03.気付かぬ現実01
ゴホッゴホッ。
喉に絡んだ痰が上手く出せずに咳が続く。
頭が痛く、身体が熱いのはわかっているが、体温計も薬もどこにあるのかわからない。樟はぐったりとした身体を布団の中で丸め、ぼんやりとカーテンのない窓から空を見た。
西高東低の冬型の気圧配置による晴天が広がっている。透き通った青がどこまでも続き、そのまま吸い込まれそうだ。
今日も世界は綺麗なのだろう。
だというのに、高層にあるこの部屋は実家と違い、外からの音が一切入ってこない。時折飛行機が上空を通り過ぎるジェット音が響くだけ。
だから、扉が閉まる音が家の中によく響く。
(耀一郞さん、出社したんだ……起きなきゃ……)
そろそろと布団から抜け出し、リビングに移動する。ダイニングテーブルにはなにもなく、樟はいつものようにダストボックスを開けた。
「……しょうがないか」
早起きして作った朝食は今日も手を付けられないままその中に入っている。
流しには汚れた皿とコーヒーを飲んだ後のマグカップが置かれている。
樟は閉じようとする瞼を必死に押し上げ、シンクに立った。
お湯を出し、置かれた食器を洗い始める。
食洗機が併設されたシステムキッチンだが、どうやって使うのかわからないからすべて手洗いし、乾燥機能だけを使う。汚れたシンクを磨いた後、トーストを一枚、オーブントースターに入れた。
これが樟の朝食だ。
食パン一枚。
それを水で流し込み、軽く家を掃除する。
定期的にハウスクリーニングが入るため、フローリングワイパーで床を撫でるだけだが、少しでも耀一郞にとって居心地の良い空間となるため毎日やっているのは、自己満足だ。
「いただきます」
両手を合わせてからトースターから取り出したトーストを、シンクに向かって口に運ぶが、上手く飲み込めない。途中で咳き込み、乾いたパンがコロリと水が残ったステンレスの上に転がっていく。
二週間前から咳が出始めていたが、病院には行っていない。
そのうち治ると願ったが、日一日と悪化していき、とうとう今日になって樟は朝食を食べることを諦めた。もったいないが囓ってしまったトーストをどうするか悩み、ラップで巻いて冷蔵庫の中に入れた。
夜になって食欲が戻ったら食べればいい。
汚してしまったシンクを綺麗にしてから、今日の夕飯を考えた。
年末の今、耀一郞はとても忙しく深夜に帰ってくればいいほうで、会社に寝泊まりしていることもある。
「大変だから、ちゃんと食べて貰いたいだけなんだけどな」
和食が好きじゃないのだろうか。いろいろと考えるけれど、結婚してから半年、一度も箸を付けて貰えない料理たちが入れられたダストボックスを見るたびに、樟は悲しい気持ちになった。
なにもしないほうがいいのだと理解していても、なにもしないままここにいるなんて小心な樟にはできない。
「買い物、行かないと……ゴホッゴホッ!」
背中を丸めて咳をして、それでも喉の奥に閊えがある不快感から立て続けに咳を繰り返した。思い切り息を吸い込むと、ヒューヒューと嫌な音が体内から聞こえてくる。
久しぶりの体調不良に危険信号が脳内で点滅しても、病院に行く選択肢が、樟にはなかった。
病院がどこにあるか、わからない。検索をすればすぐに出てくるだろうが、樟は通信機器を持っていなかった。むしろそのような贅沢品はオメガに分不相応だとスマートフォンはおろか、パソコンすら持ったことがない。
その上、保険証もない。なによりも、診察のための現金がなかった。
「大丈夫、そのうち治る……大丈夫、大丈夫」
母親が子供に言い聞かせるような口調を、何度も何度も自分に向けた。
自然と諦めるために薄い笑みがパッとしない顔に浮かぶ。気付いて、すぐに笑みを引っ込めた。
一番近いスーパーが開くまで少し寝ていよう。
咳を繰り返し、壁にぶつかりながら自室へと戻る。カランとした部屋の中、フローリングに直に敷いた布団へと転がる。
じんわりと上がってくる冷気が妙に心地よい。小さな枕に頭を預けて、ゆっくりと目を閉じた。やらなければならないことを失えば、気力は一気に抜けていき、指の先まで泥を詰めたように重くなる。
(このまま溶けてなくなってしまえばいいのに)
湧きあがる負の感情。
昨夜見た耀一郞の冷たい眼差しを思い出して、小さく唇を噛んだ。
(なんでオメガなんだろう……)
オメガなんていいことはない。仕事に就けないし、常に後ろ指をさされて生きていかなきゃならない。なに一つ自分が望んだことではないのに。
樟はこの世界で珍しい男のオメガだ。女ならば守ってやらなければと思うアルファがいるかもしれないが、性別と第二性の相違を受け入れる人間はそう多くはない。
きっと耀一郞もそうなのだろう。
だから辛く当たってくるのに違いない。
(でもしょうがない……オメガなのが悪いんだから……)
酷い咳が喉から突き出て自然と身体を丸める。発作が治まると激しい運動をした後のような疲労が広がり、さらに指先が重くなる。
これでは耀一郞に迷惑をかけてしまう。わかっていてもどうしようもない。
もし樟がオメガでなかったら、この結婚はなかっただろう。男同士で結婚できるのはオメガだけと法で定められているから。そうして今頃、親の会社に入って兄の助けになれるよう勉強を頑張っていたかもしれない。
けれど樟はオメガだ。人間の出来損ないと言われる、オメガだ。
会社のことに携わるどころか、家から出るのすら禁じられた。
「なんで僕、オメガに生まれたんだろう……ベータが良かったな」
ベータなら、誰も何も言わない。普通に生きることすら怒られない。輝かしい未来が広がり、決められないほどの選択肢が目の前に並べられているのだろう。平凡な日常が繰り返される毎日はどんな感じなのだろうか。
憧れて、けれど決して手に入らないそれを夢想して目を閉じた。
現実を見ないために。
またしても咳が飛び出て喉を焼く。
「早く治れ……早く……」
掠れた音で繰り言を口にする。
冷たい空気を吸い込むたびに出てくる咳の合間に、少しでも早く治さなければと思う一方で、このまま治らなかったらどうなるのだろうと不安がもたげる。
(べつに治らなくてもいいかな……誰も心配なんてしないし……)
オメガに優しい人なんていない。
樟は唇を噛んでグッと涙を堪えた。泣いたら……泣いていたのが見つかったら、耀一郞もきっと叱るだろう。オメガのくせに感傷に浸るなと。存在が無意味なくせに人間の振りをするなと。涙が零れないように目頭に力を入れ、幸せな夢が訪れるのを願うしかなかった。
ベータとして、当たり前の幸せを送る優しい夢が訪れるのを。
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