第2話

 人間の根源的な才能である『慣れ』という力は本当に恐ろしくて、もはや男は1週間も経てば辺境の地での生活には慣れてしまった。

 食事はパンを中心とした質素なもの、時々ジャム、ヨーグルトがつくこともあるが大体はパンとじゃがいもがゴロゴロと入ったスープがパンと一緒についてくる。

 男が懸念していた学業の方だが、家から車で30分くらいの所に小中が合同になった本当に小さな学校が一つだけある。ここも男が住んでいる所と同じくして、ポツンとしたところになぜか建っている。

 教員は7人、生徒は20人。ずいぶんな大所帯なものだ。

 これだけの田舎なのに週末になっても全く生徒はおろか、教員すら顔を合わせないのだから、一体全体どこにすんでいるのだろうかと疑問に思う。

 けどもそれ以上に問題となったのは他でもない、言語である。

 男自身においてもそれなりの訛りといったものを有していることは自覚はしていたのだが、そこにおける訛りはひどいものであった。男が喋る言語とはまるで別なのだ。

 激しい抑揚、聞き馴染みのない言い回し、信じられないほど短縮した単語、他人に見境なく攻撃するような口調になっているのは、ここに住む人たちの気性が荒いのではなくて、その言語的な特徴によるものだと気が付いたのは、もっと後であった。

 さながら北欧の言語を聴いているような気分に男は陥る。

 まるで異世界にいるような信じられないような感覚に。


 ○


「アヴィー、最近の学校の調子はどうなんだい?」


 アヴェリエがジャガイモや近くでとれたいろんなものを煮込んだスープを台所で鍋に向かながら喋る。


「結構いいよ。クラスメイトは優しいし、学校の教師たちもエディンバラよりも数倍いい。こんな言い方良くないかもしれないけど、僕の想像していた通りだった。どこまでも情に溢れている」


「いいじゃあないか」


 アヴェリエは十分に煮えた鍋の火を止めて小さな食卓に移す。アヴェリエとアヴィモアの二人が座るので精いっぱいの大きさである。長い間その場所で役目を果たしていたのか、机の表面は数えきれないほどの大小さまざまな傷が星空のように無数に存在している。机の脚はどうやら不均衡らしく、いつも不安定でガタガタと机は音を鳴らす。

 アヴェリエが作る料理はいつも何かが足りていなかった。もちろん、アヴェリエの住んでいる場所などを考えれば食料が十分に調達できないというのは幼いアヴィモアの頭脳でもわかるような話ではあった。では具体的には何が足りないのかと問われても、彼にはそれの明確な答えを見出すことはできなかった。

 このスープも同じようなことが言え、彼にとってそれは十分に腹を満たすものではあったが、心までもは満たしてくれるほどのものではなかった。

 もちろん、彼にはそんな不義理で、常識はずれなことを彼女に言わなかった。というより、言えるような関係性にはなっていなかった。


 〇


 季節はゆるりと過ぎていき、いつの間にか冬に近づこうとしていた。庭に生えている貴族の屋敷のような巨大な木もいつの間にか赤く染まり、風がそれにあたるとひらひらと大きな雪片のようにゆっくりともったいぶるように地面に舞い落ちる。

 アヴィモアはその木が大好きだった。夏の間は混じりけのないきれいな緑で統一され、そこに水色にも青色にもとれるような雲一つない空が木の葉や梢から見え隠れする景色は彼がここに来てよかったと心底思える要因の一つでもあった。


「どうだい?」


 木の根元で寝っ転がるアヴィモアの横に、家事をひと段落終えたアヴェリエが昨日町で買ってきた本を小脇に抱えて彼の横にふうと一息つきながら座った。


「よくそこに寝っ転がっていたさ」


「アヴェリエが?」


 アヴィモアは目を閉じながら彼女に聞く。


「違う」


「じゃ、誰が」


 彼女は彼の母親の名前を挙げた。


「ふーん…」

「僕の母さんが」


 アヴィモアは何とも言えない曖昧な返事をして頷いた。


「また寂しい季節がやってくるねえ」


 嫌そうな物言いのわりにアヴェリエはずいぶんと楽しみにしている。


「でもなんでそんなに嬉しそうなの?」


「そりゃ嬉しことがあるからに決まってんだろう?」

「お前がここに来たから、うれしいんだぞ」


 アヴィモアは改めて自分の存在意義が認められたような感じがして、嬉しさを感じつつも何とも言えない恥ずかしさが心の中で渦巻いていた。


「じゃあ寂しくないんじゃないの?」


 無邪気なアヴィモアはそう聞く


「お前にはまだわからんだろうな」

「手放しに喜んでいるからと言って、寂しくないわけじゃないんだ」

「喜びや幸せっていうのは二面性がある。そのような感情は単純なものではなく、様々な苦悩や苦しさが渦を巻いて出来上がっているんだ」


 まだ幼い彼にとってアヴィモアの言っていることはよくわからなかった。


「じゃあその『寂しさ』っていうのを感じなければいいんじゃないの?」


「ガハハッ」


 アヴィモアは全身を揺らして豪快に笑う。


「お前もたまには鋭いことを言うもんだね。


 アヴェリエにとってアヴィモアの言葉はまだ難解であった。

 庭にある木が、少しづつ寂しい音をかき鳴らしながら枝をこすり合う。

 まだ空は明るいのに、庭にある木ははっきりとディテールを写していない。


 〇


 その年もクリスマスがやってきた。もうアヴィモアにとってアヴェリエは『祖母』ではなく『母』のような存在であるし、彼らが住んでいる家もまた、『第二の故郷』ではなく『本当の故郷』のような存在であった。

 庭にある木はもうすかっり冬の模様で、冬の空は夏よりもさらに水色に近い。


「どうだい?高校は」

「…まあ普通かな」

「……ずいぶん曖昧な感想だな、私はもっとデティールを欲する」

「そんなのないよ。朝早くから学校行って、勉強して、昼飯友達と食って、また勉強して、帰り道友達とダベって、帰ってくる。場所は変われどもやってることは同じさ」


 高校生になったアヴィモアはアバディーンにある全寮制の高校に通っている。彼らの家からは毎日通うことなんて到底出来っこない。アバディーンの高校はそんなアヴィモアと同じような境遇に置かれている人たちが集まってきている。この高校もエディンバラにある高校ほどの大きな規模ではなく、全校生徒はほぼ顔見知りのようなものである。けれども、歴史だけはスコットランドトップで少なくとも記録上は17世紀からは存在している。と、禿散らかした校長がまるで自分の手柄かのように鼻高々に語っていた。

 それでも、アヴィモアは半年ぶりの実家に非常に満足していた。エディンバラでは何もかもが自由で、新鮮で、麗しかった。けれども、彼にとってそのような「新しい刺激」というのは痛み以外の何物でもなかった。


「どうだい、久々の『我が家』は」


 改めてアヴェリエが聞く。


「あまり変わらないね」


 感情をできる限り抑えながら、慣れ親しんだ味のスープをそそる。


「もう年の瀬だねぇ」

「なんだか、一年がどんどん早くなっている気がするよ」


 しんみりしながら彼女はそう嘯く。


「ああ」


 彼はそれに空返事で答える。

 「そういえば、キンロックの様子はどうなんだ?」

 キンロックとは、アヴェリエの夫である。彼は軍に属しており、もう4年も家を空けて、遠く離れた名前も知らない中東の国で従軍している。


 「さあねえ、まだ銃でもドンパチ撃っているんじゃないのかい?この前来た手紙には砂漠の景色だったり、美しい街並みのことばっかり書いてあって、肝心なあいつの身の話を一切していなかったからねえ」


アヴェリエはキンロックに対して、まるで不干渉のようにあまり相手をしていないように見えるが、心の中では深く心配しているのは、アヴィモアからも見て取れた。


「ったく……一体全体、何やってんだかな…」


「さて、クリスマスにこんな話してたら、主も悲しむだろう。やっぱし、クリスマスなんだから、少しでも明るく過ごさなきゃいかん。そろそろクリスマスケーキでもつくろうかえ?」


 アヴェリエは訛交じりの言葉でそう聞いた。

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