アンドロイド375

ジェン

アンドロイド375

 ――ここに来ると思い出す。



2014年12月4日



 ドアを開けると、芳醇な香りが鼻腔を貫いた。


 外は寒い。

 学校帰り、冷たい風に凍えた身体を温めるため、普段は縁のないカフェに立ち寄ってみた。


 暗い色を基調とした木製の柱、壁。

 それと同調するようにちりばめられたインテリア。

 対照的に真っ白なカップと食器が収められた棚。

 レトロな雰囲気のカフェだ。


 2人掛けのテーブル席に腰を落ち着けると、雑多なインテリアの中に古くさい蓄音機を見つけた。


 流れているのはジャズのようだ。

 なんの曲かは皆目見当もつかないが。


 しかし、それにしても寂れたカフェだ。

 ティータイムにはちょうどいい午後3時を回っているというのに、客は俺1人だけだ。

 大通りに面しているとはいえ、2階にあるせいだろうか。


 メニューを開こうとすると、眠そうなウェイトレスが欠伸を噛み殺しながら水を持ってきた。

 2、3秒ほど伝票とペンを構えたが、俺がまだ注文を決めかねているのだと察するとそそくさと離れていった。


 さて、何にしようか。

 コーヒーは眠気覚ましによく飲む方だが、正直キリマンジャロやブルーマウンテンと書かれていてもよくわからない。

 きっと味の違いもそんなにわからないだろう。


 値段には幅があった。

 財布の事情も考慮して、メニューの中で一番安いものを飲むことにした。


「すみません、オリジナルブレンドを」


 結局、俺が注文したのはオリジナルブレンドだった。

 オリジナルという言葉に惹かれたし、何より無難そうだったからだ。


 俺が言葉を発してすぐ、カウンターの奥で注文を待ち焦がれていたマスターは手際よくコーヒーの準備を始めた。

 カウンターに隠れてしまって手元はよく見えなかったが、コーヒー豆を挽いて湯を注いだかと思うと一層鼻腔を刺激する香りが強くなってきた。


「お待たせしました、オリジナルブレンドです」


 ウェイトレスがコーヒーカップと一緒に持ってきたのは、そのへんに転がっている小石のような黒糖の塊。

 コーヒーとよく合うのだろう。


 立ち上る湯気と一緒に一口コーヒーをすする。


 美味しい。

 やはりまだコーヒーの味はよくわからないが、美味しいと思った。


「はぁ……」


 ここにいると落ち着く。

 帰り道に脳内を埋め尽くしていた悩みが、今では嘘のように消えている。

 雰囲気もいい。

 誰かと話をするにはちょうどいい場所だ。


 今度、あいつを連れてこようかな、と思った。



2014年12月11日



 1週間後、俺はあいつ――美奈子をカフェに誘ってみた。


 別段深い理由はない。

 ただ、あいつの笑った顔を一度くらいは見てみたかったのだ。


 美奈子は小学校からの幼馴染。

 中学校、高校と一緒に上がってきただけであって、大した関係があるわけではない。


 とはいえ、美奈子とは長い付き合いだ。

 ちょっとした雑談をするくらいの仲ではある。


 それなのに、俺は美奈子が笑っているところを見たことがない。

 全くの無口なわけでない。

 ただ笑わないのだ。


 だから、美奈子は同級生から「アンドロイド」のあだ名で呼ばれている。

 確かに、しっくりくる。

 彼女はどう思っているのか知らないが、なかなか「アンドロイド」のあだ名が似合う女子はいないと思う。


「どう?」


「うん、美味しい」


 美味しくもまずくもなさそうにコーヒーをすすりながら、美奈子は答えた。


 やはり笑わないか、この程度じゃ。

 それはそうだ。

 だって、今まで笑ったことがないんだ、こいつ。

 いや、もしかしたら笑ったことはあるのかもしれないけど、少なくとも俺は一度も見たことがない。


「お前さぁ、本当にアンドロイドなんじゃね?」


「……どういうこと?」


 美奈子はわずかに眉をひそめた。


「笑わないじゃん、お前。ってか、笑ったことある?」


 少し上を向いて考える美奈子。

 やはり表情らしいものは浮かばない。

 何を考えているのか読み取れない。


「わからない。でも、楽しいことはなかったと思う。だから、笑えないんだと思う」


「ふーん」


 あくまで興味なさそうに言ったが、俺は内心合点がいった。


 美奈子が笑わないんじゃない。

 美奈子を笑わせるものが周りにないんだ。


 考えてみればそうだ。

 楽しいことがないのに笑えるはずがない。

 楽しいことがあれば美奈子は笑えるはずだ。


 だが、美奈子も普通ではない。

 普通の人間なら楽しいと思うことが楽しいと思えない。

 だから笑えない。


 それなら――


 俺は心に誓った――美奈子に楽しいと思わせてやろう、美奈子を笑わせてやろう、と。



2019年12月6日



 大学4年生になり、もう就職先も決まった。

 あとは卒業を待つのみだ。


 思えば空虚な数年だった。


 大学受験には失敗し、入りたくもない大学に入った。

 サークルに入るわけでもなく、ただただ適当に授業を聞き流して単位を取った。

 特にやりたいこともなく、無難な会社に就職することにした。


 そういえば、最近楽しいと思うことがなくなった。

 笑うことが少なくなった。


 いつからだろう――ふと歩みを止める。


「懐かしいな」


 見上げたのは、5年前によく通っていたカフェ。

 今ではめっきり行かなくなってしまったが、当時コーヒーの美味しさに目覚め行きつけになっていた。


 笑うことが少なくなったのも、このカフェに通わなくなった頃からかもしれない。


 懐かしさと肌寒さから、俺は久しくカフェに立ち寄ることにした。


 ウェイトレスはいない。

 当時より白髪の増えたマスターが1人会釈をしただけだ。


「オリジナルブレンドを」


 ここで初めて注文したのもオリジナルブレンドだった。

 通い詰めるうちにメニューを制覇したが、結局これが一番美味しかった。


 注文して間もなく、コーヒーカップが運ばれてくる。

 一口すする。


 美味しい。

 あの頃と変わらない美味しさだ。


 ――でも、どうしてだろう。


「どうしてだよ……」


 コーヒーを一口飲んでから、涙が止まらない。


 あの頃の記憶が次から次へと蘇ってきて、胸の奥深くに封じ込めていた記憶まで思い出してしまった。


「どうしてだよ、美奈子……」


 思い出した、俺が笑わなくなった理由を。

 そうだ、美奈子がいなくなったからだ。


 最初は何も感じなかった。

 まるで本当にアンドロイドが壊れたかのように思っていた。

 アンドロイドが壊れたって、涙を流す必要はない。

 俺が死んだって、きっとアンドロイドは涙を流さないだろうから。


 でも、美奈子はアンドロイドじゃないんだ。

 悩みだってあるし、苦しさや辛さも感じる。

 楽しければ本当は笑うことだってできたんだ。


 俺は後悔している。


 どうしてあいつの闇に気付いてあげられなかったのか。

 どうしてもっと素直になれなかったのか。

 どうしてあいつの前で笑えなかったのか。


 簡単なことじゃないか。

 俺が笑ったらあいつもつられて笑ったかもしれないのに。


 それなのに、あいつの前で笑ったら負けな気がした。

 意地になっていた。


 後悔しても美奈子は帰ってこない。


 結局、俺はあいつのことを何も知らなかった。

 一番近くにいたはずなのに、何も知ることができなかった。


 ただ1つ――唯一俺が知っていることといえば、アンドロイドは最後まで笑わなかったということだ。

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