコミがテレビで流すコメントだけがすべてだと思っていたが、他にも意見を言える場所があるのか。
「そうです。だから安心してください。樟さんが今一番しなければならないのは、自分の治療に専念することです。配偶者さんもそれを一番望んでいますよ」
オメガの発情不全は心因性によるものが多いと安井に教えて貰った。オメガであることを無意識に拒絶し身体に過度なストレスを与えてしまっている場合に、ホルモンが正常に分泌しなくて起こるのだという。
薬での治療もあるが、合う薬を見つけるのに時間がかかり、副作用でさらにストレスを蓄積させてしまうことが多い。まずはストレスを取り除くことが先決で、自分を受け入れることが大切というが、樟はどうやってこんな自分を受け入れて良いのか分からない。
オメガであることで家族を苦しめてしまった。
オメガだったから弄ばれてしまった。
こんなにも汚い自分をどうすればいいか分からない。
耀一郞が大事にしてくれていると感じていても、自己肯定感は低空飛行を続けている。
彼が本当に愛しているのが久乃ではないかとの疑念が拭えない。
ベッドの中で好きだと、愛していると囁き続けてくれるが、自分のどこに彼の心を射止めるところがあるのか、わからない。憐れな子供に手を差し伸べるように、愛されない樟だから愛したいと言ってくれているのだろうか。
また表情を暗くして俯いた。
「心配事はそれだけじゃないみたいですね。僕は樟さんの主治医ですよ、しかも守秘義務で他言はしません。社会常識くらいは持ち合わせてますので力になれると思っているんですけどね」
穏やかにすべてを優しく受け止める彼らしい言葉にフッと表情を綻ばせて、樟は首を横に振った。
耀一郞がまだ久乃を好きなのかもしれないなんて、安井には絶対に言えない。
また目を伏せて落ち込んでいると、指ばかりが長い手がくしゃっと樟の頭を撫でた。
「言いたくなったらいつでも頼ってください。でも、一番は自分の気持ちを伝えたい相手にぶつけることなんですけどね」
「……ぶつけて関係が壊れたら……怖いんです……」
「樟さんがそういうことを言うときは決まって配偶者さんに関してですね。ぶつければいいと思いますよ。壊れたらそれまでですし、そこから再構築だってできます。ただ受け入れるだけが愛じゃありませんから。二人で育てていかないと」
「そだ、てる?」
不思議なことばかりを安井は言う。壊れてしまったものを再構築なんてできないのに……樟の家族がそうだったから、どうすればいいかなどわからない。
「お茶碗は壊れてしまったらもう元に戻れませんよ」
「でも直すことはできます、接着剤とかありますからね。形のないものだって同じです。互いが直したいと思えばくっつくことができます。そして、無形だからこそ、自分たちにぴったりの形になっていくんです。それが家族じゃないのかなと僕は思います」
優しく笑うだけの安井の言葉からは確信が滲み出ていた。その理由が樟にはわからない。どうして壊れてしまうかもしれないと怯えないのだろうか。久乃との関係が壊れることが怖くないのか。
そんな疑問が顔に出ていたのか、安井はコーヒーの缶に口を付けると遠くを見つめた。
「久乃は思ったことをなんでも口にしてくれるんです。あれは嫌だこれは嫌だ、これが好きだこうして嬉しかったと、なんでも。僕はそれが嬉しいんです。人の心は目に見えません。こうかなって予測しても正解とは限りません。兄弟であっても違う感じ方、考え方をします。だからこそ、言葉にするしかないんです。それが一番の正解ですから」
「あ……」
樟は自分の気持ちを出すのが怖かった。劣等性のオメガが言うことなど誰も聞いてはくれないと諦めていた。耀一郞からの要求を受け止めればいいと、彼がなにを考えなにを感じているかも確認しようとしないで。
樟は自分のダメさ加減にまた落ち込んだ。
「好きな人の要望を叶えられるのは、男としての勲章なんです。特にアルファにとっては大事なことなんですよ。僕たちアルファはどうしても我が強くなりすぎることがあります。自分たちが否定も批難もされないので、つい暴走をしてしまうんです。したいこと、感じたことを口にしてくれるのは、相手への優しさなんだと、僕は久乃に会って初めて知りました」
快活な久乃と穏やかな安井。とても素敵な家族の姿だと思った。けれど樟が知らない場所で、彼らは自分たちに心地よい関係を築く作業を行っていたのだろう。
耀一郞と自分はどうだろう。
彼からはたくさんの言葉をかけてくれる。不安を少しでも抱くと安心させようと様々な言葉を労してくれる。今回もそうだ。隆一郎の件で樟が煩わされないよう車の手配をしてくれた。すぐに困ることがなにかを訊ねてくれた。答えれば困らないようすぐに手配をしてくれた。
怠惰なのは、自分だ。
臆病なのも、自分だ。
耀一郞は背中の醜い傷跡まで愛したいと言ってくれたのに。
「僕が思ったことを言っても、耀一郞さんは怒りませんか?」
「うーん、それはわかりません。僕は樟さんの配偶者ではないので。でも、喧嘩になっても良いじゃないですか。喧嘩するほど仲がいいという言葉もあるくらい、胸の内をぶつけ合えるのは大事なことなんです。でも一番大事なのは、相手の不満を受け止めて互いに改善することですから。一方の不満を受け入れ続けてはそのうち疲れて関係が破綻しますから」
ギクリとした。そうだ、それで破綻したのだ自分の家は。
離れて客観的に思い出せば、それがすべての原因だったように思う。オメガを家族としたくない父が母を責め続けた。兄もそれに倣った。
調査会社からの報告書では、母は長いことノイローゼになっていたらしい。母方の祖父母は「子供がオメガのなにが悪いんだ。男と女くらいの違いでしかないだろう」と父を叱ったが、家への出入りを拒み、一層母を責めたそうだ。
心が疲れた母は思い詰めた結果、樟を殺して自分も死のうと考えたのだろう。そして、あの日がやってきた。
『死のう、樟。ママと一緒に死のう』
あの後を樟はなにも覚えていなかった。次に記憶に刻まれたのは窓から落ちていく母の爪先だ。
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