番外編1

あれから一年……01

「あなた、だったのですね」


 小野おの耀一郞よういちろうは社長のための重厚な皮椅子に腰掛け、オークでできたデスクに肘を突いた。手を握り合わせ、目の前の男を見つめる。相手は書類を手に変わらず柔和な笑みを浮かべたままだ。驚きはどこにもない。さも、この瞬間がやってくることを知っているように。


 上層階にある社長室には地上の喧騒は届かない。

 今頃多くの記者がエントランスに詰めかけていることだろう。それでも、この空間には静寂が揺蕩っている。


「父の忠臣だと思っていました」


 耀一郞も表情を変えずに言葉を続ける。

 相手の反応を注意深く観察しているが、いつもと変わらない柔和な姿勢を崩さない。いや、崩す必要を感じないといったところか。掴み所がなく、その本心をうかがうことができない。

 とても優秀なベータ。それが彼への評価だ。

 そう、とてつもなく優秀な。

 緊張した空間にあっても、慈しむような笑みを浮かべたまま、そっと目だけを伏せた。


「さすがアルファ、というべきでしょうか。はい、この騒動を引き起こしたのは、私です」


 秘書は、けれど後悔などしていないと言わんばかりの態度だ。


「そうですか。なぜ今になってと伺っても」


 彼の処遇は決まっている。しかし、父の信奉者であり忠臣である彼がなぜ、飼い主の手を噛み切ろうとしたのか興味があった。


「社長は一つ勘違いをなさっておいでです。私が信奉しているのは前会長、貴方のお爺様です。前会長より隆一郎りゅういちろう様を支えて欲しいと頼まれたのです」


 ここまで築き上げた会社を任せるには、眼前の享楽にしか興味がない息子では心許ない。だからといって有能なアルファに城ごとかっ掠われるのも気に入らない。

 そこで祖父が目を付けたのはベータとしてあまりにも優秀なこの男だ。

 手塩に掛けて次期社長のサポートができる人間に育て上げた。

 会社は社長がどれほど無能だとしても回るようになった。不況の煽りで右肩下がりになっても、決して赤字に転じることがなかったのは、ひとえにこの男が踏ん張っていたからだろう。


 しかし秘書がしていたのは会社のことだけではなかった。享楽以外に興味を示さない雇用主の私生活の面倒もまた、見なければならなかった。

 どれほど残酷にオメガを陥れても、弄ぶだけ弄んで捨てたとしても、注意などできなかった。これがアルファの性だと言われてしまえば咎めることができなかった。傷ついた愛人たちを病院に連れて行くのもすべて彼だった。


「私は会長にはなにも申し上げませんでした。むしろ、あちらに目を向けている間は会社のことに口出しをしないので助かるとすら思っていたのです。けれど……」


 会社の第一に思う感情が揺らいだのだ。


「男ならば欲に溺れるのも本能だと思っていました……孫娘の顔を見るまでは。あの子がベータなのかオメガなのか、まだわかりません。けれど会長が興味を示したならば餌食になってしまう。その時を思い描いて自分が目を瞑り続けてきたことが怖くなったのですよ」


 だから、隆一郎の愛人たちに声をかけ、週刊誌に売り込んだ。

 それによって会社の名前にきずが付いたとしても構わない、と。


「貴方はしきりに私としょうの関係をたずねてきました。父に情報を流すのではと私は疑いました。……逆だったのですね」

「はい。もし樟様にも手を出そうとするならば、それすらも告発の材料にしようと思ったのです」


 ウーマンリブが騒がれて久しく、女性の権利がどれほど向上してもそこにオメガは含まれない。アルファにとって脅威であり同時に魅力的なその存在を意のままにするために、権力者たちは彼らに権利を与えなかった。

 このどこまでも優秀な男はそれにすらメスを入れようとしているのか。

 隆一郎が愛人たちにしたことが、事細かに写真と共にベータの有名編集長を擁する雑誌に掲載された。すぐにネットで騒ぎになり、誰も沈静できないままアルファの意見など振り切って様々なメディアが小野電機工業に詰めかけている。


「同時に、社長が会長と同じ嗜好の方ならば、ご一緒していただこうと思っておりました」


 しれっと恐ろしいことを口にした秘書に、耀一郞は苦笑せざるを得なかった。


「首の皮一枚で繋がったというところですか」

「菊池製作所の不正にいち早く気づき制裁を行いました。それでも樟様をお側に置かれていらっしゃる。一度は疑いましたが、結婚式よりもずっと幸せそうに笑うあのお方を見て、安心いたしました」


 確かに近頃の樟は、以前に比べて笑顔を向けてくるようになった。はにかんだような照れたような愛らしい笑みを耀一郞に向けてくれる。それを見られていたというのか。


「もしやあの日、帰れとせっついたのは、父に変な動きあると知ってのことですか」


 あの日――菊池きょうが樟を「躾け」と称して感情のままに殴った日だ。社内で突如トラブルが起き、その対応をしなければならないはずなのに、秘書は帰るように耀一郞を促したのだ。いつもよりも早い時間に。


「会長が樟様に接触したとの知らせが入りましたので。なぜトラブルが起きたのかも存じております」


 隆一郎の息がかかった人間が引き起こした社内システムの異常。後の調査で耀一郞も知ることになったのだが、その前に彼はすべてを把握していたのか。


「社内には貴方の目と耳がたくさんあるのですね。感服しました」

「私の、ではありません。貴方のお爺様が遺したものでございます。近い未来に社長に引き継がれることになっております」


 祖父はとことん実子である隆一郎を信用していないということか。苦笑を禁じ得ず、組んだ指で隠すが、それを見て秘書もまた笑みを深くした。勇退の時を知っているとばかりに。

 彼は今回の騒ぎの責任を一身に引き受けるつもりだ。その勇ましさを失うのは社として大きな損失でしかない。


「それは時期尚早です。貴方にはまだここで頑張って貰わなければならないのですから」

「そうはいきません。彼らに辛い思いをさせた一端を担ったのは、間違いなくこの老害なのですよ」


 父の愛人たちがどれほどの非道を受けているかを知っていて止めなかった責を負うつもりか。


「彼らへの謝罪や補償は小野家が行います。その財源の確保への尽力を代償と考えて欲しいのです、私は」


 小野家の財源といえば、この小野電機工業であるのは明白だ。いくら都内に不動産を有していても、それを切り売りできない事情は秘書が一番知っている。


「素晴らしい経営者でございます、社長は」


 秘書は苦笑して窓の外へと目を向けた。

 なにを見つめているのか耀一郞にはわからない。けれど彷徨わせた視線が固定し、いつもと違う、人間的な温かみを帯びるのが見て取れた。

 すべてを口にしなくても、優秀な彼ならばどうすべきかは理解しているだろう。


「今少し、老骨に鞭を打つといたしましょう」

「貴方の手腕を学ばせてください」


 耀一郞は笑みを深くした。つられて秘書も口元に皺を刻む。


「近いうちに父の件で記者会見を行います。手配をお願いします」

「かしこまりました」


 秘書は深く頭を下げ、部屋を出た。その目の端に光るものがあったように見えるが、耀一郞は口にすることなく、ノートパソコンを開いた。

 どれだけ世間が騒いでいようとも、仕事は毎日山のようにある。その一つに手を付け始めた。

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