第27話 湯布院グルメ千年物

 キューブを飛び出して野茉莉を押し倒す。

 それをなしたのは悠花であった。


「っ、はあ、はあ」

「なんね、あんたの方なん? 愚かな選択をしたもんやね」


 セラフィーナの方は温泉の床に倒れている。

 それを見て野茉莉は失望したという風な表情を向けている。悠花には一切、目もくれない。

 この場で警戒すべきだったのはセラフィーナただ一人だ。力の大半を使って保持していた結界はなくなった。

 もはやハンターの攻撃は意味をなさない。本来、野茉莉の異能はそれくらい強力なものだ。

 セラフィーナという強力な古い吸血鬼を閉じ込めておくのに七割の力を使っていたのだから、それを全力で使えるようになってしまったら誰の攻撃だって通らない。

 人間の悠花になんて一瞥する価値もなければ、警戒を払う必要すらないのだ。


「えっ……」


 だから、首筋に噛みつかれて初めて野茉莉は自らの失敗を悟った。


「いただきます――」


 解けるように悠花の姿がセラフィーナの姿に変わっていく。逆はまるで脱皮するかのようにセラフィーナの皮を背中から破いて血まみれの悠花が現れた。

 変化は吸血鬼の基本能だが、それで他人にかけることはできない。変化できるのは異能でもない限りは自分のみ。

 セラフィーナだってそうだ。しかし、そこはセラフィーナ、自らの皮を念動力で綺麗に剥いで悠花に被せた。


 一部体格状問題もあったが、遠くで倒れていれば問題ない。自分の皮は再生で即座に戻したので気が付かれず、そのまま悠花に変化し、芳香の異能で匂いを誤魔化して接近。

 人間だと油断している吸血鬼の首筋に噛みついた。

 噛みついてしまえば、どんな相手だろうとも麻痺の牙から逃れることはできない。


「っぁ……んっ……」


 何より、吸血鬼では一生感じることはないであろう吸血の快楽を初めて味合わされる。

 千年生きた吸血鬼でも未体験のそれは、首筋に突き立てられた牙から血流と神経、骨を伝って頭蓋の内側で乱反射して脳を攪拌する。


 自分の魂とも呼べる血を飲まれているという背徳が、感覚により深みを持たせ切れてはならない最後の一線を切らせてしまう。

 足がぴんと伸び、たまに痙攣する。身体の制御を完全に失って、抵抗できない。それどころか、もっと欲しいとすら思ってしまう。


 耳元で感じるセラフィーナの甘い吐息と、鼻孔を擽る爛熟した女の香りが正常な思考を奪っていく。

 これは魔的に過ぎる。


「ぅ、はあ、はぁぁ……ああ、ダメだ、お兄様のこととか、福岡のこととか聞かなきゃいけないのに、自制できない。あはっ……もういいやぁ、全部、全部吸いつくすよ」

「な、んぁっっ――」


 対して吸っている側のセラフィーナは、キューブの中に閉じ込められていたという期間分の空腹でもう自分を抑えられない。

 その上に悠花を生かすために血を与え続けた。一日三食をもらうはずが、一日三食を与え続けていたのだから、自制などできようはずもない。


 何より野茉莉の血は美味い。

 千年もの間、生き続けた大吸血鬼の血は芳醇で濃密な最高級の赤ワインだ。

 長い時間を生きて様々な経験をしたのだろう。上品で複雑な味わいが鼻孔から喉を通って全身へと満ちていく。


 肉もまた格別だった。突き立てた時に感じた柔らかさは、ましゅまろのようにふわふわでもちもちとしている。

 触れ合った部分全てがすべすべとしていて、ただそれだけで涎があふれ出してセラフィーナの形の良い顎を流れていった。


「んっはぁ……」


 全て合わせて、思わずため息をついてしまう美味しさだと感動を覚える。

 長く生きて来たが、これほどの味にはついぞお目にかかったことがない。

 身体に生気が満ちていく。失われていた分の血が補充されていく。

 髪は燦燦と輝き、皮膚はさらに瑞々しさを誇る。

 気を抜けば意識が飛びそうになる。頭の内側があまりのおいしさに破裂しそうだと錯覚する。


「あぁ、美味しい……――」

「ぁ、ぁぅ……ぁっ、こげなん、しりゃんんんっぁぁっっ!」


 対して野茉莉はもはやまともに言語すら発せられない。

 長く生きて来たからこそ、吸血の快楽に抗えない。

 いつ終わるのかとも知れない快楽を浴びせられ続けるのだ。もはや身体反応はびくんびくんと痙攣することのみとなってしまったかのよう。

 だらりと舌から垂れた涎、瞳から無意識に流れ出す涙。

 セラフィーナは、それすらも啜る。そして、口から血の糸を引きながら笑う。 


「もっともっと生きようとして! もっと血を作って! いっぱいボクが満足するまで、いっぱい、いっぱい吸わせて! あははは!」


 吸血鬼の血は長く生きた者ほど高い生命力を有するがゆえに量が多い。吸った端から次の血があふれ出しくる。

 セラフィーナは、千年分の歴史そのものを吸いつくさんと首筋に噛みつき続けた。


「ぁ……ぁ……」


 死ぬ。

 このままでは死ぬ。

 そう野茉莉の冷静な部分は言っている。早くこの状態から抜け出さなければ死ぬ。


 刻一刻と自分の中から失われていく血という命の残量。吸いつくされる速度は、造血速度を超えている。

 もう残り幾ばくかの命。

 千年も生きて、こんなところで死んで良いのかと思うところもある。


 エーヴェルトからの『セラフィーナを痛めつけて泣かせて、いっぱい写メ送ってきてね』という意地の悪い指令を果たせないのはどうでもいいのだが、音夢と遊ぶという約束を果たせないのはいけないのではないか?

 そもそもエーヴェルトがそういうのならこいつは敵なわけで、そんな奴にむざむざ負けてよいのかと、殺さなければならないだろう、血盟のためならなどとつらつらと――。


 そんな正常な思考はしかして次の瞬間に頭蓋の内側を抉るような快楽の波と目の後ろ側からスパークするシグナルによって呆気なく木っ端みじんに砕け散って吹き飛んだ。


「あぁぁ……も、いいぁ……えへ――」


 嚙みちぎるほどの強さで咬合され、最後の一滴を吸いつくそうと吸われて。


「あぁ……ごちそうさまでした」


 後に残ったのはつやつやとしたセラフィーナと、干からびてミイラのように朽ち果てた野茉莉だけだった。

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