凶神‐kyo−jin‐

桜舞春音

凶神

 この夜は、何かがおかしい。


 師走になると、彼の勤める高校でも期末試験、成績決定、追試連絡、進路行事と仕事が増える。ここに税金だったり年賀状だったりもろもろの日常雑務がついてくるわけだが、毎年毎年何をしているのだろうと、少しあほらしくなる。


 高校は駅に近い。だから彼も、電車で最寄り駅から通う生活だ。


 午後10時。終電も見えてくる時間になると、急行電車でもガラガラ。古いだけとは思えない、ドコドコという音を立てながら電車は発車した。


 愛知県は大手私鉄名鉄めいてつの牙城。

 急行新鵜沼しんうぬま行から、神宮前じんぐうまえの駅で急行一宮いちのみやに乗り換える。

 須ヶ口すかぐちまで乗れば、家路。

 

ブーッ、ブブッ


 神宮前を出たところで、携帯がなった。この特徴的なバイブはおそらくLINEだと思う。


『仕事お疲れ様! 今栄なんだけど、これない?』


 それは妻からのLINEだった。


『いけるよー。地下鉄でいくね』


 妻は栄にある名古屋のシンボルマークのひとつ、オアシス21の真横にあるオフィスで働くキャリアウーマンだ。結婚前、まだ彼が非常勤の新米教師だった頃は家計を支える大黒柱であった。


 つぎの金山かなやまで降りて、地下鉄に乗り換えると、一〇分くらいで栄に着いた。


 夜の栄。まだ眠らない街には、昼間降っていた雨の名残が血溜まりのようにテールライトの赤色を反射している。フォーマルな革靴が鳴らす音が、街の鼓動につながるような気がしたその時、ふとなにかを感じて振り返った。


 何もいない。

 それでも都会の目障りな程のネオンが弾けるその下で右往左往する人混みの中に感じた一筋の違和感。

 彼は寒いのもあって、薄茶色のコートの襟をきつく握りしめて歩調を速める。

 それでも街の違和感は消えなかった。


 彼は生まれつき五感がひとより敏感である。とりわけ嗅覚は格別に鋭かった。

 嗅ぎ馴染みのあるガソリンと食べ物の匂いの中に、少し甘く……いや、炭に水がかかってジュクジュクと燻るような苦い、いやそこに少し酸い……よくわからない、とにかく嗅いだことのない”匂い”がする。


 妻の待つバスターミナルまではあと少し。

 その時だった。


 都会の穴。人が消えた、閉館後のホールのガラスの向かい側に、影が立ってこちらを見ていた。足が影に向かおうとする。


 ぴしゃん、


 革靴の先が水たまりを引き裂く。川のように広い一直線の橋の先にある影に向かって、重い足が向かう。まるでモーゼの開いた海底を渡り未知の世界へ踏み出す人々のようだった。ただ違うのは、彼がその影と自分自身しかこの世界に認識していない点である。

 冷たい空気が二人の間を隔てる。あと数メートル、というところで、彼は影と目が合った。


 それは、影ではなかった。

 認識した途端、今まで微かにしか感じていなかったあの奇妙な匂いが襲いかかる。

 肌のない、ベトベトした液体に濡れた骨と臓器だけの存在。左右で本数がバラバラな肋骨の中にグチャグチャと鼓動する大きすぎる心臓の様相。首から上はほぼもぎ取られていて、目玉はないのに、圧倒的に目が合っているという感覚がする。

 

 匂いで頭がくらくらする。気持ちが悪い。吐きそうだ。だけど同時に、この先にものすごい快感があるかのように胸が高鳴っていた。

 忘れかけたように仕舞われていた性欲が爆発するような、それとも寝起きの口の中の気だるさか、どうも曖昧な感覚をもたらす”それ”は、この名古屋の、現実の夜には勿体無いほどに誘惑だった。


「半助!!」


 途切れていた海は、妻の声で形を戻した。


 今立っている海底に再び海水が流れ込んできて足をすくわれるような浮遊感が彼を襲う。同時に、口のない”それ”が微笑んだように見えると、彼はホールとオアシス21の直ぐ側の広場を繋ぐ橋のまんなかで座り込んでいた。雨がまた振り始めて、淡々と血溜まりのように灯りを反射する雨水が、真新しいスーツにひどく染みている。


 びしょびしょじゃない、と心配する妻の声はうろ覚えに聴こえ、まるでその声のほうが夢のように思えるほど、もう消えた”それ”を探す彼の目線は鮮明だった。


 翌日。

 昨晩の大雨が嘘のように、街は冬らしい薄い色の空に照らされた。

 年の瀬、季節はずれに降り注いだ記録的大雨に濡れた彼は風邪を引いて寝込んだが、頭は空と同じく美しく澄み切っていた。


 昨日感じたあの匂い。

 昨日見たあの”なにか”。

 昨日迷い込んだ世界。


 あれが夢だったのか、神だったのか、悪魔だったのかは分からない。見た目はそう随分と悪魔的ではあるが。


 それでも、彼がまたあれを探すことはないだろう。

 あの形のない笑顔に、なにか懐かしい、諭されるような感覚を覚えたから。

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