05.美味しいご飯03
「はぁ……どうすればいいんだ」
天を仰ぎ、しかし天恵は下りてこない。
これまで彼にひどくしてきたしっぺ返しを喰らったような気持ちになった。
井ノ瀬に叱責されてから態度を改めようと自分にできることをしてきた。
何もなかった部屋をインテリアコーディネーターに依頼し、服も用意した。けれど、それ以上なにをすれば良いか分からなくて、この一ヶ月強を悶々として過ごしたのだ。
見舞いに行けば良かっただろうが、どんな顔をしたら良いのか分からなくて――いや、違う。怖かったのだ、樟と対面するのが。
彼が寝ている時に何度も訪れたが、井ノ瀬から目を覚ましたと連絡を貰ってから怖くて近づけなくなってしまった。
症状は逐一連絡を貰ったし、カウンセリングを始めたとも教えられた。それが余計に耀一郞を怖じけさせた。
思い起こせばすべてが配偶者に対するにしては不適切な対応で、それを詰られるのが怖くて仕方なかった。
後悔してもしきれない。
耀一郞が樟にしなければならなかったのは、この生活への同意だ。それも取らず結婚し、オメガ憎さに苛立ちをすべてぶつけた。なに一つ罪のない彼に。ただオメガというだけの彼に、過去の苦しみを晴らすような行動を取った。
そして井ノ瀬に指摘されるまで気付きもしなかった。
「私はなんて愚かなんだ」
今更だ。後悔したところで樟にしたことを拭い去るなんてできない。その証拠に樟はあんなにもまずいものを我慢して食べ、心にもない賛辞を口にしなければならなかった。
おにぎりくらい作れると思ったのだ。
具材を焼いてご飯で包めばできあがりだと思った。
まさか焦げるとは思わず、定番の形にするのすらできはしなかった。
樟は毎日綺麗で美味しそうな料理を作って食卓に並べてくれた。一度として口を付けずに捨て続けたのは耀一郞だ。作る労力を考えもしないで。
あの人が知ったらきっと目を吊り上げて耀一郞を叱っただろう。
思い出して奥歯を噛み締めた。
開けてはいけない記憶の箱が耀一郞にはある。悲しくて悔しくて辛い過去の映像と感情を押し込んだその蓋が、ずれた。
僅かな隙間からパンドラの箱のように記憶が湧き出てくる。
耀一郞は爪が食い込むほど拳を握り込んだ。
あの人にも樟にしたのと同じことをした。そしてある日、あの人は姿を消した。
樟もそうなるのだろうかと考えたとき、なぜか怖くなった。
印象的な大きな目を配した樟の顔には、一度として笑顔が出てこなかった。瞼を伏せて小ぶりな鼻も唇も俯いて耀一郞から隠そうとしている。そうさせたのは紛れもなく耀一郞の今までの態度だが、怯えた仕草のすべてが痛ましかった。
「どうしたらいいのだろうか」
これから優しくしたら少しは心を開いてくれるだろうか。
心を開かせて、その後どうするのかまでは考えられなかった。ただ現状を脱しなければならないことばかりが頭を占める。
今まで耀一郞は人間関係で苦労したことがない。アルファである耀一郞に対して周囲は褒めそやすばかりで、他者の機嫌を取る必用はなかった。就職した後も御曹司と持ち上げられ、何を口にしても同僚も上司も否を唱えなかった。
アルファであるが故に、人として大切なことを失っていたことに気付いた。
同時にどれだけ自分が傲慢で、それが許される環境で胡座をかいていたかも。
嘆息してデスクチェアの背もたれに身体を預けた。
目を閉じれば思い出すのは小動物のような仕草を見せる樟の姿だ。耀一郞にも気付かないで病院の廊下を歩き、小さな声で看護師に話しかけている姿は頼りなくて、守らなければと思わせる。その上、声をかけただけで跳ね上がるほどに上がった肩に怯えたまま振り向いた時の表情は、耀一郞の胸を締め付けるほど悲壮だった。
絶望すらその面に浮かべてるのを目の当たりにすれば、自分がどれだけ嫌われているかを思い知るしかない。
後悔する一方で、怯えなくても良いんだと抱き締めたい衝動に囚われた。
小さな身体をこの腕に閉じ込めたらどうなるのだろう。小さな頭が耀一郞を見上げたときにどのような表情を見せてくれるのだろうか。
不思議だった。
誰にも抱いたことのない感情がなぜ沸き起こったのか、理由がわからない。
ただ、振り向いたときの樟の顔が異様に目に焼き付いた。
耀一郞はスマートフォンを手に取ると井ノ瀬に掛けた。
すぐに電話は繋がった。
「聞きたいことがある」
『おいおい、その前に名乗れよ。社長になってから態度が悪くなっているぞ』
「……すまない」
『それで。どんなことを聞きたいんだ。樟さんの肺炎は完治しているし、血液検査も問題なかったぞ。痩せ過ぎだからあと十キロは太った方がいいし、筋肉をもっと付けた方がいいが、それはさすがに病院ではできないから』
先回りしてどんどんと話す井ノ瀬の面倒さが伝わってきたが、無視をした。
「カウンセリングをしたと言っていたな。どんなことを言っていたんだ」
打てば響く快活な井ノ瀬が口を噤んだ。今までにないほど長い沈黙のあと、溜め息がスピーカーに流れた。
『それは配偶者であっても話せない。本人の了承がない限りは誰にも言えない』
「なぜだ!」
『内面的すぎるからだ。それに、ただ利用するつもりのお前が知る必要はないじゃないか。そのうち離婚するつもりなんだろう、時期が来たら』
今までにない友人の冷たい言葉にぐうの音も出ない。
だが知りたい衝動に駆られた。
「私は配偶者だ、知った方がいい人間だぞ」
『守秘義務ってもんがこっちにはあるんだよ。そんなに知りたいなら本人に聞け。話してくれた時、お前はたっぷりと後悔しろ』
吐き捨てるように言うと、そのまま電話が切れた。
「……もう充分後悔している!」
画面に怒鳴りつけて、ハッとした。隣は樟の部屋だ、聞かれはしなかっただろうか。
心配になり部屋を出てそっと樟の部屋の扉を開けた。緩やかな陽光が差し込んだ部屋の中は静かで、人の気配はない。そっと中に入れば、ベッドが僅かに膨らみ、その中で樟が穏やかな寝息を立てていた。細い身体を抱き締め丸まりながら。
それは訪れた病室でも見た姿だった。
細い腕で必死に自分を守っているようなその姿に、庇護欲が掻き立てられる。丸まって眠るのは精神的なストレスの現れの可能性があるという。常に不安を纏うその心を包み込みたいと願うのはなぜだろう。
自分でも持て余す感情を抱いたまま、耀一郞は顔にかかるふわりとした髪を掻き上げ、愛らしいというにふさわしい顔をずっと見つめた。小さな頭を撫でながら。
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